エドワード・ホッパーのNY

ホイットニー美術館で来年3月まで特別展

 ニューヨークに1908年から67年まで住んだ画家、エドワード・ホッパーの特別展がホイットニー美術館で10月19日から始まった。彼の壮年期のキャリア全体にわたる期間を描いた今回の展示「ホッパーのニューヨーク」は、20世紀の大都市の厳密な肖像ではなく、ホッパーが生きた時代の、ヒューマンスケールで、ほとんど人口がいない状態の街や目立たない実用的な建造物や目立たない場所に目を向け、新旧、市民と住宅、公と私のぎこちない衝突を描き、変化する街のパラドックスを捉えている。それは、ホッパーの都市に対する永遠の魅力を描き、ホッパー自身を取り巻いた都市の記録であると同時に、ホッパー自身の現れであるニューヨークのビジョンを明らかにしている。

 同美術館が最近入手した印刷物、広告の挿絵、書簡、写真、日記といったさまざまな資料は、ホッパーのアーティスト生活についての新鮮な発見もある。入場料大人25ドル。展覧会は3月5日(日)まで。(写真・三浦良一) 


Whitney Museum of American Art

99 Gansevoort Street

New York, NY 10014

(212) 570-3600

Open: 10:30 am–6 pm


ジャパン・パレード、2回目の開催を決定

 今年5月に行われた日本パレードの第2回目となるイベント「ジャパンパレード」と「ジャパンストリートフェア」が来年5月13日(土)に開催されることが決定した。今年のパレードには85組約2400人が参加。踊りや武道、着物など日本文化の団体から、NYPDのマーチングバンド、アンチアジアンヘイト関連団体まで、さまざまな参加者がセントラルパークウエストを練り歩いた。神輿3基が祭りムードを盛り上げ、日本からの特別ゲスト「美少女戦士セーラームーン」には、沿道に詰めかけた2万人超の観衆が大きな声援を送った。69丁目で同時開催された「ジャパンストリートフェア」では和食やお茶の屋台に長蛇ができる盛況だった。 

 来年開催予定のジャパンパレードは、ジャパンデー・インク(現名誉会長・森美樹夫 在ニューヨーク日本国総領事・大使、現会長・魚返大輔 トウキョウ・マリン・アメリカ社長兼CEO)の主催。同団体は、日米交流、NYへの感謝の表意、日系社会の連帯強化をミッションとし、07年から「ジャパンデー@セントラルパーク」を開催してきた。現在協賛・寄付など支援を募っている。問い合わせはEメールparade@gorgeousentertainment.comまで。

(写真)今年開催されたジャパン・パレード ©AP Photo

海外在留邦人のマイナンバー取得は2024年5月

 マイナンバーカード(以下カード)が日本国内で保険証と一体化されることが発表される中「海外に住む日本人はどうやってカードを取得できるのか」との質問を頂きました。 

 結論は、保険証との一体化に先立ち2024年5月から取得できます。これは2019年5月に公布された通称デジタル手続法で決定されたものです。この法律は、現在はカードは、海外に転出し住民票が消除する際に返却しなければならないものを、海外転出後も消除されない住民基本台帳の戸籍の付票(※)を個人認証の基盤とするように改正して海外でのカードの利用を可能にするものです。

 これにより、海外在留邦人のオンラインでの本人確認や、さまざまな行政手続も可能になります。この法律改正の背景説明として、住民基本台帳法制定時の1967年の約4倍の日本人の海外出国、デジタル化の進展による官民のオンライン手続の多様化、国外転出者のインターネット上の確実な本人確認のニーズの高まり、将来的には在外投票におけるインターネット投票、が挙げられていました。 

 国会で平将明衆議院議員が、現行法では、カードの変更や交付期限が切れると、その都度帰国して市役所等に行かなければならないが「それはあり得ないですね」と質問したのに対し、平井卓也デジタル大臣は「これはあり得ません。絶対にそういうことなく、何らかの方法を講じるということはコミットさせていただきたいと思います」と答弁しました。今政府内では、帰国しないで在外公館で対応できる改正が検討されています。

