原爆投下に対する日米の認識落差

編集後記

原爆投下に関する日米の認識の落差

 【編集後記】



 みなさん、こんにちは。先週のメルマガのこの編集後記で映画「オッペンハイマー」のことについて書いたので、もうそれでやめておこうと思ったのですが、同時上映されたバービー人形のSNSで原爆をお笑いのネタにして配給元のワーナーブラザーズが謝罪して投稿を削除するなどの新たな波紋が広がり、これはやっぱり紙面で記事にしておかなくてはならないなという気になったので、今週号の1面と5面で原爆投下に関する日米の認識の落差をしっかり書き留めておくことにしました。西海岸ワシントン州のリッチモンド高校の校章は、なんとキノコ雲。同校のあるハンフォードは、戦時中長崎に投下された原爆の製造工場があった町で、同町の住民の多くは町の歴史に誇りを持ち、生徒たちのほとんどが今なお、原爆を落としたアメリカは、第二次世界大戦を終わらせたヒーローであると信じています。日本人としてはなんともやるせない思いですが、戦時中に旧日本軍もまた原爆開発を進めていたという事実は日本の国民にあまり広くは知られていませんし、伝えられていません。日本陸軍は1939年4月に陸軍航空技術研究所の安田武雄所長が理化学研究所(理研)の仁科芳雄教授に原爆の研究・開発を持ちかけています。仁科博士は日本にウランがないことから断りますが、戦局が悪化した陸軍は1943年、起死回生策として原爆に望みを託し再三に渡り打診、仁科は原爆開発を受諾します。研究班には後にノーベル賞を受賞をする湯川秀樹や朝永振一郎がおり、研究を断れば彼らも戦地に送られる可能性があったそうです。仁科の名から「ニ号作戦」と名付けられました。一方の海軍は1942年に核物理応用研究会を発足させ京都帝大(現京大)の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託しましたが「米国でも今度の戦争中の原子爆弾実現は困難」との結論を出し、1943年に断念しています。そんなことが本当にあったのかと思い、今から30年近くも前になりますが、まだ私が前の会社にいた頃、ワシントンDC郊外のベセスダにある米国立公文書館に行って調べたことがあります。インターネットもまだなかった頃で、日付とタイトルを係員に伝えると1時間くらい待たされ、段ボール箱5箱ほどがカートに乗っかって運ばれてきました。そこには戦時中の朝鮮半島のホーナンという町における旧日本陸軍の地下軍事施設に関する米軍の英文資料がありました。地下は街のようになっていて工場、病院、学校などがあったと記され、民間の軍事雑誌には、日本軍は日本海で原爆の実験を行い、ほのかなあかりがポーっと曇り空で光ったとの記述がありました。私の前職のデスクが「傍証されることのない歴史上のナゾ」という名見出しを付けていました。そのことについては、後日、理研は東京で記者会見を行い「原爆の研究はしていたが実験はしていない」と明確に否定し、日本の新聞の社会面に小さなベタ記事で報道されたのを覚えています。故エドウィン・O・ライシャワー元駐日米国大使は後年「核兵器開発は、戦時中どこの国も進めていて、最初に完成させた国がまず最初に使うだろうと思われていた」と語っています。日本が核兵器の製造に成功していなくてよかったです。世界で核の脅威が高まる現在、世界のなかで唯一の被爆国の日本ですが、結果的に被害者になっていただけのことかもしれません。まかり間違えば加害者になっていた可能性も一歩下がって知っておくことは無駄ではないでしょう。歴史は変えられませんが、未来は変えられます。今週号は盛り沢山です。それでは皆さんよい週末を。(週刊NY生活発行人兼CEO、三浦良一)

【今週の紙面の主なニュース】(2023年8月12日号)

