常盤新平 ニューヨーカー三昧 I LOVE NEW YORKER 3
作家は死ねば、たいてい忘れられてしまう。二流三流の作家のものなど古本屋でも見かけない。私は日本語版のミステリー雑誌に短編を翻訳していたころ、ある作家の短編を好んで翻訳させてもらった。
作家の名はヒュー・ペンティコーストという。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン(EQMM)の寄稿家だったが、その経歴はよくわからない。「EQMM」にその経歴が紹介されたのかもしれないが、まったく記憶がない。
ペンティコーストは「EQMM」に短編を年に何編か書いていたから、レギュラー・ライターと呼んでもいいだろう。ニューヨーク州北部の町を舞台にしたものが多かったようだ。
当時の私は翻訳小説専門の出版社に編集者として務めながら、帰宅するとアルバイトに翻訳していた。洋書を注文するお金が欲しかったのだ。
私はアメリカの1920年代のニューヨークに惹かれて、その方面の資料を探していた。謎の組織といわれたマフィアにも興味を持っていた。
ペンティコーストは20年代にもマフィアに無縁の、マイナーな作家だった。だいたいがニューヨーク州北部の町で起こった殺人事件を老探偵が解決するというストーリーで、その素朴な作風がよかった。
そのうちに彼は素人の老探偵とその甥を主人公にした連作シリーズを本国版「EQMM」にときどき発表するようになった。
そのひとつは「ぼくのホームズおじさん」というタイトルだった。どんなストーリーであったか、遠い昔のことなので忘れてしまったが、甥の口を通して語られた短編である。
甥はおじさんが事件を見事に解決するのを見て、シャーロック・ホームズだと思う。たしか原題は「マイ・アンクル・シャーロック」だった。
ペンティコーストのこのシリーズはみな小味なほほえましい作品で、「EQMM」にふさわしい魅力があった。もっとも、彼の短編をいくつ翻訳したのかももう憶えていない。
もともと私は翻訳で食ってゆきたかったのだが、できれば好きな作品を手がけてみたかった。ペンティコーストは私の好みにもぴったりだったので、楽しく翻訳したし、ペンティコーストという作家に親近感を持った。
彼は原稿を書き上げると、それを持ってニューヨークに出てきて、雑誌社に届けていたのだろうか。それとも郵送していたのか。まだファクシミリは登場してこなかったのどかな時代だ。
出版社を退職した私はミステリーからしだいにはなれていって、主にノンフィクションを翻訳するようになった。それも犯罪がからんだノンフィクションである。だが、ニューヨークにはたえず関心をはらってきた。もっぱらニューヨーク市の地図とニューヨークを舞台にした映画を観るにすぎなかったが、ニューヨークに行こうとは考えてもいなかった。
もっと好奇心が旺盛で向学心があったら、ニューヨークに行かなければと思ったにちがいないが、そこまでの意欲に欠けていて、活字を読むだけで満足していた。
いまはいろんなことから興味がなくなって、競馬場へ馬券を買いに出かけることもめったにない。あんなに好きだったのに、長いあいだには興味の的が変わるものだ。
残ったのはニューヨークと週刊誌の「ニューヨーカー」だけである。2月には「ニューヨーカー」の創刊83年記念(25日)号を出したが、そのことをうたった絵も言葉もなく、ふだんと変わりがない。ページ数だって少ない。やはり奥床しい雑誌なのである。
けれども内容が充実している。ある作家のことを書いた「イースト・サイド・ストーリー」という読物は長いけれども面白かった。ただ、いまでもこの週刊誌を読むのに時間がかかる。まだ英語の仕事をしているみたいな気がする。私の英語はちっとも進歩していない。高校英語のままだ。(2008年3月15日号掲載)
(写真)パーク街47丁目にたつ彫刻作品「TAXI」By J.Seward Johnson, Jr. 1983・三浦良一
■常盤新平(ときわしんぺい、1931年〜2013年)=作家、翻訳家。岩手県水沢市(現・奥州市)生まれ。早稲田大学文学部英文科卒。同大学院修了。早川書房に入社し、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』の編集長を経てフリーの文筆生活に入る。アメリカの現代文学やニュージャーナリズムの作品を翻訳して日本に紹介する翻訳家であるとともに、エッセイスト、作家としても知られた。86年に初の自伝的小説『遠いアメリカ』で第96回直木賞受賞。本紙「週刊NY生活」に2007年から2010年まで約3年余りコラム「ニューヨーカー三昧」に24作品を書き下ろし連載。13年『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』(幻戯書房)に収録。本紙ではその中から12作品を復刻連載します。