ブロンクスサイエンス、NY補習授業校LI校
医師目指す延原伶さん
米国では卒業シーズンもほぼ終わり、9月からの新学期に向けて長い夏休みに入る。それぞれが進級や進学で思いを新たにしている時期だ。クイーンズ区アストリアに住む延原伶さん(17)もその一人。ブロンクスサイエンス高校を今年卒業し、9月からコロンビア大学に進む。米東部に8校あるアイビーリーグの1校だが、延原さんはなんとそのアイビーリーグの5校から合格通知をもらった。どのようにして勉強したのか、将来は何をしたいのかを聞いた。(写真上:体験を語る延原さん(本紙編集部で))
3月9日に、コロンビア大学と3月15日にコーネル大学から、受験者の0・3%に事前に通知される合格内示書が届いた。3月30日にプリンストン大学、ブラウン大学、ペンシルベニア大学の3校からも合格通知が届いた。将来医学部に進むことを希望している延原さんは、大学卒業後の大学院で医学部のあるコロンビア大学に進学することにした。目指すは司法精神科医だという。高校生の時に冤罪の話や講演を聞いて間違った判断で有罪判決を受けた人の精神的責任能力を司法と医学両面から救う精神科医に興味を持ったという。それ以前に、小学校低学年の時に日本の祖父が脳内出血で倒れ、その後、帰国するたびに祖母の介護でリハビリをして祖父母が明るくなっていくのを見て中学生くらいの時に「医学の力って強いな」と思ったことが動機の遠因にあるようだ。
2005年にマンハッタンの病院で生まれた延原さんは、アストリアの公立小学校PS085に入学、小学3年の時にルーズベルトアイランドスクールのギフテッド部門に転入、中学はマンハッタンのアッパーイーストサイドにある公立ロバート・F・ワグナーミドルスクールへ進み、高校は市内に8校あるエリート公立高校ブロンクス・ハイスクール・オブ・サイエンスに入学した。
また延原さんは、小学1年生から高校2年生までニューヨーク補習授業校LI校に通い、先ごろ卒業したばかり。補習授業校に通ったことでよかったことは「日本語を話し続けることができたこと、日本の文化、日本語の大切さ、日本とアメリカの文化の共通点を日本人の目線で学ぶことができたこと」だという。中学生から始めたテナーサックスの演奏は、高校ではメンバー20人限定のジャズバンドで演奏した。父親の功さんが、日本でレコードデビューもした歌手で、母親の由美さんも日本でライブ歌手だったことから、小さい時からNYでジャズの演奏に連れて行ってもらうなど、音楽は身近な存在だったという。勉学の一方で、延原さんの心の支えとなった。現在アストリアで家族3人で住んでいる。
延原さんは小学校の頃、塾へ通い始めた時、算数のテストの塾内ランキングで上位を数回取ってから、勉強を競争のように思えるようになり、その時からランキング上位を取るために勉強しているうちに、気がついたら勉強が好きになっていたという。大学進学で、米国の名門校を受ける場合の心得を聞くと、「目標を高く持って、自分にはできないかもと思うことにも進んで挑戦することが大切。夢は大きく設定することで自分の最大限の力で頑張ることができる」と話した。
アイビーリーグ5校に合格の延原さん
私はこうやって合格した
本紙 子供の頃、親と何か学習や漢字の書き取りドリルとか毎朝、学校に行く前に一緒にする習慣はありましたか?
NY州全体のテスト(State Exam)の算数のテスト前には、過去問題の中から母が問題を作り一日数時間かけてしていました。日本人の家庭で育ったので第一言語は日本語でした。なので、毎日少しずつ母と英語の勉強をしていたのを覚えています。例えば、読書感想文の宿題が出た時、母と一緒に本を読み、どういうストーリーだったのかなど日本語で話し合い、日本語で感想文を書き、それを英語に変えていました。宿題は必ず時間がかかってもすべて終わらせて、わからないことがあれば聞くことを心掛けていました。
本紙 小さい時はどんなことに興味がありましたか?
小学校低学年の頃の将来の夢は日系女性初のアメリカ大統領になることでした。当時黒人初のオバマ大統領に強く興味を持ち、私の友達や両親の友達に「将来私がオバマみたいになったら、voteしてね」と言っていたのを覚えています。ビデオゲームなどは全く興味がなく、遊びはcrosswordや数独をすることでした。なので、そういったパズル系の本を母にいつも買ってもらっていました。塾に通い出してからは、少し大袈裟ですが遊びが算数の勉強をすることに変わりました。
本紙 勉強が面白いと思ったきっかけはなんですか?