 平議員が、海外日本人にカードを交付する意味は、この仕組みを使って在外ネット投票を可能にすることにある、と指摘したのに対し、総務省はネット投票による利便性向上と、システムのセキュリティー確保の両方を考慮し、できるだけ早期に導入していけるよう、着実に検討を進める、と答弁しました。

 衆・参両院の選挙とも2025年が予想され、その1年前に海外日本人がカードを取得することは、在外ネット投票導入の環境が整うことになります。他方、カードが義務化されても保険証は廃止しない、と岸田首相の方針が変わるなど混乱しています。正念場を迎える在外ネット投票の国会審議を前に、カード拡大政策の混乱がその妨げにならないよう注視していく必要があります。

 ふじた・ゆきひさ=慶大卒。世界的な道徳平和活動MRAや難民を助ける会で活動した初の国際NGO出身政治家。衆議院・参議院議員各二期。財務副大臣、民主党国際局長、民進党ネクスト外務大臣、横浜国立大講師等歴任。アメリカ元捕虜(POW)の訪日事業を主導。現在国際IC(旧MRA)日本協会会長。岐阜女子大特別客員教授。

(※)戸籍の附票 新しく戸籍を作った(本籍を定めた)時以降の住民票の移り変わりを記録したもので、戸籍簿とセットで本籍地の市区町村で管理している。この戸籍の附票を写したものを証明書として使うが、戸籍全部事項証明書(謄本)などと同じく、本籍地で取り寄せることが可能。

司法試験に合格しました

小室さん晴れて弁護士へ

顔写真も公開し新たなステップ

 秋篠宮家の長女・眞子さんと昨年結婚した小室圭さんがニューヨークの司法試験に3度目の挑戦で合格を手にした。今回受験した試験には9609人が受験し、合格率は66%で、小室さんのような再受験での合格率は23%だった。今後は弁護士登録の申請書を提出して面接を受け、新規登録者が全員出席する宣誓式で晴れて弁護士としてスタートをきることになる。正式に弁護士の肩書がつくのは、半年ほど先になる見込みだ。

 発表の数日前に、小室さんが勤務するニューヨーク市内の弁護士事務所のホームページが更新され、これまで、最初は顔写真なしの空白状態だったのがラフなシャツ姿となり、今回はパリとしたスーツ姿で笑顔の小室さんの写真が掲載された=写真上=。現在の肩書は法務助手となっている。

 合格直後、小室さんが日本でパラリーガルとして勤務していた弁護士事務所に合格の一報を本人が入れている。日本側の各種報道によるとその際に「今回は合格しました。弁護士の仲間入りができて本当に嬉しいです。今回合格できたのも先生のおかげです。今後は、弁護士として研鑽を積んで行きたいと思います。ありがとうございました」とお礼を述べたという。

 同じく日本での報道では、宮内庁関係者の話として秋篠宮ご夫妻について「ほっとされていると思う」と話していたという。

 海外の論調としては、故ケネディ大統領の御曹司JFKジュニアも3度目の挑戦で合格を手にした例を挙げて「Third time lucky!」(三度目の正直)で「これまで批判してきた中傷者へ一矢を報いた」(英紙デイリーメール)や「合格したことでニューヨークでの生活がグッと向上するだろう」(AP通信)などの合格を祝福する論調となっている。

 今回の合格発表は、23日に31歳の誕生日を迎えた眞子さんにとっては最高のプレゼントとなったはず。26日は初めての結婚記念日でもあった。11月14日で、小室夫妻がニューヨークに到着して1年を迎えるが、この間、眞子さんはメトロポリタン美術館で日本古美術のリサーチをして展示作品の解説文を書くなど、日本で博物館学を学んだ経験を生かして社会との接点を持っている。小室さんの司法試験合格で、2人のニューヨーク生活も新たなステップを踏み出すことになりそうだ。

