反戦と反核、永遠の愛に生きて

アーティスト 飯塚国雄の死を悼む

百田 かずこ(ひゃくだかずこ)

 飯塚国雄さんと初めて話をさせていただいたのは2009年頃、ニューヨーク日本人美術家協会(JAANY)年次展のレセプション会場(天理ギャラリー)であった。遠くのほうで目が合うと、ワイングラスを片手にニコニコと近づいてこられ「どうですか、楽しんでますか」と会話のきっかけをつくってくださったた。後日談になるが「僕は女性には誰にでもニコニコするんだ」そうな…。一方で、当時は最愛の奥様がご自宅療養中で、制作スタジオもオーチャード通り(マンハッタン)から引っ越さねばならず、ご苦労の多い日々であったことは察するに余りある。飯塚さんとの遭遇以来、あの柔和なスマイルは私自身が次に進むためのパワーとなり、退屈だった日常を多彩で刺激的なアートの世界へと導くことになる。

 JAANYや飯塚さんの作家活動に関わるようになったのは2012年頃からである。それまで私はメールやスマホのなりすまし役であったが、飯塚さんはJAANYに若い会員を増やしたいという強い願いをお持ちだったので「それなら堂々とサポートできるようメンバーになれば」とご本人や理事の方々に誘われた。横丁の職人の娘が側女に抜擢された時代劇のような場面を楽しんだ。理事会の戦略が実り、徐々にではあるが力のあるニューメンバーも加わってきた頃、日本クラブの本多康子ディレクターから飯塚さんに企画展の打診があった。戦後の50年代から70年代にかけて日本からニューヨークに渡ってきた芸術家たちの展覧会はどうかと。ついてはJAANYゆかりの作家たちとその作品を広く紹介したいということであった。

「ブルックリンブリッジの恋人たち」(2003年、版画)

 飯塚さんは1961年、貨客船サントス丸に乗って西海岸に上陸。ニューヨークにやってきたのは64年であった。私は99年に移住するも「仕事はもういい、好きなことだけしよう」と怖いもの知らず。飯塚さんの事務方として呼ばれた日本クラブでの会議の席上「彼女(私)は僕らの時代の芸術活動を記録として残すために日本から呼ばれたんだと思うよ」と恐れ多いことをおっしゃる。そして開催が決まった。

 2014年6月19日からの4週間、日本ギャラリーでの「海を渡ってきた芸術家たち」展では、福田春人・福田隆之・飯塚国雄・木村利三郎・小西雪村・満志子・宮本和子・森本洋充・ロス郁子・作山畯治・佐藤正明・篠原有司男・末村敬三・分嶋健介・和田スティーブら15名の作品が展観された。この評判が功を奏し、翌2015年、同様の企画展パートⅡが開催の運びとなった。川島猛をはじめとする総勢25名の作家作品が展示され、2回のアーティストトークも盛況であった。飯塚さんはこの時期、JAANY創設時のコンセプト「在米日本人作家の支援」を日系美術史上に残るイベントとして結実させたのだ。

Central Park Autumn 9×12”

 企画展パートⅡと前後して準備していたのが、亡き愛妻れい子さんに捧げる回顧展 HALF A CENTURY IN NEW YORK (2015年8月・天理ギャラリー)。会場には、80年代の都市の混沌を描いた地下鉄シリーズ、国連での個展 (1995)出品作品を含む反戦・反核シリーズ、同時多発テロの鎮魂歌 9・11 シリーズ、家族への慈愛にあふれた愛のシリーズ、幸せを呼ぶハトがモチーフの平和シリーズなど、ニューヨーク在住50余年に及ぶ制作活動の軌跡が壮大な時空を創出した。

 飯塚さんは、最後まで共に暮らすことがなかったお父上が被爆者であると告げられたとき、反戦・反核シリーズに挑み始めた。大作を中心とするこのシリーズ11点は、長崎県美術館に所蔵 (2015)され、長崎の地に眠るお父上に寄り添っている。飯塚さんも今頃は、愛するれい子さんと一緒に長崎を訪れているのではないだろうか。そこには、ガン疾患を顧みず横浜港から希望の大地へと飯塚さんを送り出してくれたお母上も待っているに違いない。愛は永遠。魂は不滅だ。(ひゃくだ・かずこ/アート・ディレクター)

長崎県美術館 所蔵リスト

https://www.nagasaki-museum.jp/museumInet/coa/autGetByArt.do?command=view&code=51777


投稿・天国へ旅立った友

 芸術家、飯塚国雄さんが亡くなったと新聞で知った。さよならを言えなかったので、せめて思い出を語りたい。

 刀の趣味が高じて鑑定士になり、刀コレクターに教授をしていた頃、武道好きの友人と刀捌きを見せてもらった。飯塚さんはTシャツ姿だったが、侍のように見えた。人伝に、相当な刀の知識の持ち主と言うことだった。

 マンハッタンで個展をしたときに、「ひまわり」の絵を買った。絵の横に赤いシールが貼られると、「飯塚の絵が売れた」と街中にニュースが流れた。個展が済むと、奥さんが草餅大福を届けてくれた。セントラル・パークで蓬を見つけたので作ってみたそうだ。大福は春の香りを放っていた。

 奥さんが亡くなると三年間喪に服した。それが済むと近くのシニアセンターで友人のピアノの伴奏で歌って皆に聴かせていた。「枯葉」が十八番だと言っていた。テープを箱一杯買い、カラオケにかよって練習した、とテープの山を見せてくれた。別の曜日には、ダウンタウンのシニアセンターの油絵教室に行き、先生に頼んで自由に油絵を描かせてもらえる、と張り切っていた。「プロの特権なんだよ」と笑っていた。

 飯塚さんは欲得がなく、静な人でも、明るさが漂っていた。持病で苦しんでいる時でも、「医者が新薬を見つけて試しているところだ」と希望を捨てなかった。しかし、とうとう奥さんが待っている天国へ旅立ってしまった。とても忘れられない良い友達だった。(長澤泰子/アート・ヒストリアン)