(1)「原爆の父」功績描く 広島長崎惨状触れず

(2)俳優・柳楽優弥に映画界貢献賞 JAPAN CUTS

(3)盛岡市が観光促進PR 8月26日ジャパンビレッジ

(4)増えつつある学部段階の米国留学 冷泉彰彦

(5)国連大使とNY総領事表敬訪問 南魚沼の中高生

(6)原爆を許すまじ NYで平和集会

(7)高校の校章にキノコ雲 原爆製造工場の町今も

(8)旧日本軍も原爆研究 理研に「ニ号作戦」

(9)バービー映画 ファンSNS投稿 原爆をお笑いネタに

(10 )日本人女性起業家の対米進出応援 梅原靜香さん

「原爆の父」功績描く、広島長崎惨状触れず

「オッペンハイマー」全米で封切り上映中

「京都に落とすのはやめよう。新婚旅行に行ったんだ」(客席笑い)
「被爆者に見せられたもんじゃない」(日本人観客)

 映画「オッペンハイマー」が全米で上映されている。ピュリッツァー賞を受賞した伝記「オッペンハイマー『原爆の父』と呼ばれた男の栄光と悲劇」(カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン)を基にクリストファー・ノーラン監督が脚本を執筆した。日本での公開は未定。第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られる。映画ではハーバードの研究所で学者としての頭角を表しながら科学者として原子爆弾を製造、実験していく様子が描かれ、科学者チーム4000人が3年間かけて製造した爆弾がどれほどの悲劇的な惨状を生み出すことになるのかについての科学者たちの想像力の欠如が如実に描かれている。原爆を投下する日本の候補地12都市の中からどこに原爆を落とすかを決める会議で「京都は外そう。文化遺産が多いし、私がハネムーンに行ったとこだから」という選考委員の発言に映画を見ていた観客から笑いが起こる。オッペンハイマーは「想像を絶する破壊力を知れば、恐ろしくてそれを使おうとはしないだろう」というのが本心だったと後に語っているが、原爆は広島と長崎に落とされた。映画でその事実は「広島に原子爆弾が落とされ多くの日本国民が死亡し、これからまだまださらに死者が出る模様」という聞き取りにくいラジオ放送の声が流れるだけで、キノコ雲の映像も、焼け野原になった広島の爆心地の映像も、被爆者の記録写真も映画では一切映し出されない。戦争早期終結の最大の貢献者として英雄となるオッペンハイマーの姿と歓喜に沸く米国民、研究仲間たちの誇らしい笑顔が映し出される。映画を見た日本人観客からは「被爆者に見せられたものではない」「京都を残そうと言うところは笑うツボじゃない」と怒りをあらわにしている。米国では同時封切りとなった「バービー人形」実写版のSNSでヘアスタイルがキノコ雲になった投稿画像も波紋を広げている。

俳優・柳楽優弥に映画界への功績賞

JAPAN CUTS

 ジャパン・ソサエティー(JS)で8月6日まで開催された、北米最大の日本新作映画祭 第16回「JAPAN CUTS(ジャパン・カッツ)」において4日夜、柳楽優弥主演の日本・モンゴル・フランス合作映画『ターコイズの空の下で(UNDER THE TURQUOISE SKY)』が上映された。上映後には、日本映画界へ著しく貢献した監督や俳優の功績を称える「CUT ABOVE Award for Outstanding Achievement in Film」(映画への卓越した貢献を讃える賞)を受賞した主演俳優・柳楽優弥が登場し、記念の盾が贈られた。

 『ターコイズの空の下で』は、国際的俳優として活動してきたKENTAROが初の長編映画として監督した作品。資産家の祖父を持ち、東京で贅沢三昧の日々を暮らしていた青年がある日突然、祖父によりモンゴルに送り込まれる。目的は第2次世界大戦終了時、モンゴルで捕虜生活を送った祖父と現地女性の間に生まれた娘を探すこと。どこまでも続く美しいモンゴルの草原を舞台に青年の成長を描いたロードムービーである。

 上映後には柳楽優弥とKENTAROが登壇し、質疑応答が実施された。海外で育ち、数か国語を操るKENTAROは全ての質問に流暢な英語で答えつつ、柳楽との掛け合いで観客を笑わせたり、ユーモアのある言い回しで満席の会場を沸かせた。

 CUT ABOVE賞の受賞について柳楽は、「ニューヨークにちょっと留学した経験があるので、大好きなこの街で、この様な賞をいただけてとても嬉しいです。ロードムービーの撮影が初めてで、モンゴルに行ったこともなかったので、監督にはとても貴重な機会をいただいた」、そして「国籍も違い、言葉も通じない環境の中でも『演じる』ということでのコミュニケーションの仕方があるんだなと感じた。とても貴重な経験となった」と話した。