1年前にJFK国際空港に到着した小室さん夫妻

 生活の不安材料は治安 

 今後の生活での不安材料は治安。小室夫妻が住むウエストサイドのヘルズキッチンと呼ばれるエリアは、新しいビルも建ちはじめて安全になってきてはいるが、銃規制が再開したヘルズキッチンにありながら自宅の通りが指定区域から外れているため銃規制が緩いこと。ニューヨーク市警(NYPD)が発表した今年上半期の犯罪統計によるとアジア系へのヘイトクライム(増悪犯罪)数は30件で、増悪犯罪全体123件の24%を占めた。強盗や押し入りが30%以上増加した。交通機関での犯罪も昨年8月の149件から178件に約20%増加。憎悪犯罪も昨年同月の39件から55件へと41%増加。依然として治安は改善されていない。

KASHIYAMA旗艦店マジソン街にオープン

イージーセットアップやシャツ女性用スーツ、ジュエリーなども

 高品質で適正価格 を謳い文句に米国で注文スーツKASHIYAMAブランドを販売するオンワードUSA(本社ニューヨーク、村上潤CEO )が10月20日、マジソン街の旗艦店ショールーム(マジソン街501番地、電話646・904・8003)のお披露目レセプションを行った。

 メンズは、通常のビジネススーツと、肩パットや毛芯(キャンバス)が入っていない家庭の洗濯機でまる洗い出来る機能素材を使用するイージーセットアップの2種類がある。2種類ともショールームで採寸した上で、顧客の体型にあったフィットで作るが、スーツのタイプによって調整個所が異なる。イージーは、ビジネスカジュアルやオフの日にも対応できる素材やデザインになっているのでコロナ後から人気が高まっている。 

 価格は、メンズ、レディス共に、300ドルからだが、人気は、500ドルから700ドルくらい。 ニューヨーク路面店は、旗艦店として、メンズスーツ、ウィメンズスーツ、メンズシャツ、ジュエリーと全てのラインを取り揃えている。1階と2階と2層となっており、ゆったりとした場所で採寸から生地やデザイン選びまですることができる。村上CEO=写真右の中央=は「ここは旗艦店なので、全てのラインが揃っている。ここから私たちの世界観を発信していきたい」と抱負を語った。営業時間は火曜から土曜まで午前10時から午後6時。日曜と月曜は定休。事前の予約を。現在、ニューヨークのほか、ボストン、ワシントンDC、フィラデルフィアに4店舗を展開している。詳細はウェブサイト KASHIYAMA1927.com 


KASHIYAMA

501 Madison Ave.

New York NY 10022

Tel 646-904-8003


創作料理でホテルの結婚披露宴を演出する

ザ・ボックスハウスホテル、エグゼクティブシェフ

彰子 タナワーさん

 グランドセントラル駅から地下鉄7番線に乗って、イーストリバーを渡って1つ目の駅、バーノンブルバード&ジャクソンアベニュー駅で下車。ここはまだ、クイーンズ区の最近は ロングアイランドシティーと呼ばれるアストリア地区の一角だが、駅から2ブロック離れたプラスキー橋を歩いて川を渡るとそこはもうブルックリンだ。橋は1953年に建造された 跳ね橋で、現在はその橋が上がることがあるのかは不明だが無人のコントロールタワーの窓ガラスはピカピカに磨かれていた。橋を渡り切ったところにザ・ボックスハウスホテルがモダンな佇まいを見せる。

 彰子タナワーさんは、このホテルでエグゼクティブシェフとして今年の4月から屋上のイベント、結婚式の監修、来年春に予定されているメインレストランのオープンに向けた準備に追われている。パンデミックが明けて、今まで結婚披露宴を何度もキャンセルしていたカップルの披露宴ラッシュが続いていて、先週は4組の屋上披露宴パーティがあり大忙しだという。

