常盤新平 ニューヨーカー三昧 I LOVE NEW YORKER 2
はじめてニューヨークに行ったときは、プラザに泊まった。勤務していた翻訳中心の出版社の社長のお供である。
ガイドブックを見て、グランド・セントラル駅と通りをへだてたビルトモア(数年前に閉業した)が手頃なのではないかと社長にはかったが、旅行代理店は格上のプラザ・ホテルを強くすすめた。社長もそれに同意した。
「向こう(NY)の出版社やエージェントがプラザに泊まっていると知れば、扱いも違いますよ」と代理店は言った。
10日間ほど滞在しているあいだに、いくつかの出版社から新刊のプルーフ(ゲラ刷)がホテルに送られてきた。こちらも30社近い出版社やエージェントを訪問した。
活字で読んだNYと自身の目で見るニューヨークはまったく違っていた。まさに百聞は一見にしかず、だ。
プラザの部屋は南に面していたから、セントラル・パークは見えなかった。目にはいるのは、林立するビルが吐き出す暖房の湯気ばかり。
11月の末(1967)で、すでに冬が来ていた。12月にはいって、一夜、雪が降った。ホテルで夕食を共にしたあるエージェントは、外はおそろしく冷えていると言いながら、上着を脱ぐと、シャツは半袖だった。
翌朝は快晴で、雪がわずかに積もったセントラル・パークにはまぶしいほどに陽の光が降りそそいでいた。その美しさに息を呑んだ。
5番街を歩いていたとき、ミニスカートをはじめて見かけた。ミニスカートが流行しはじめていたのだ。30年も昔のことだ。
本屋は毎日覗いていたが、結局一冊も買わなかった。気おくれしたのだろうか。ミステリーのハードカバーは2ドル95セント、小説やノンフィクションはたいてい3ドル95セント。現在とはとても比較にならない。
私の所持金は500ドルで、それ以上は海外に持ち出せなかった。1ドル360円の時代だったが、ドルは高く、ヤミで400円もした。
このころ「ニューヨーカー」を購読していたが、難しくてろくに読まなかった。それでもカポーティの『冷血』はこの週刊誌の連載で読んだ。
いま、「ニューヨーカー」は1部4ドル50セント、邦価1239円、やはり高い。しかし、これで一週間が楽しくなっている。
その11年後の78年の春、2度目のNY観光旅行から本を買うようになった。宿は、そこに泊まったことのある知人から、とにかく安いと聞いた44丁目のおんぼろのホテルだ。そのホテルは数年前に改築して高級になったと聞いている。
そこから40メートルほど西へ行ったところにアルゴンクィン・ホテルがあった。貧乏旅行だったから、とても宿泊できなかった。ただ、NYを発つ日、ここで早々と朝食をとった。
アルゴンクィンは「ニューヨーカー」と縁が深い。2代目の編集長ウィリアム・ショーンはここでランチを食べた。
NYのホテルのダイニング・ルームで朝めしというのはあまりなかった。たいていホテルの近くの安いコーヒーショップだ。
オレンジジュースにコーヒーとトースト、ベーコンエッグ、この変わらぬ朝食が楽しかった。旅先での朝食が楽しみになったのは、初のNY旅行がきっかけだろう。旅に出るのもおっくうではなくなった。
コーヒーショップの朝食なんて簡素そのものだが、私は大好きだ。NYでは6番街のコーヒーショップに行った。のちにエセックス・ハウスに投宿したときは、朝は西57丁目かの角のコーヒーショップだった。ごく当たり前の店だったが、6番街を行く通勤の人達をぼんやりと見ていると、旅の気分にひたることが出来た。
コーヒーショップではNYタイムズのスポーツ欄を読みながら、トーストを口に運ぶサラリーマンをよく見かけた。私もここへ来る途中で買ってきたタイムズの首都版のコラムを拾い読みしたものだった。(2007年11月10日号)
■常盤新平(ときわしんぺい、1931年〜2013年)=作家、翻訳家。岩手県水沢市(現・奥州市)生まれ。早稲田大学文学部英文科卒。同大学院修了。早川書房に入社し、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』の編集長を経てフリーの文筆生活に入る。アメリカの現代文学やニュージャーナリズムの作品を翻訳して日本に紹介する翻訳家であるとともに、エッセイスト、作家としても知られた。86年に初の自伝的小説『遠いアメリカ』で第96回直木賞受賞。本紙「週刊NY生活」に2007年から2010年まで約3年余りコラム「ニューヨーカー三昧」に24作品を書き下ろし連載。13年『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』(幻戯書房)に収録。本紙ではその中から12作品を復刻連載します。
(写真)昔ながらのダイナーが姿を消していく中での変わらぬ定番(ブルックリンで3日、写真・加藤麻美)