 監督は「モンゴルにはこの10年間に何度も訪れていて、他のアジアにはない文化と自然に魅了され、この国で撮影したいと思った。マイナス40度にもなり、とても寒いこともあるが、モンゴルとは個人的に強い結びつきを感じているので、この映画はラブレターのようなものだ」と話した。

 同映画には、モンゴルのアカデミー賞を3回受賞している人気俳優のアムラ・バルジンヤム氏もガイド役として出演。監督とともに脚本も担当している。

(写真)カット・アバウブ賞を受けた柳楽(右)と監督のKENTARO(Photo Japan society )

盛岡市が観光促進PR

第3回ジャパンビレッジ夏祭り、8月26日(土)2PMから

さんさ踊り実演とわんこそば大会

 ブルックリン区サンセットパークにある日本文化発信のための複合商業施設ジャパンビレッジの中庭(934 3rd Avenue)で、8月26日(土)午後2時から、ニューヨーカーに日本文化を紹介する「2023ジャパンビレッジ夏祭り」が開催される。今年で3回目の開催となるこのイベントは、日本の夏祭りを紹介する目的で行われており、日本の伝統文化であるさまざまなパフォーマンスを披露するとともに、日本の祭りを模した屋台を出店する他、日本の夏の風物詩である「盆踊り」をニューヨーカーと一緒になって踊る。

 第1部は、タローズ折り紙スタジオ、三味線のなつみゆず、殺陣のサムライ・ソード・ソウル、よさこいの紅玉、太鼓の鼓舞、日本舞踊の民舞座が出演し日本の伝統芸能のパフォーマンスを実演する。第2部では特別ゲストとして日本の地方自治体である岩手県盛岡市が参加する。今年1月、ニューヨークタイムズ紙(電子版)が発表した「2023年に行くべき52か所」に、盛岡市がイギリスの首都ロンドンに続く2番目に紹介されたことにより、同紙の発行元であるニューヨーク現地で「盛岡観光キャンペーン」を行い、米国から盛岡を訪れる外国人観光客の促進を図るのが目的だ。地元の伝統芸能である「盛岡さんさ踊り」を披露しコンテストも開催。盛岡名物である「わんこそば大会」を行い盛岡の食文化も紹介する。また、「盛岡ブース」では、英語の観光パンフレットなどを配布し訪日のためのPR活動を行い、盛岡市長が登壇しステージから盛岡の良さを紹介する予定。なお、さんさ踊りコンテスト・わんこそば大会の1位受賞者には、日本往復無料航空券・JR東北新幹線チケット・盛岡市内のホテル宿泊券が進呈される。

 イベントでは、ヨーヨー釣り、おめん販売、おもちゃくじ、綿あめ、かき氷、ラムネ、日本のおかし、焼きトウモロコシなどの屋台が出店するほか、書道・折り紙・茶道・着物試着体験ブースなどワークショップも行う予定。子供から大人まで楽しめるイベントとなっている。雨天の場合は、ジャパンビレッジ2階のイベントスペース「The Loft」にて開催される。詳細はウェブサイト https://japanvillage.com/ を参照。問い合わせはEメールjvnatsumatsuri@gmail.com まで。

増えつつある学部段階のアメリカ留学

 2000年前後までは、日本人のアメリカ留学は大学院段階が主であった。このトレンドに変化が出てきている。契機となったのは、2018年に起きた「御三家ショック」だ。東京の中高一貫校の中で、特に東京大学への合格者を多く出している男子校の「御三家」の一角から、プリンストン大学への進学者が2名出るなど、学部段階での留学の動きが顕著になったからである。この高校の場合は「折角開いたルート」に毎年学生を送り込むことの意義を知らなかったようで、そのルートは途切れてしまっている。