 東京都出身、日本で中学から短大まで女子美でインテリアデザインを学んだが、社会に出てからは出版編集プロダクションで雑誌やインテリア関係の広告制作のグラフィックデザインの仕事に就き、その後25年前の25歳の時に来米し、ハンターカレッジの語学学校に通って1年で帰国するはずが、25年たった現在もニューヨーク在住に。「来たときにもう帰るつもりはなかった」という。

 子供の頃から海外に目が向いていた。大手旅行代理店に勤めていた父親は1年の半分は海外だったが幼少の頃から家族を海外旅行に連れて行ってくれた。世界中の食べ物も味わった。父親は食べものには哲学があり、寿司と天ぷらと焼き鳥はカウンター以外では食べないというポリシーがあった。日本の食文化を家庭で学ぶ機会が多かった。父親の弟(叔父)は有名な写真家で、作家の藤原新也さん。小さい時から可愛がってもらい、父親同様世界の広さを教えてくれた。大きくなったら海外で暮らしたいという思いの芽と料理の舌は幼少期に育まれたようだ。

 22年前に元夫と結婚。15歳の双子の娘がいる。結婚当時雑誌の編集の仕事をしていた夫に弁当を作りそれが編集部で話題になり彼の同僚にも作るようになる。その料理が評判となってニューヨークタイムズ紙の記者の耳に入りフードセクションで記事になった。

 その後トライベッカのNOBUの門をたたき運良く採用されラインクックとして一番下のポジションから始めることになる。その後、イレブン・マジソンやシェーク・シャックなどを経営するレストラン王ダニー・マイヤーのケータリング部門、マイ・オウンレストラン、ミッション・チャイニーズ、フードウェブサイトのテイスティングテーブル、アイバン・ラーメンなど個性の強い店からファインダイニングまでこなすことになる。今年でキッチンに立ち17年目を迎える。

 中華、和食、ニューアメリカンなど何でも一通りこなす。「職人へのリスペクトはありますが、毎日同じものをコツコツと作り続けるタイプではなくて、シーズンの野菜やローカルの食材を使って感性でひらめいたものを作るのが自分のスタイルだと思っています」。結婚式のパーティー料理の企画も大きな仕事。新しい食材を組み合わせた創作料理もどんどんと手がける。色、味、盛り付けも実にクリエイティブだ。青リンゴとセロリのシャーベット、鱒の卵を使った料理、豚バラのポークベリーにレモングラスの出し汁かけ、雲丹トーストとどれも美味しそう。プライベートでは現在、娘たちからの影響を受けてダンスにも熱中している。14時間立ちっぱなしの仕事のため、体力勝負だ。マンハッタンから一駅で150人規模の結婚披露宴が屋上でできるホテルがあることは「あまり日本人は知らないと思いますけど、こういうホテルがあることももっとニューヨークの皆さんや日本の人に知ってもらいたいですね」と話した。 (三浦良一記者、写真も)

俳優の魂が舞台に

忠臣蔵オフブロードウエー公演

好評につき期間を1週間延長

 赤穂浪士の事件を題材にした本格的な侍劇「忠臣蔵〜四十七士」が日米両語の非営利劇団アマテラス座(AMATERASU ZA、芸術監督・Ako=アコ)によってオフブロードウエーのARTNYシアター(西53丁目502番地)で好評上演中だ。ニューヨーク在住の日本人俳優たちによる初めての正式なオフブロードウエー公演。英語字幕表示で日本語セリフの舞台だけに、出演者たちの感情移入の機微が「人間ドラマ」として客席につぶさに伝わってくる舞台だ。

