空飛ぶ宿題  ニューヨークの魔法

 No screen time for you.

 あなたはスクリーンを観ている時間なんて、ないのよ。

 私が窓際の座席に着くなり、隣にすわった少女が目の前のモニターを触ろうとすると、その隣の通路側にすわっていた母親らしき女の人の、厳しい声が飛んだ。

 成田発ニューヨーク行きの飛行機に乗り込んだときのことだ。

 娘はしゅんとなって、バックパックの中からワークブックを数冊、取り出し、目の前のテーブルの上に置いた。

 一番上のワークブックの表紙には、カラフルな分厚い本が何冊も重なった絵が描かれ、その上に大きく、MY HOMEWORK(私の宿題)と書かれている。

 えっ、スクリーンを観ちゃ、いけないの。

 驚きの声をあげる。少女ではなく、私が。

 そうよ。一週間、学校を休んで、宿題が山のようにたまってるんだから。

 母親が私に向かって、ほほ笑みながら、ウインクする。

 ふたりはフィリピン系アメリカ人だった。親戚の結婚式でフィリピンを訪れた帰りだという。成田で乗り換え、これからニューヨークへ戻る。

 少女は無言でワークブックを広げ、分数の引き算を解き始めた。

 飛行機の窓をたたきつけていた大粒の雨が、夕日に光っている。カメラを取り出し、写真を撮る私を、少女が見つめる。

 お母さん、厳しいのね。かわいそうに。十三時間のフライトで、アニメもゲームもお預けなの?

 言葉に出さないけれど、少女に同情する私の気持ちが伝わったのか、ときおり、顔を上げて、私を見ると、肩をすくめる。

 離陸まで停止したまま、かなり待たされた。その間、少女は顔をワークブックに近づけ、小さな手に鉛筆を握りしめて、問題を解いていた。

 やがて、飛行機が滑走路をゆっくりと進み始め、離陸した。

 飛行機が舞い上がる。と、その瞬間、少女が母親に向かって手を伸ばした。小さな手を、母親がぎゅっと握る。飛行が落ち着くまで、ふたりの手はしっかり握り合ったままだ。

 母親が娘の髪にそっと口づけする。私と目が合うと、母親がほほ笑む。

 子どものいない、母であることを知らない自分が、ふとさびしくなる瞬間だ。

 それでも、ベビーカーを見れば泣いていた、あの頃とは違う。

 今、ふたりを見つめる私も、笑顔になっている。

 母親はしばらく、スクリーンで映画を観ていたが、疲れ切った様子で眠っていることも多かった。女の子は母親に寄りかかってわずかの間、うたた寝することもあったけれど、算数と英語の問題を真剣に解き続けていた。

 ふたケタの引き算の問題だ。 

 Find the differences. Check your answers by adding.

 差はいくつですか。足して、答えが合っているか、確かめましょう。

 英語には、こんな選択問題がある。

 Where are (giraffes’, giraffe) homes?

 キリンの家はどこですか。

 私も“自分の宿題”を隣でやって、お母さんの代わりに少女を見守ろう。

 I’ll keep you company.

 私がそばにいて、あなたにつき合うからね。

 パソコンをオンにし、原稿の画面を開いたとたん、眠気に襲われ、意識を失う。

 ふと気がつくと、少女はひとり、小さな唇から舌の先を少しだけ突き出して、黙々と宿題と闘っていた。

 どうやら、私がつき合ったのは、少女ではなく、お母さんのほうらしい。

 このエッセイは、「ニューヨークの魔法」シリーズ第7弾『ニューヨークの魔法の約束』に収録されています。

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