 それはともかく、この「ショック」を契機に多くの勉強熱心な若者が、アメリカの名門大学を目指すようになったのは好ましい。ちなみに、政府の言う「留学生受け入れ40万人、海外派遣50万人」という構想は、「時代の変化に合わせて大学の変革を行うのは無理なのでエリート教育は海外に丸投げ」する一方で、中間層や人文系の大学の定員を補うためには「海外の学生で質と量の確保をする」という発想である。つまり時代遅れとなった日本の教育システムの延命策であって、全く賛成できない。だが、個々の若者が意欲をもって海外を目指すのは大賛成だ。何よりも、人口比で考えると優秀層の英語圏留学はまだまだ少なすぎる。一方で、ここ数年、日本人の留学には好条件の奨学金基金が数種登場しており、こちらは活用が期待される。

 そんな中、ちょうど今はアメリカの各大学にとって新学年の準備期間に当たる。合格者はほぼ確定し、多くの新入生とそのご家族は、入寮準備に奔走を始めておられるに違いない。ところで、この8月から9月に大学に入学する「クラス・オブ・2027」の選考結果は非常に過酷であった。理由としては、1990年代以降、「社会の先行きが不透明になると安定を確保するために高い学歴を狙う」家庭が増えるということが繰り返されたということがある。また、AIの急速な実用化で「人間だけが担える高度に知的な職業」を目指すことの意義が増したということもあり、これは認識として正しい。更にコロナ禍の中で、合格したが入学を1年繰り延べる「ギャップイヤー」を取った学生が数多く繰り越され、初めから今回の入試の合格枠が狭まっていたという。正直にデータを公開しているNYUなどは、2022年から23年にかけて合格率が、12%から8%に下がっている。

 従って、第一志望の「ドリームスクール」に引っかからなかったという「挫折」を経験した学生は例年より多くなっているのは間違いない。仮に専攻が確定し、第一志望校の教授陣に対して依然として師事したいと思うのであれば、とりあえず入学した学校でオールAの成績を取って、転校(トランスファー)を狙うのも一手であろう。いずれにしても、新たに大学生活に入る若者たちには、有意義な学生生活を送って欲しいと願うばかりだ。

 問題はその先である。日本人、日本語話者の学生の皆さんには3つお願いしたいことがある。1つは、将来のキャリアに関しては、必ずしも日本を意識する必要はないということだ。特にAIやデータサイエンス、ソフト、バイオ、宇宙航空、金融などアメリカが最先端を走っている分野の場合は、当面はその最先端に乗って走り続けることには意味がある。2つ目は、それでも日本との接点は維持していただきたいということだ。日本社会の動向をウォッチし続け、できれば人間関係を保ち、自分なりの視点で日本を見つめ、関心を維持していただきたい。3点目は、その上で、時期が来たら、日本での活躍も視野に入れていただきたい。お断りしておくが、日本の企業や社会は、残念ながら海外で獲得した経験や知見を生かす準備ができていない。従って、海外組が日本の組織に入って成功するためには、時には社内政治や外圧を交えた変化球を用いながら、守旧派の妨害や抵抗との戦いにおいて「勝ち続け、変え続ける」覚悟が求められる。抵抗を予め予期し、絶対に負けない知恵と力で日本を変え、日本の遅れた部分を捨てるとともに、優れた部分を引きずり出して、世界に貢献するような決意、海外組に求められる日本への貢献というのは、この点にあると思う。心の中にそのような「炎」を燃やす若者が、どこかでこの9月に大学生活を始めるのではと考えつつ、密かな期待のエールを送りたいと思う。

(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)

南魚沼市の中学生と高校生19人、国連大使とNY総領事表敬

 新潟県南魚沼市の中学生と高校生合わせて19人が米国ワシントンDCとニューヨーク市を訪れた。同市と市教育委員会がニューヨーク新潟県人会(大坪賢次会長)の協力を受けて4年越しの計画を実現したもので、一行には林茂男南魚沼市長、岡村秀康南魚沼市教育長はじめ、市役所職員が同行し、ワシントンDCでホワイトハウスやリンカーン記念堂、アーリントン墓地、スミソニアン国立自然博物館などを見学した。ニューヨークでは4日午前、日本政府国連代表部に石兼公博大使を表敬訪問した。石兼大使は、国連の役割を説明する中で、新潟からの拉致被害者の問題や、ミャンマー、ウクライナとロシア、マリ、中東アフリカの問題など世界中で起こっている問題が単体で存在して発生しているのではなく、開発、教育、平和維持、保健、気候変動などが複雑に絡みあって全てが繋がって起こっているということを述べ、国連の安保理がロシアのウクライナ侵略を止めることができないことに対して機能不全との思いを抱くかもしれないが、国連は力と力の要素を無視できない現実の中で力ずくで問題を解決してもその後の統治ができなければ長続きできないという仕組みを説明。全ての政治は身近なところに戻ってくる、最後は人の問題になってくる、日本が多くの国から信頼されているのはコツコツと努力を積み重ねてきたからだ、日本という国の信頼できるイメージは国の資産。時間はかかるが皆さん一人ひとりがそういう意識を持って生きて欲しいと話した。生徒を代表して井口咲楽さん(国際情報高校2年)が「高校生の私にとってとても貴重な機会をいただき、とても感謝しています。私も海外の人たちから信頼を得られるような日本の代表という気持ちで努力したいと思います」とお礼の挨拶をした。(写真上:国連代表部で、石兼大使(後列左から5人目)と記念撮影)