 出演は、舞台ナレーションと大石内蔵助の妻りくにAko=写真右=、多門伝八郎/中村勘助/新井勘解由/土屋主税にヨシ天尾、富森助右衛門に小野功司、大久保権右衛門/原惣右衛門/お喜世 /寺坂吉右衛門に合田沙おり、加藤越中守/大石内蔵助に市川達生、大石主税/松の廊下の侍に前嶋利菜、梶川与惣兵衛/徳川綱豊/吉良方侍にジュンスエナガ、浅野内匠頭/堀部安兵衛に鈴木やす、吉良上野介/田村右京太夫/江島/小野寺十内に米倉裕子、侍によしむらみなみ。10月24日付NYタイムズ紙が「パーフェクトではないが、次の展開に引き込まれる作品」と辛口ながら写真入りで大きく扱ったことは、NYでの舞台としての成功を意味する。好評につき13日(日)まで公演が延長。入場料は一般60ドル、学生・シニア30ドルだが中学生と高校生は無料になった。詳細はhttps://amaterasuza.ticketspice.com/chushingura-47-ronin

(写真)© Melinda Hall

TAKEYAボーカルレッスン

Belting 発声を使って、心と身体を繋げよう

 ニューヨーク日系人会(JAA)が主催する第16回秋のヘルスフェアで、9月25日から10月5日までYouTube公開されたライオンズ大学大人の教養講座シリーズ4講師の講演内容を順次紙面で掲載する。第3回目の今週は、「DIVAの歌声、Belting発声法を使って心と身体を繋げよう」と題して福井県敦賀市在住のボイストレーナーHyca さんの講座から。同オンライン講座は、NY日系ライオンズクラブが企画、マイベストプロとマイイベントUSAが協力して開催した。

 Belting発声法は、高音を地声感のまま健康的にダイナミックに発声する歌声の出し方。米国のロック、ポップス、ゴスペル、ミュージカルなどで利用されている。音楽の巨匠DIVAたちの共通点は圧倒的な存在感とエネルギー。それは、発声法に秘密があり3つのバランス(構成要素)から成る。

 多くの人が気にするテクニックは数%から20%程度。発声が整う前にテクニックを身につけてしまいがちだが、それでは自分の声を見失ってしまい、感情とかけ離れた歌声になってしまう。

 大切なのは身体の使い方「フィジカル」。すでに自分に備わっている能力を使う。次に「マインド」。声は、精神状態、物事の捉え方、認知のバランス、自分と他者との人間関係などに深い関係があり、心理学では「潜在意識が行動に大きく影響する」と言われている。思考は表層心理だが、自覚、無意識なのが深層心理。高音に対する固定観念や歌唱に対する認識、囚われを、記憶の書き換えによって払拭するのがベルティング発声で、心と身体を繋げるという観点から人生をも変えると言われている。

 ポイントは、自分自身の心の声に耳を傾けるマインドが重要。声量への囚われからくる過剰な喉の力みは、無自覚でそれは自分が感情を感じなくしているので日頃から感情を解放することが大切だ。

 具体的方法として身体はリラックスして瞑想と同じ脱力状態に。細胞レベルで感じること。声の通り道を確保するため首と同じ太さになるまで喉を押し広げるイメージ(あくびで喉が開く感覚)で。みぞおちまで繋がる1本の太いパイプをイメージして怒りなどの感情を形にする。一息で一気に吐き出す。理性から解放された声。歌う時には、自分の現在の体重より30キロから50キロ増えたイメージで横幅を感じて、ゾンビのような低い声を出す、一音一音に対して感情を吐き出すように。音は全て後ろにあて、高くなるほど遠くへ叩き落とす。顔の輪郭より前に声は出さない。その時に喉の前側や外側の筋肉は使わない。声を身体の深いところから出し、喉はただの通過点にしておくなどと解説した。

 「嫉妬、嫌悪感、罪悪感、虚無感、自己否定などネガティブな感情は潜在意識からのサイン。感情を抑圧し続けることは、行動の制限や生きづらさへと繋がる。抑えつけた無意識の感情を自分自身の声で解放して人生がより健康的で生きやすくなるように自分の心の壁を突き破ってください」とアドバイスした。問い合わせはhttps://mbp-japan.com/fukui/takeya-s95/