小学校の頃塾へ通い始めた時、算数のテストの塾内ランキングで上位を数回取ってから、勉強を競争のように思えるようになりました。小さい頃から負けず嫌いだったので、その時からランキング上位をとるために勉強していたら、気づいたら勉強が好きになっていました。
本紙 小さい時に親から言われたことで今でも覚えていることはなんですか?
小さい頃からずっと礼儀作法(座り方、靴の揃え方、目上の方への話し方等)やお箸の持ち方をキツく教えられていました。また、わからないことは必ず理解するまで聞くこと、そして人の話をよく聞く事の大切さもいつも言われていました。親から言われたことではないのですが、祖母から言われて今でも大事にしている言葉は「自分に正直になれる人になりなさい」ということです。
本紙 子供の時に一番嬉しかったことはなんですか
中学1年生の時からテナーサックスを始め、両親はジャズ好きだったので、小さい頃はよくジャズクラブへ連れて行ってもらいました。そして中学校のジャズバンドに入ることが夢になりました。中学1年の時はピアノで、そして中学2年・3年ではサックスでオーデションを受けました。そして、中学3年生の時にやっとオーデションに合格しジャズバンドに入る事ができました。その事が子供時代1番嬉しかったことでもあり、両親に1番近づけたと実感した経験です。その後ブロンクスサイエンスに入学してからも、1年生から4年生の全校生徒の中で20名だけが入れるジャズバンドにも入ることができました。
本紙 小学校高学年になったとき、自分はどんな方向に向いているのか、どんなことが好きだと思って熱中しましたか?
小学校の高学年になってからは、自分のアイデンティティを誇りに思えるようになりました。以前まで英語が第一言語の家庭に生まれてきたかったと思っていましたが、この頃やっと日本人でよかった、日本語が話せてよかったと思うようになりました。そして、アメリカにいる数少ない日本人の一人だからこそ外国人やアメリカ人に日本の魅力を伝えていけるような人になりたいと思うようになり、その頃の私の将来の夢は日本語を教える大学教授でした。
本紙 少女時代に影響を受けたことを3つあげてください。
私の祖父は13年前脳内出血で倒れ、今も右半身が不自由でうまく話せません。毎週2〜3日スピーチセラピーを受けているおかげで、まだうまく話せませんが少しずつですが言葉も戻ってきました。そして少しずつ明るくなっていく祖父母を見てから私は医者を目指すようになりました。
祖母はそんな祖父を毎日一人で介護しています。側で見ていてとても大変そうですが、このような細かいケアが出来るのも祖母が祖父のことを大切だからこそなんだと思っています。そして、大切だからこそ祖父がリハビリで出来ることが少しずつ増えていくたびに、祖母も嬉しいのだと思います。そんな祖父母から人間関係の大切さや、どんな困難があっても人を好きでいて大事に思うことが大切なんだと学びました。
本紙 父親について今、どう思っていますか?
小さい頃から今もずっと父のことを尊敬しています。父は昔日本でプロの歌手をしていました。今ではその経験を活かしNYのライブハウスやゴスペルなどを観光客に紹介しています。また、5校のIVYに受かり、コロンビア大学とプリンストン大学で迷ってから最終的にコロンビア大学に決心した時に、父と話し合いました。その時に、父は「本当にコロンビア大学で後悔しない?」と聞いてきたので、「そう言いたいけど、それは分からない。でも、プリンストン大学に決めても同じことが言える」と返信しました。父は、「ダサいなぁ、パパは後悔したことなんてないよ」と言っていて、改めて父のかっこよさに直面しました。
本紙 母親に今言いたいことはどんなことですか?
母は父の仕事を手伝いながら、主に専業主婦だったので、小さい頃は宿題が終わるまで側にいてくれました。私はアメリカで生まれながらも英語の上達が遅かったので、母は早くクラスの子たちと同じレベルまで英語が理解でき、クラスで不自由な思いをしないで良いようにと私と一緒に頑張ってくれました。その経験で毎日の積み重ねがとても大切だと言うことを学び、その考えは今の私の全てに繋がっていると思います。母とはよく喧嘩もしましたが、私にとって良き相談相手でもあり、1番の理解者だと思っています。母がいなければこれほどの大学から合格通知が来るとは思えません。母には「ありがとう」では伝え切れないほどの感謝をしています。
本紙「名門校」を受ける場合の心得、心構え、アドバイスをお願いします。
目標を高く持って、自分にはできないかもと思うことにも進んで挑戦することが大切だと思います。失敗を恐れて、自分が確実に合格しそうなところを目標にせず、夢は大きく設定することで自分の最大限の力で頑張ることができると思います。私はそのおかげで多数の名門大学から認められたと思います。また、夏休みからアプリケーションの準備やエッセイを書き始めることも大切だと思います。