NY総領事の森大使(前列中央)と記念撮影

 一行は午後からNY総領事の森美樹夫大使主催の歓迎意見交換会に出席するため、総領事公邸を訪れた。森大使はNY総領事館の仕事やニューヨークと日本との結びつき、世界経済の中心地であり情報を世界に発信するニューヨークの特徴などを説明した後「今回の海外での体験は、将来いろいろな分野で活躍する上で必要な広い視野を与えてくれるでしょう。その広い視野を持ってどうやって自分が世の中に貢献できるか考えて成長していってください」と激励した。会場からは外交官になるためにはどうしたらいいかなどの質問が出され、最後に生徒を代表して小島涼さん(六日町高校3年)が「私が今回の事業に参加しようと思ったのは、ニューヨークは芸術など世界の文化の中心地なので、将来は芸術交流の仕事に進むためのアウトプットができるよう自分の見聞を広めたいと思ったからです。将来は日本のよさを海外に広める活動に関わって行けたらいいなと思いました」と挨拶した。ツアー後半の週末は、自由の女神島上陸やメトロポリタン美術館見学、最終日は分散してニューヨーク新潟県人会が迎えるホストファミリー宅に宿泊するなど盛りだくさんの1週間の滞在となり、7日帰国した。

原爆を許すまじ

NYで平和集会

教会の鐘鳴らし祈念

 NY平和ファウンデーション (中垣顕実代表)は、「NY インターフェイス平和の集い」広島・長崎の原爆式典を8月5日、8日、9日の3日間開催した。今年30回目となる式典は、5日午後5時からセント・マークス教会、ナガサキの日を8日ジャパン・ソサエティーで、9日国連教会センターで開催した。

 今年5月に行われた広島G7サミット後、最初の広島・長崎の原爆記念日をこの夏迎える。主催する中垣法師は「ロシアによる核兵器使用の脅威が高まり、ウクライナでの戦争が続く中にあって、今年の原爆記念日は重要なものだと考えています。今年の行事の目的は、コロナ後、孤立状態にある平和を願う人々を集めてピースの輪を再編成し、その輪を広げて新たな調和のビジョンを開いていくこと」と話す。(写真上:広島の原爆投下時刻に鐘が鳴らされ平和行進(5日午後7時15分過ぎ))

広島宣言を読み上げる竹内NY広島会会長

 ニューヨーク東部時間では8月5日、セントマークス教会で松井一實広島市長の広島宣言をニューヨーク広島会会長の竹内道さんが読みあげ、古本武司NY広島県人会名誉会長が祈念講演した。

 午後7時15分、広島原爆が投下された時刻にセントマークス教会の鐘が  鳴り響いた。宗派を超えた僧侶たちが教会の周りを行進し、中庭で浅田石二作詞、木下航二作曲の「原爆を許すまじ」を小池ゆうきのサックス伴奏で歌手のルーラ・レイラさんが歌った。

 8日は、長崎市長のメッセージと基調講演を木下信義NY長崎県人会会長が行った。当日は長崎の平和式典の一部(黙祷と平和宣言など)を中継した。ジャパン・ソサエティーでは津山恵子さんが総合司会を勤めた。9日の基調講演は平和文化を推進するアンワルル・チョウドリ国連永久大使が国連教会で行った。