編集後記 2022年10月22日号

【編集後記】
 みなさん、こんにちは。遅くなりましたが、本日、オンラインのWEB版が技術的な面ですべてクリアとなり、復旧致しましたので、1週間遅れになりますが改めて10月22日号をお届けします。今週は休刊週で新聞がありませんので、既に送信済みの「デジタル版」と併せオンラインやFBでもご覧ください。休刊週の間は新聞が出ないので、仕事をしなくていいのかというと、そういうわけでは全然なくて、原稿と印刷の締め切りがないというだけで、世の中の出来事や、取材依頼などがしっかりあります。従って普通に仕事をしていると休刊明けに2週間分の記事を1週間分の紙面に詰め込むことになり原稿が溢れかえります。つまり広い一戸建ての家からワンベッドルームのアパートに引っ越して、家財道具は処分しないでそのまま全部アパートに入れるようなもんです。部屋の天井まで荷物が溢積み上がりますね。あまり分りやすくなかったかもしれませんが、実感としてはそういうことです。次回紙面でお目にかかるのは11月5日号です。あと2か月で今年も終わり。なんと時間の過ぎゆくスピードの速いことか。年々早さが増していくような気がします。若い時の時間の流れと、年をとってからの時間の流れが違うとしたら、やり残していることがあったらすぐやらないともうチャンスが来ないかもですね。それでは、みなさん、よい週末を。(週刊NY生活発行人兼CEO、三浦良一)

【今週の紙面の主なニュース】(2022年10月22日号)

(1)命のビザで日米交流 渕上敦賀市長が来米 
(2)朝日の影長く 太陽が冬支度
(3)日本と世界を結ぶ美と学びの祭典 ブルックリンで11月8日
(4)新作ミュージカル Present Perfect 撫佐仁美が出演
(5)生き生きEATS  豚(トン)でもない生姜焼きほか
(6)自由の女神 王冠展望台オープン
(7)BOOKS   女性狙撃兵が見た戦争
(8)ニューヨークの魔法 窓辺のパンプキン
(9)ジャパン・ソサエティー 和紙風船爆弾の人形劇
(10)シネマ映写室 Amsterdam

命のビザで日米交流

渕上敦賀市長が来米

 渕上隆信・敦賀市長が世界最大のユダヤ・コミュニティが存在するニューヨークを来訪し、同コミュニティとの関係を強化する目的で12日、ニューヨーク日本総領事公邸で同市にある「人道の港 敦賀ムゼウム」の紹介と感謝の挨拶を行った。

 敦賀港は、明治から昭和初期にかけて、シベリア鉄道を経由して日本とヨーロッパを結ぶ国際港として発展した。1920年代にはロシア革命の動乱によってシベリアで家族を失ったポーランド孤児、1940年代には杉原千畝氏が発給した「命のビザ」で救われたユダヤ難民たちが上陸した歴史がある。当時の建物を復元した資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」では、孤児と難民が上陸した歴史、彼らに手を差し伸べた人々、そして敦賀の人たちが迎え入れた様子を後世に伝えている。

 同日はニューヨーク日本総領事館主催により、日本とユダヤ・コミュニティとの交流を促進するため、当地における各種ユダヤ団体の代表やホロコースト・サバイバーを集めたレセプションが開催された。当日は、親や親族がナチスからの迫害を逃れて日本を経由してアメリカに渡ったユダヤ系市民の子孫や関係者60人余りが招待された。

 渕上市長は当時敦賀に上陸した人々に子供たちがりんごを手渡して苦労を労った話、難民が腕時計を質屋に入れてお金を借りたが、

質屋は持ち主が取りにくるかもしれないと思い、自分の娘が欲しがった1つの時計以外は質流に出さなかった話、唯一残った娘の腕時計が展示されていることを紹介、「水際対策が大幅に緩和された日本へどうぞみなさん敦賀へお越しください」と感謝の挨拶をした。

