篠原有司男・著
東京キララ社・刊
美学生交友録とでもいうか、インターネットもファックスもない、国際電話すらかけることのできなかった時代、でもそれほど遠い昔でもない60年代前後からの男の友情を記録した書簡をもとに一冊にまとめた本だ。篠原有司男がニューヨークから田名網敬一に出した絵葉書や書簡は当時のまま時系列でかなり正確に保管されて膨大に残っているが、田名網から篠原に宛てた手紙(おそらくはそれと同じだけの膨大な手紙)の数々はどこかに行って消えて無くなってしまっているところが、50年の一方通行の書簡集として、より強烈な輝きを放っている。書簡ではないが、篠原がニューヨークにロックフェラー3世奨学金で渡米する前、銀座の洋書店イエナで2人が、本をいっぱい抱えた植草甚一が階段から転がり落ちて、二人が本を拾って助ける場面が描かれている。
その時に植草が「君たち絵を描いているの? だったら面白い本を教えてあげるよ」と「ARTNEWS」という美術雑誌を見せた。田名網は「我々二人は、そこにあった小さな図版に釘付けになり、顔を見合わせた」と書く。それはアンディー・ウォーホル、ロイ・リキテンスタインなどポップアートの台頭を告げる紹介ページだった。「今、アメリカで注目されているアートがこれなんだよ」と植草がポップアートの理念を懇切丁寧に紹介してくれたという。若き二人が神妙な顔で本の山の中で話を聞いている光景を想像するだけで楽しい。69年に待望のニューヨークの地に降り立つ。ご存知とは思うが、篠原は、通称ギュウチャンでアーティスト。1932年、東京都生まれ。東京藝術大学中退後、60年に吉村益信、赤瀬川原平、荒川修作らと「ネオダダイズム・オルガナイザーズ」を結成。69年に奨学金を得て渡米し、以後ニューヨーク在住。2014年、その破天荒な生活に密着したドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』が米アカデミー賞にノミネート。ここ1年は新型コロナウイルスのパンデミックで巣ごもり状態らしいが。
田名網敬一もアーティスト。1936年、東京都生まれ。武蔵野美術大学在学中からポスターや雑誌などのデザインを開始。広告代理店の博報堂に就職した後、日本版『月刊PLAYBOY』などのアートディレクションを手がけた。本書も篠原のニューヨークでの素顔を田名網ならではの監修で見事に仕上げている。
一度だけ篠原のブルックリンの自宅兼アトリエ兼屋上にお邪魔したことがある。まだご長男のアレックス空海くんが洗面器の中で泳いでいる時代だった。本書122ページにはその頃のエピソードとして五番街にあった日本航空ロビーに展示された前衛オートバイの作品が掲載された1987年6月18日付「The Yomiuri America」の切り抜きが掲載されている。「JALサイケに変身」という見出しを付けた記憶が蘇ってきた。あの記事をレイアウトしていた頃から34年もたつが、彼は今もあまり変わらない。 (三浦)