ひろさちや・著 NHK出版・刊
仏教に関心があるがお寺に行って説法を聞くのは敷居が高い、「禅」について外国人にうまく説明できない…。本書は、そういう方々に打って付けの入門書である。
海外生活が長くなるにつれ、私も外国人の友人から仏教や禅について聞かれる機会が増えた。日本人なら当然知っているはずと思われて質問攻めにあい、そのたびに付け焼刃で本を読むのだが、スッと理解できる本にはいまだ出合ったことがなかった。
本書は仏教思想家・ひろちさや氏が鎌倉時代の曹洞宗の開祖である道元の主著「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を実に丁寧に解説している。道元はひたすら座禅すること、修行の中に悟りがあることを説いた禅僧であるが、著者は道元を偉大な哲学者としても見ている。仏教の真理を正しく読み取る眼が後世に伝わるよう、自らの智慧を言語化して残そうとした。本書では、「正法眼蔵」を座禅のマニュアルではなく、哲学書として読み解いていく。 道元は正治2(1200)年に京都の貴族の名門に生まれた。幼くして両親を亡くしたこともあってか14歳で仏門に入るが、修行を始めてまもなく大きな疑問にぶつかる。「仏教においては、人類はもともと仏性(仏の性質)を持ち、そのままで仏であると教えている。それなのになぜ、わたしたちは仏になるために修行をしないといけないのか」。まさに禅問答ともいえる問いに誰も納得の行く答えを与えてはくれなかったため、道元は貞応2(1233)年に中国の宋に渡り、天童山景徳寺で如浄禅師のもとに参禅して26歳で悟りを開いた。悟りに至ったきっかけとなった恩師の言葉は「身心脱落」であったが、実は道元はこの言葉の意味をはき違えていたという逸話がおもしろい。相手の言葉を違う意味で受け取って、悟りを得る—何とも皮肉な話だが、世の中そんなものかもしれない。
「身心脱落」「無我」、「悟り」など、難しい仏教用語をわかりやすい例えを用いて解説してくれるのがありがたい。自我は「角砂糖」でお湯が「悟り」。お湯に砂糖が溶けた状態が「悟りの境地」で、自我である角砂糖はなくなったわけではなく悟りに溶け込んだ状態。これまで頭で理解できなかった仏教の思想が感覚的にすうっと入ってくる。
道元は身心脱落して自我意識を消し、あるがままに物事を見ることを悟りとする一方で、悟りと迷い(煩悩)はコインの裏表のように一体だという。分からないことが分からないと分かることが悟り。悟りを求めてあくせくせず、迷ったときにはしっかり迷うことが大切…と言われると、何とも心が楽になる。
「正法眼蔵」は95巻に及ぶ大著だが、本書はわずか140ページで鎌倉仏教や禅、道元の思想を分かりやすく説明し、同時に座禅を組んだことのない私のような人間でも、日々の生活を修行と捉えて生きるための智慧を与えてくれる。おかげでこれからは、外国人に仏教の質問をされてもスルーしなくて済みそうだ。(櫻井真美)