NYに響く和編鐘

平和の集いでゆきね演奏
まつながまき舞う

 NY平和ファウンデーション (中垣顕実代表)が5日から9日まで実施した「NYインターフェイス平和の集い」広島・長崎の原爆式典=5面に記事=で、日本から今回初めて参加した和編鐘奏者・作曲家のゆきね(有機音)が平和を願う鐘をセントマークス教会で奏でた。

 イーストビレッジでこれまで鳴り響いたことのない和編鐘の音が、教会の空気を優しく包み、神聖なる思いを乗せた音の風が遠い被爆地まで静かに流れていった。和編鐘に合わせて舞を踊ったまつながまきは、殺陣や日本舞踊、白拍子舞などの日本の伝統芸能・文化と即興パフォーマンスを融合させた独自の身体表現で、鐘の舞台と聞き入る客席とを一つに結んだ。心の耳に響く鐘の演奏と美しい舞が芸術作品としてニューヨーカーを魅了した。(三)

旧日本軍も原爆研究

理研に「ニ号作戦」

 米国により広島・長崎に原爆を落とされた被爆国日本だが、日本も戦時中、原爆開発を進めていた。

 1938年、ドイツ人のオットー・ハーンらが原子核分裂を発見。分裂反応による巨大なエネルギーで人類がかつて見たことのない強力な兵器を作ることができると睨んだ米国、イギリス、ドイツは近づく大戦を前に原子爆弾の研究に取り掛かる。

 日本もこの動きを見逃すことなく陸軍と海軍それぞれが原子爆弾研究に取り掛かる。陸軍は1939年4月に陸軍航空技術研究所の安田武雄所長が理化学研究所(理研)の仁科芳雄教授に原爆の研究・開発を持ちかける。世界で2番目となる原子核の研究装置である円形加速器「サイクロトロン」を1937年に完成させた仁科だったが、20億ドルもの研究資金を注ぎ込んでいる米国ですら原爆開発は難しいと思われるのに45億円ほどの日本は使えるウランもないことから不可能と断る。

 しかし戦局が悪化した陸軍は1943年、起死回生策として原爆に望みを託し再三に渡り打診、仁科は原爆開発を受諾する。研究班には後にノーベル賞を受賞をする湯川秀樹や朝永振一郎がおり、研究を断れば彼らも戦地に送られる可能性があった。仁科の名から「ニ号作戦」と名付けられた。

 一方の海軍は1942年に核物理応用研究会を発足させ京都帝大(現京都大)の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託したが「米国でも今度の戦争中の原子爆弾実現は困難」との結論を出し、1943年に断念。

 ニ号作戦も完成することなく敗戦を迎える。連合国軍総司令部(GHQ)は理研や京都帝大などを捜索し「原爆の開発につながる」とサイクロトロンを破壊。研究資料もほとんど持ち去った。仁科と荒勝は広島・長崎に落とされた原爆の威力を知ることになる。ニ号作戦にもF研究にも携わった湯川秀樹は戦後、核兵器廃絶を強く訴え続けた。

 故エドウィン・O・ライシャワー元駐日米国大使は後年「核兵器開発は、戦時中どこの国も進めていて、最初に完成させた国がまず最初に使うだろうと思われていた」と語っている。

(写真)戦後間もなくGHQによって東京湾に投棄された日本のサイクロトロン

校章にキノコ雲

ワシントン州の高校、今も誇りに

戦時中の原爆製造工場の町

 原爆開発を扱った最新の映画「オッペンハイマー」でもキノコ雲の下でどんな惨状が起こっていたのかを1枚の静止画像ですら見せることがなかった。原爆投下は戦争の早期終結をもたらす手段であり、実際にその通り戦争はあっという間に終わったというのが、戦後78年経つ現在もアメリカが原爆投下を正当化する理由であり、今なお米国の子供たちは、原爆を落としたアメリカは、第二次世界大戦を終わらせたヒーローであると教育されている。

