次元の異なる災害、能登半島地震を考える

 1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災、2016年の熊本震災と比較すると、今回の能登半島地震は災害として全く次元が異なる。もっと言えば、あらゆる点で過去の災害と異なっており、救助にしても復興にしても全く異なった発想が求められると思われる。

 まず、発生が元日の午後4時過ぎという特殊な時間帯であった。過疎地でありながら、帰省した家族が相当数あり、多くの家庭では大家族が集結していた。そのために被災したケースもあったが、高齢者の孤立が避けられて避難や救出につながったケースも多かったと思われるのは不幸中の幸いだ。

 その一方で、報道機関の初動は極めて遅かった。コストの問題や労働条件の問題もあり、有能なクルーを元日に急派する体制は現在の日本のメディアにはなく、全国に情報が届くのが著しく遅れた。北陸朝日放送など、地元のローカル局の孤軍奮闘が目立ったのも事実だ。2日には羽田空港での海保機と日航機の衝突事故というニュースが発生したことも、災害の詳細情報について浸透を遅らせることとなった。そのような中で、「地元の迷惑だから報道機関は入るな」といった日本独自の妨害の罵声が大きくなり、現在も被災状況の詳細は全国に伝わっていない。

 一番の特殊性は能登半島、しかも突端の奥能登が震源であったことだ。北陸新幹線の開通により金沢は関東圏からの利便性が劇的に向上した。そして多くの日本人は、同じ石川県である能登半島は金沢の「すぐ先」だと思っている。けれども実際は違う。能登半島は南北に長く東西にも広がった巨大な半島である。例えば、半島中部の七尾市街や、和倉地区でさえ、金沢からは車で1時間半かかる。和倉までは鉄道があるがやはり金沢から1時間半である。北の輪島になると、半島西岸を走る高規格道路を経由しても丸々2時間で、突端の珠洲までは更に30分弱を要する。キロ数で言えば、ほぼ140キロある。距離が遠いだけではない。山が険しく、海岸線も切り立っている箇所の多い中では、平時でさえ交通の便は良くない。

 さらに言えば、文化も異なる。能登半島(能登国)は前田藩加賀百万石の一部を形成しており、現在の石川県の枠組みとほぼ同じように政治的には金沢との結びつきは強い。だが、実際は距離と風土の相違から、能登には多様なカルチャーが維持されている。山間部も含めて多くの神社があり、その系統は様々である。朝鮮半島由来の信仰、沿海州や樺太などとの結びつきを示すユニークな信仰が残っていたり、毎年の夏祭り、秋祭りには独特の伝統を伝える社もあり、実はその全体像は解明されていないくらいである。

 今回の震災では、半島全体の生命線とも言える西海岸の高規格道路、東海岸(七尾湾)を通る国道249号(実際は半島周回路)の2本の幹線道路が甚大な被害を受けてしまった。自然現象とは言え、この地域の脆弱性を突かれてしまったことで、大きなコミュニティが事実上孤立してしまった。救援活動にも遅滞を来しているが、これは政府の怠慢ではなくそれだけ自然環境が厳しいが故である。また、谷筋が細かく入り組んでいる中では、谷沿いの隘路が土砂災害などで不通となり、集落が孤立する中で一軒一軒の家屋の状態、そして住民の安否の確認自体が非常に難航している。これも県庁の怠慢ではなく、厳しく入り組んだ地形のためである。

 とにかく、今回の震災では、被害の全体像を把握するのには相当な時間を要するというのは避けられない。土地勘のある地元の行政機関、そして県庁、警察、消防、自衛隊は全力を尽くしており、安易な批判は慎みたい。

 その一方で、能登の人々は強い。厳しい自然環境に耐えて多くの伝統工芸を守り、海の幸、山の幸を活かしながら生活を守ってきた彼らの粘り強さは極めて独特だ。能登出身の知人がよく言っていたのは、自分たちの能登半島は同じ半島でも「南に垂れ下がって」いるのではなく、本州の大きな半島の中では唯一「北へ突き上げる」半島だという。その心意気が個性的な文化を守ってきている。

 そうはいっても、奥能登のとりわけ輪島市、珠洲市の被害は甚大だ。経済規模、過疎化の進行ということを考えると、阪神淡路のような「全面復興」や、東日本のような「巨大堤防と嵩上げの二重防災」というような手厚い復興事業が適当であるかは分からない。もしかすると、仮説住宅の代わりに被災者住宅を建設して、コミュニティごと移転する必要など「新たな発想」が必要という声もある。復興への道のりは、過去の震災と比較すると遥かに困難となるかもしれない。だが、能登の人々は耐えるであろう。文化の一部は失われるかもしれないが、ある部分は確実に守っていくに違いない。

 今は、被災者への救援が最優先であり、そのためにも仮設の交通ルートの突貫工事が急務という段階だ。だが、やがて能登の人々は復興へと立ち上がっていくに違いない。その困難な闘いを、理解しつつ支えることは我々の責務であると思う。(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)