国連本部ビルの安全保障理事会の議場に通じる廊下に掲げられているピカソの大作「ゲルニカ」のタペストリー(写真・三浦良一)
国連アート探訪
よりよい世界への「祈り」のシンボルたち
星野千華子
国連本部の会議棟2階、連日「国際の平和と安全の維持」に関する重要な議題を取り扱う安全保障理事会の議場に通じる廊下の壁面には1985年にロックフェラー家から国連に寄託されたパブロ・ピカソの大作「ゲルニカ」のほぼ原寸大のタペストリーが展示されています。
もとになった「ゲルニカ」は、1937年5月のパリ万国博覧会でスペイン館のミューラル用に依頼されたものですが、内戦のさなか、スペインの共和国政府の打倒を目指して蜂起したフランコ将軍に加担する形でナチス・ドイツ空軍(コンドル部隊)がバスク地方のゲルニカという町を空爆した事実を知ったピカソが一気に描き上げたといわれています。この空爆は人類史上初の一般市民を巻き込んだ無差別攻撃で、たくさんの女性や子どもを含む1600にも上る人々が犠牲になりました。絵画「ゲルニカ」は、これに激怒したピカソが、殺し合いをやめない人類に突き付けた渾身の一作です。反戦の象徴として有名な絵ですが、それだけにこの作品自体、受難と流転の歴史をたどっています。
「ゲルニカ」は、パリ万博が終了しても内戦状態にあったスペインに送られることはなく、ヨーロッパ諸国を巡回し、ファシズムの脅威を訴えるとともに、得られた資金は共和国政府の支援に使われました。当のスペインでは1939年4月に内戦に勝利したフランコが軍事独裁政権を樹立したことから、「ゲルニカ」はその年の5月には当時ネルソン・ロックフェラーが理事長を務めていたニューヨークの近代美術館(MoMA)に、スペインに人民の自由が訪れるまでは返還しないというピカソ本人との約束のもと、いわば「亡命」することになります。
この大作のスペイン帰還が動き出したのはピカソが91歳で亡くなり(73年)、フランコ将軍も死去(75年)してからのことで、81年に極秘裏にニューヨークからマドリードに移され、最初は国立プラド美術館の別館で防弾ガラスのなかで公開されていましたが、1992年からは新たにオープンした国立ソフィア王妃芸術センターに常設展示され、今日に至っています。
なお、この間にゲルニカをバスク地方で展示しようという動きも出ましたが、それにふさわしい美術館がないとの理由で断られていたところ、MoMAのライバルともいわれるニューヨークのグッゲンハイム美術館が、ゲルニカに近いビルバオに世界級の分館をビルバオ・グッゲンハイム美術館として開館、国王夫妻にゲルニカを本来ある場所に戻すよう訴えたとのエピソードがあります。
このように「ゲルニカ」はまるで圧倒的なカリスマを身にまとった生きもののように、それぞれの国や人々の間で翻弄されてきたことがわかります。もっともいまでは「ゲルニカ」は、世界一借りにくい作品としても有名です。2000年にはMoMAからの貸し出し申請でさえも却下されています。その理由の一つが、作品の傷みやすさです。
ピカソは1937年4月26日のゲルニカ空爆のニュースを2日後の28日にパリで知るのですが、そこから作品を構想して描き始めたのが5月1日。そして6月4日にはすでに完成させています。怒りに打ち震えたピカソの様子がうかがえます。その姿や形相は、不動明王や金剛力士のようではなかったかと想像を駆り立てられます。そして逸る気持ちを映し出すかのように制作には通常の油絵具ではなく速く乾く工業用のペンキが使われました。そのことが絵の保存を難しくし、また移動も困難なものにしているのです。
ところで、この「ゲルニカ」にはタペストリーのかたちでのレプリカがあり、世界で3点のみ制作されました。レプリカですがピカソ本人が承認し、いずれも信頼する織り師のジャクリーヌ・ド・ラ・ボーム=デュルバックのアトリエで織られた分身といえるものです。国連本部内のそれは唯一ピカソが存命中に彼の直接の監修のもとに制作された第1号です。それをロックフェラー家が寄託、つまりローンというかたちで国連に置き、安保理の議場入口近くに飾られています。
ピカソの研究者としても有名な作家の原田マハ氏は、第2次大戦前夜のパリと9・11事件後のニューヨークでの物語を「ゲルニカ」でつないだ小説『暗幕のゲルニカ』のなかで、「この作品は見るものに目撃者となり証言者となれと挑発しているかのようだ」とお書きになっています。
小説のタイトルにもなった「暗幕のゲルニカ事件」とは、03年2月5日、実際に国連本部で見られたある出来事に由来しています。その日、安保理公式会合ではアメリカのパウエル国務長官がパワーポイントでイラクによる大量破壊兵器の保有を世界に発信し、実質的にイラクへの軍事作戦の容認を求めました。安保理では重要な議題が審議された後には議場前の常設の記者会見スペースで議長が声明を発表したり、関係国の代表が自らの立場を述べたりと、記者とのやりとりが行われます。ですがこの日に限って会見場所が「ゲルニカ」前に移され、その設営のために「ゲルニカ」は濃紺の布で完全に覆われ、それを背景にいつもの安保理のバナーと理事国の国旗を並べられるかたちになりました。さすがに剥き出しの「ゲルニカ」の前でイラク攻撃に関わる議論はできなかったのではないか、国連事務局がアメリカに忖度したのか、それとも米代表部からの圧力だったのか、など、このタイミングで「ゲルニカ」に幕がかけられたことでかえって多くの憶測と反響と批判を招くことになったのです。国連の報道官の説明は、テレビ・カメラ向けにはこれが適切、というものでしたが、このように今なお大きな影響力を持つ「ゲルニカ」です。
この措置に怒ったロックフェラー家から、タペストリーを国連から引き揚げるといったお叱りもあったともいわれています(物議をかもした幕はその後すぐに取り外されました)。
「ゲルニカ」はなぜ安保理の入口の前に飾られたのでしょうか。安保理で議論の対象となるその国や地域で何が起こり、どれだけの人々の「あたりまえの日常」が奪われ、命を奪われ、希望が奪われていて、その人々の声は安保理のメンバーに届いているのでしょうか。そしてここで下される決定が、嘆き悲しむ人々や世界に、そして未来に何をもたらすのでしょうか。「ゲルニカ」は、それを目撃者としてだけではなく、決して傍観者ではなく当事者としての我々の覚悟を問うている…とは言いすぎでしょうか。 (つづく)
(筆者は国連日本政府代表部幹部の配偶者でニューヨーク在住)