 レセプション前の式典では、ニューヨーク総領事の森美樹夫大使、渕上市長、イエガー・NY市議、アサフ・ザミール在NYイスラエル総領事による挨拶、ホロコースト・サバイバーの娘ローラ・レオンさんによるピアノ演奏「マーシャのありがとう」=写真=が披露された。福谷正人・敦賀市議会議長の発声で乾杯し、コーシャ料理、酒、和食などがブッフェ形式で振る舞われ、和やかに懇談した。

(写真左)ユダヤ系市民の招待客たちを入り口で歓迎する左から森大使、渕上市長、福谷市議会議長(12日NY総領事公邸で)

(写真右)© 2020 Musical Tapestries Inc.

命のビザに感謝

生存者の娘が演奏、NYで3姉妹育てた母

杉原千畝の出したビザで日本を通過してNYに来た母親の故マーシャさん

 第二次世界大戦中にヨーロッパから逃げるために陸路シベリア鉄道を使って、さらに船に乗って日本経由でアメリカに渡った多くのユダヤ人がいた。手にしていたのは戦時下に海外渡航するための唯一の手段である第3国を通過する「命のビザ」だった。

 その2000余りの手書きのビザを書いた外交官、杉原千畝と日本に感謝する家族がニューヨークにいる。当時10歳だった少女、マーシャ・ベルンスタイン(後に結婚して姓はレオン)さん。5年前に86歳で他界したが、3人の娘たちは協力して1枚のCD「マーシャのありがとう」を作った。

 ニューヨーク総領事公邸で渕上隆信敦賀市長を迎えて12日開かれたレセプションで曲を披露した娘のローラさんはピアノを弾く前にこう語った。「私たちの母マーシャは、1941年2月に敦賀に着き、神戸に2月24日に着きました。当時10歳だった母は、聖マリア・カトリック小学校でフランス人の尼に可愛がってもらったようです。母と祖母ゼルダ・バーンスタインは、神戸を拠点に東京、奈良、大阪、宝塚などへも日本滞在中の6か月間で足を伸ばし、侍映画を見たり、本町を歩いたりした思い出を私たちに話してくれました。その時の経験が、後に、米国に渡って母親が結婚し、3人の娘を産んでユダヤ系新聞社の記者として働きながら私たちを歌舞伎公演や文楽に連れて行くなど日本文化に触れさせて育てました。母が天草丸に乗って大航海した経験は、現在の私たちの平和な生活につながっています」。

 CDは、命のビザ80周年を記念して2020年にピアニストのローラさん、写真家でイラストレーターのカレンさん、作曲家のニーナさんの三姉妹が協力して作ったものだ。

 「揃って3人が芸術の世界で生きてこれたのも、母が少女時代に日本のみなさんからの温かいもてなしを受けたことを心から感謝して、日本の文化を愛情を持って私たちに教育したからでしょう。本日は米国初公演となる『マーシャのありがとう』をお楽しみください」。 


左からスティーブン・コーエンさん(ローラさんの息子)、ローラさん、カレンさん、渕上敦賀市長、森NY総領事・大使、西川人道の港発信室長

マーシャのありがとう
日本の思い出を曲に込める

 「マーシャのありがとう」は、杉原と日本への感謝の気持ちを表すためのビアノソロ作品であり、イディッシュ民謡「 A Kleyn Meydele」と日本民謡「さくら」を基に、ニーナ・レオンさんによって作曲された。説明書によるとこのCDは、「母親、マーシャ・レオン(1931年〜2017年)への3人の娘からの賛辞であり、第二次世界大戦中におけるカナウスの英雄的な日本人外交官杉原千畝、そして日本の人々への感謝の気持ちを表すための作品でもある」と書かれている。

