本紙連載東京だよりや新年寄稿でお馴染みのジャーナリスト、北岡和義さんが10月19日午後6時30分、肝臓がんのため東京都内の病院で死去していたことがこのほど明らかになった。享年79歳だった。岐阜県出身。葬儀は家族で行った。生前の本人の希望で弔問などは辞退している。喪主は妻邦子さん。
読売新聞記者や北海道選出の横路孝弘・衆議員の議員秘書を経て1979年に渡米。ロサンゼルスの邦字経済新聞社USジャパンビジネスニュース社編集長の後、邦人向け放送局JATVを設立。2006年帰国、日大国際関係学部特任教授を務めた。著書に1981年のロス疑惑の謎に迫った『13人目の目撃者」、在外投票運動を記録した責任編集『海外から一票を!』などがある。2007年ロサンゼルス在外公館長表彰を受けている。
惜別–評伝
三浦和義事件と北岡さんのことなど
「ロス疑惑」と呼ばれた事件が1981年にロサンゼルス市であった。「三浦和義事件」とも呼ばれた。日本中が、一億総探偵団になってテレビに釘付けになった出来事だった。簡単に書くと1981年、ロサンゼルスで起こった殺人事件に関して、当初ライフル銃で撃たれて死亡した三浦一美さんの夫で被害者と見られていた三浦和義が「保険金殺人の犯人」ではないかと日本国内のマスメディアによって嫌疑がかけられ、過熱した報道合戦となり、結果として劇場型犯罪となった。殺人事件に対する科学的な考察よりも、その男性にまつわる疑惑について盛んに報じられた。三浦は、2003年に日本で行われた裁判で無期懲役から一転して無罪が確定した。しかし、その後の2008年に米国領土内において、共謀罪でアメリカ警察当局に逮捕され、ロサンゼルスに移送後ロサンゼルス市警の留置施設にて、シャツを用い首をつって自殺した。この事件の発端を在京特派員たちを尻目にぶっちぎりでスクープしていたのが、先月亡くなった元読売新聞記者で、当時、USジャパンビジネスニュースという地元経済新聞の編集長をしていた北岡和義さんだった(5面に記事)。北岡さんの著者『13人目の目撃者』(恒友出版)からその一場面を引用し、紹介する。
■場所■1981年9月、ロサンゼルスのUSジャパンビジネスニュース編集部
◇
事件から十日くらいたったある昼休み、食事をしていて自然と三浦夫妻の話題が出た。例の事件は怪しいですよと誰かが言ったらしい。編集部で最年少の記者、三浦良一(25)が、その話を聞いて妙な事を言い出した。
「あの三浦から殺人を頼まれたっていう男がロスにいますよ」
「なにい?」
私の手がハタと止まり、三浦を正面から見すえたため、彼は急にしどろもどろになって、「いえ、そういう話を聞いた男がいるんです。ボク会いました。ちょっと軽薄な野郎なんですがね。でも本当ですよ。『お前、人、殺せるか』って三浦が聞いたようです」
弁解口調で彼はしゃべった。話を聞いたのは、3、4日前だという。
「そんな大事なこと、どうしていままで黙っていたんだ」
私は思わず声を強めた。前々から気にしていた事件である。三浦記者がリトルトーキョーの喫茶店で聞いてきた話を聞き流すことはできない。詳しく話すように促すと、彼はこう説明した。
「ウエラーコートの二階の喫茶店でコーヒーを飲んで、隣に座った男と話していたんです。その男、ヤマハの関係の仕事をしてるというもんですから、ボクはレコードの企画の話をしたんです。できたら彼に原稿、書いてもらおうか、と思って。まあ、ちょっとチャランポランなとこ、ありましたけど」
レコードの企画というのは彼が文化面の片隅に始めた話題のレコードを紹介、解説するコーナーのことを指していた。それがきっかけで世間話をしていると突然、その男が言い出したという。
「あんた新聞社の人なら知ってるやろ。あの三浦の事件、実は殺しをあいつに頼まれた奴がいる」
そこで三浦良一は彼の名前と電話番号を聞いた。だが、あまりに話が唐突すぎるし、内容が尋常でないので、三浦は半信半疑で、その話を聞き流していた。
私はすぐ、その男と連絡をとるように命じ、私自身が会うと言った。幸いすぐ本人がつかまり、私は三浦記者とニューオータニのロビーでその男に会った。
彼の話は本当だった。ただ「殺しをやれるか」と聞かれたのは彼ではない。福原光治という寿司レストランの板前で彼の友人だという。
社に戻って、私は友人の新聞記者に電話した。
「最近、面白い話ない?」
そんなふうに探りを入れてみると、
「三浦事件だろ」
とずばり返事が返ってきた。さすが社会部出身、カンが鋭い。
「社会部記者は生きていたね」
私は軽くからかった。彼は私のつかんだネタについて質問した。そこで簡単に夕方に聞いた殺人依頼された男がいるという情報を話した。
「大きい(ネタ)じゃあない」
彼は電話の向こうでうなった。事実とすればもちろんトップものだ。
「オレいまからそっち行くよ」
夜8時を過ぎていたが、彼は私の社に飛んできた。
◇
そして、翌年3月、一人の週刊誌記者がロサンゼルスにやってきた。羽田と名乗る記者は、週刊文春の記者だった。すでに事件に疑惑を持って取材に来ていた。殺人依頼の話を彼に話すとメモを取って帰っていった。その2か月後の5月。「疑惑の銃弾」というシリーズが週刊文春で始まり、日本中がロス疑惑の渦に巻き込まれていった。
◇
事件から何年たったのか覚えていないある日、北岡さんが「でも変だよな、北岡和義と三浦良一、二人合わせて三浦和義だもんな。でもなんでオレが三浦くんの下なんだ?ワハハハッ」。事件を抜いた記者の笑顔と笑い声が今も耳に残る。(三浦良一記者、イラストも)