「水の都ベニス」の水は旅行者をびっくりさせることがある。3泊したベニス(ベネチア)での最終日、5月18日は朝からシトシトと雨が降り、傘をさして出かけたが、まさか街の真ん中で膝下まで浸かる洪水を体験するとはまったく予測しなかった。
ヨーロッパ独特の趣ある古い石造りの建物を縫って通る石畳の細く曲がりくねった道。まるで中世のイタリアに足を踏み入れたようなベニスでの1日目は、雲ひとつないコバルトブルーの空を楽しむ。アカデミア美術館をゆっくりとまわり、14世紀から18世紀にかけてのヴェネツィア派やトスカーナ派の作品、特にティツィアーノの「ピエタ」やティントレットの「聖マルコの奇跡」などを鑑賞した。ベニスもローマやフローレンス(フィレンツェ)同様、カトリックの文化を強く反映させ、ルネッサンス美術も含めてヨーロッパ文明の根底が学べる。
2日目はホテルに近いサン・マルコ寺院から観光を始め、鐘楼からベニス一帯を眺め、ドゥカーレ宮殿ではティントレットの世界最大の油絵と言われる「天国」やヴェロネーゼの絵画を見て歩いた。さらに、ドゥカーレ宮殿の地下に降りて観光名所となっている牢獄を見学した。宮殿と「溜息の橋」でつながっているこの地下牢獄は満水時には水牢となり、「溜息の橋」を渡って牢獄に入ると2度とこの世に戻れないと言われたとのこと。「溜息」とは、橋の小窓からこの世との別れを惜しみ溜息をついたという逸話によるもの。
ベニスの象徴みたいなゴンドラをはじめ、船がベニスの主な交通手段であることが終点のサンタ・ルチア駅から一歩出るとよく分かる。中世のままの石畳の通りは狭くて普通車の入る余地がない。だから観光客は駅に到着すると行き先を確かめてから、近ければ歩き、遠ければ「乗合船」を使う。
ベニスの最終日はあいにくの雨。傘をさしてアカデミア橋を渡ってスクオーラ・グランデ・サン・ロッコ(大同信組合)から観光を始めた。16世紀のルネッサンス様式の建物で、天井はティントレットの70点余りの絵画がある。「受胎告知」「嬰児虐殺」「ブロンズ蛇の奇跡」「最後の晩餐」「キリストの磔刑」のほか、ティツィアーノの作品もある。その近くにはヴェネツィア派の作品が飾られているスクオーラ・ダルマータ・サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ(同信組合)があるが、結婚式が行われていて、観光客は入れなかった。
人が通れるだけの細い石畳の道を魚市場まで歩いて近くのレストランで昼食を取り、「リアルト橋」を渡って、もと来た道をサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会まで歩いた。ベニスの象徴とも言えるヴェネツィアン・バロックの白い大理石の八角形の中にある壁画と天井は、「カナの結婚」「カインとアベル」「イサクの犠牲」など、ティツィアーノとティントレットの絵で飾られている。
雨は夕方になっても止まない。ベニス最後の晩なので、ディナーの後は9時からサン・ヴィダル教会でヴェネツィア室内合奏団によるヴィヴァルディのコンサートに出かけた。途中、サイレンが鳴り、ゴミの回収が行われていたが、何の事か分からず、ともかくコンサート会場に足を速めた。本場で聴く「四季」の演奏にすっかり魅了されて教会を出たが、雨はまだ降る一方。100メートルほど歩くと、深さ15センチ程の水たまりに出くわした。旅行者たちは立ち止まってどうしようか考えている。平気で歩くのはビニールやゴムの長靴をはいた人たちのみ。靴を脱いで裸足で歩く若い旅行者もいるが、私は裸足で怪我をするのも否、靴を台無しにするのも否。洪水のない道を探して歩くが、どこへ回り道しても洪水止めとなり、夜は更けていく。さまよい続けるうち、まだ開店している雑貨屋でビニール長靴を売っているのを見つけ、「天の助け」とばかりに9ユーロ(11ドル)を払ってサイズを選び、靴の上から履いた。底には滑り止めのゴムがついていて、水は一滴も入ってこない。洪水は一か所や二か所だけでなくホテルまでの道のほとんどが洪水だった。やっとホテルにたどり着いて、この「災難」をフロントで捲し立てたら、こんなことは日常茶飯事とばかりに夕方聞いたサイレンは洪水注意報、ゴミは洪水のまえにの回収されいることなどを淡々と説明された。
帰宅して調べると、ベニスでの洪水問題は温暖化による海面上昇と地下水の汲み上げによる地盤沈下だ。10月から12月にかけて低気圧の影響で雨が降りやすい。かつては冬の風物詩だった高潮被害だそうだが、近年では6月や8月など一年を通して起きるようになった。ベニスには「モーゼ(Modulo Sperimentale Elettromeccanicoの頭文字をとったもの)」と呼ばれる2003年に始まった防潮堤の建設プロジェクトもあるが、汚職事件や財政的な問題、構造上の問題などで進行していない。
2018年の国連IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書によると、1901年から2010年までに世界の海面は平均19センチ上昇。このまま地球温暖化が進めば、2100年までに水位が140センチから150センチに上がりベニスは海中に沈むという説もある。
(ワインスタイン今井絹江、写真も)