 米国北西部ワシントン州のハンフォードは長崎に投下された原爆の製造工場があった町で、同町のリッチモンド高校のロゴは、リッチモンドのRの頭文字の上でキノコ雲が爆発しているデザインだ。学校では、被爆者のことや、壊滅的な被害を受けた被爆地の様子については教えていないのでそのことについて生徒たちは学習していない。原爆投下の理由については、パールハーバーへの報復という声が強くある。1990年代に同校の生徒が訪日し、広島と長崎の記念館を訪れ、原爆の恐ろしさをはじめて知り、帰国後、同校のロゴマークを変更する運動をして投票した結果、95%がロゴの変更には反対だったという。同校の教師マーフィー教諭は投稿動画の中で「教育こそが何よりも大事」と述べている。原爆に対する認識の日米格差は、戦後78年経っても未だ埋まらないままだ。

バービー映画

ファンのSNS投稿

原爆お笑いネタに波紋

 バーベンハイマー現象は、映画のオッペンハイマー役のキャリアン・マーフィーがバービー映画の主役マーゴット・ロビーを肩で担いで持ち上げ、背景が原爆を連想させる大火災、キノコ雲を髪型にコラージュした絵に配給元のワーナーが好意的な評価をしたことから日本から抗議が殺到し、米国本社が「配慮に欠けた投稿を遺憾に思い、スタジオより深くお詫びします」と謝罪して同SNSを削除した。

日本人女性起業家の対米進出を応援

スクエア・アップ・コンサルティング CEO

梅原 靜香さん

 日本企業の対米進出コンサルティング事業と日本の女性起業家支援を日米両国で長年行っている。今年5、6月の2か月間、米国進出に意欲のある日本の女性起業家25社の商品を集めた展示会をブルックリン・ビューティー・アンド・ファッションラボ(BBFL社)とデイリー・インフォメーションNY社(DINNY)と共同開催した。

 目的は、日本の女性起業家が手掛けるサステナブルな商品をNY市場に紹介し、米国展開の足がかりにしてもらうためだ。会場には、大型資金調達をした女性起業家や、日本ではまだ珍しいシリアルアントレプレナーによる商品も出展。日本の女性起業家の商品だけを集めて25社もNYで展示をした例がこれまでなかったことから、同企画はニューヨークでも珍しい試みとして多数の日米メディアが報道し、展示会場となったBBFLには、オープニング当日大勢のニューヨーカーが詰めかけた。

 この展示会は、梅原さんが7年間の日本での就業経験を経て再び米国に戻って起業し、これまで支援してきた女性起業家達の参画するプロジェクトだっただけに手応えを感じることができて嬉しかったという。

 梅原さんは、東京都出身。明治大学政経学部を卒業し米国留学。カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校会計大学院会計学部財務会計学科を卒業し、アーンスト&ヤング・ニューヨーク事務所、プライスウォーターハウスクーパース・ロサンゼルス事務所で日系米国現地法人の米国税務コンプライアンス業務に従事した。

 税務のプロとして日系企業の米国での事業拡大支援をする中で、優良企業が米国事業を撤退せざるを得ない状況を垣間見て、海外展開をする日系企業の直接支援がしたいという思いを強めて日本に帰国した。

 2015年から22年までデロイトトーマツベンチャーサポート株式会社東京 オフィスでベンチャー企業の海外進出支援、海外ベンチャー企業と日系大手企業の事業連携支援、女性起業家支援事業の企画・設計・運営及び業務責任者を務め、ニューヨーク市主催の女性起業家支援プログラムWENYCと協業するなどし、これまで300人を超える日本全国の女性起業家に直接支援を行っている。

 日本では、米国では見られない日本独特の女性の起業に対する都市部と地方とのハードルの格差を感じた。奥さんが「パート」に出るのはいいが「起業」などと言った目立った行為は、「妻を満足に食べさせていないみたいでみっともないからやめてくれ」と夫や姑からダブルでブロックがかかり夢を断念した女性を多く見てきた。また海外競争力のある商品開発に男女差はないはずだが、実際は資金調達で苦戦を余儀なくされる例も見てきた。

 社名のスクエア・アップは、「戦う準備をする」と言うNY発と言われているスラングから。NYと日本の都市型生活には共通点が多く、日本で必要とされる商品やサービスはNYでも勝機がある。日系企業に、特に日本でハンデを抱える女性の起業家に、存分に米国で活躍してもらいたい、それに必要な準備を自社が支援したいと言う思いも強くそこに込められている。

(三浦良一記者、写真も)