【編集後記】
30年前の邦人殺害事件が冤罪に
みなさん、こんにちは。1994年8月4日午後11時半ごろ、マンハッタンの五番街に近い44丁目にあった日本食レストラン「中川」のアルバイトを終えて帰宅途中の日本人男性、砂田敬さん(当時22歳)は、クイーンズのラガーディア空港に近いレフラックシティーと呼ばれる自宅アパートのあった集合住宅のロビーで、いつもは17階の部屋までボクシングの練習を兼ねて駆け足で上がっていくのだが、その日は疲れていたのか、エレベーターに乗った。すぐ2人のアフリカ系男性が乗り込んできた。不審に思った敬さんは4階でエレベーターを降りたところで男たちと揉み合いになり、敬さんは左側にあった非常階段に逃げた。階段を4段上がって振り返りざまに発砲された。弾丸は右目から左後頭部を貫通し、敬さんは階段を転げ落ちた。事件の通報を受け出張先からニューヨークに駆けつけた父親の向壱さんがクイーンズの葬儀社で記者会見し、凶弾に倒れた息子の無念さを語った。その時の顔を今でも鮮明に覚えている。熱い夏の昼間だった。「銃さえなければ息子は死ぬことはなかった」。息子の死を無駄にしたくないと全米ライフル協会を相手取って起こした訴訟では刑事訴訟で勝訴したが民事では敗訴した。しかしその後の銃規制運動サイレントマーチに大きな影響を与えた。事件は、20歳と19歳の容疑者2人が逮捕され有罪判決を受けそれぞれ服役した。一人は今年1月に釈放されるまで29年間服役し、もう一人は2003年に仮釈放されるまで9年間服役した。その2人に8月24日、クイーンズの州最高裁判所の判事が、事件当時の刑事の取り調べで虚偽の自白を強要されたとする弁護士の訴えを認め、2人の有罪判決を棄却し、冤罪だったと断定した。事件当時47歳だった父親の向壱さんは77歳。福岡の自宅で検事局から連絡を受けてニュースを知った。「事件から30年近く経ち、今さら冤罪だと言われても言葉が出てきません。息子は誰に殺されたのでしょうか。犯人が捕まり息子の仇をとって平穏に暮らしてきたのに。出口の見えない深い闇の中に落ちた心境です」と語った。NY市クイーンズ区検事局が2020年に警察と司法の不正を検証する組織「有罪判決完全制ユニット」を立ち上げて以来、これまでに102件の有罪判決が取り消され、そのうち86件は警察の不正行為に関連したものとされた。ブラック・ライブズ・マター(BLM、黒人の命も大切だ)運動の機運の高まりと並行するように次々と有罪が無罪となっている。不当逮捕と有罪判決の撤回による人権の尊重と名誉の回復が市民運動とともに声高に進む一方で、それによって犯罪犠牲者の遺族の気持ちに寄り添うシステムはできていない。30年前の取材と現在の結末の矛盾にやるせなさを感じてやまない。取材は常に自分のことではなくて他人のことばかりなのだが、それでも自分のことのように悲しかったり、辛かったりする。あまりこんな仕事はないような気がするが、紙面でシェアすることで、気持ちの整理をし、読者と少しだけでも前に進んで行きたいと思います。今週号の1面と5面に記事があります。それでは皆さんよい週末を。(週刊NY生活発行人兼CEO、三浦良一)