 マーシャはポーランドのワルシャワで生まれ、ホロコーストを生き延びた後、国際的に有名なコラムニストとなった。彼女と母親のゼルダ・バーンスタインは杉原が発給した「命のビザ」を受け取り、1941年2月に日本の敦賀に逃れた。10歳の少女だったマーシャは、神戸に滞在していた6か月の間に日本語を学んだ。「マーシャのありがとう」は、2020年11月3日、人道の港敦賀ムゼウムのリニューアルオープン式典で、堂田展江氏によって初演された。CDジャケットの表紙には、1941年にマーシャが暮らした神戸での子供時代の思い出の品であり、人道の港敦賀ムゼウムに寄贈された扇子がセーラー服姿の当時のマーシャさんの写真と共にデザインされている。CDの詳細は https://lauraleonpiano.com/cds/cds/c/241

musicaltapestries inc.com

上陸の地福井県敦賀市
人道の港 敦賀ムゼウム

住所:〒914-0072 福井県敦賀市金ケ崎町23-1

電話:+81-770-37-1035

定休日:水曜、年末年始

料金:大人500円,小学生以下300円

公式サイト:tsuruga-museum.jp

(日本語・英語・ポーランド語)

外交官に救出されたユダヤ人

北出明さんの続・命のビザ英語版を会場で配布

北出明さん

 「命のビザ」に関連したテーマで2010年から調査・執筆・講演活動を行ってきた北出明さんが、2012年に出した前著『命のビザ、遥かなる旅路〜杉原千畝を陰で支えた日本人たち〜』の続編で一昨年11 月に出版された『続・命のビザ、遥かなる旅路〜7枚の写真とユダヤ人救出の外交官たち〜』の英語版(キャッツ邦子・訳)が当日の招待客に配布された。

ジャズマンの父親の物語
ウラジオストクから日本

左からデービッドさん、ドブさん、シラさん

 レセプションがまだ盛大に続いている時に記者は総領事公邸を出た。後ろから総領事館の職員が追いかけてきて青いトートバックを敦賀からの土産だと言って手渡してくれた。地下鉄に乗ってオフィスに戻る車内で、目の前で同じ青いトートバックを持っている若いカップルに気づいた。「レセプションにいたのですか」と尋ねた。そうだという。二駅目で降りなくてはならず、詳しい話はできなかったが、自分が記者であることを伝えて名刺を渡して連絡してくれるよう頼んで別れた。話せたのは2分くらいだった。翌日、メールがきた。

おはようございます。

 こちらはドブ・マンスキーです。妻のエリン・パーシュと昨夜、電車であなたに会いました。お会いできて、簡単にお話できてうれしいです。以下は、昨夜のイベントに参加した私の父David Manskiが語った、私の家族のポーランドからの脱出についての詳細なストーリーです。このメールは父とも共有していますので、私の家族の物語についてさらに質問がある場合は、そちらをご覧ください。

あなたは音楽ファンなので、今夜の私のライブに招待したいと思います。私はジャズ・ギャラリーで演奏し、私の両親と西川明氏は7時30分のセットに参加します。もしお時間があれば、ぜひご参加ください。

 ここで、私の父デービッド・マンスキーが語る、私の家族の物語をご紹介しましょう。

 私の祖父(父の父)は1937年にポーランドのリダからアメリカに渡りました。彼の妻(父の母)は、1939年にアメリカに来るための手続き(ビザの取得)をすでに始めていたようです。その後、ドイツとロシアがポーランドに侵攻し、彼らはワルシャワのアメリカ大使館に書類を取りに行くことができなくなったのです。リダは東部にあり、ロシアに侵攻されたので、祖母、サム(叔父)、ミラ(叔母)、父サウル(当時10歳くらい)はリトアニアに行き、いとこの家に泊まりました。また、父の叔父と叔母、1番目の従兄弟とその年老いた祖母も一緒に出発しました。リトアニアでは、おそらくカウナス(当時の首都)でアメリカ政府からビザを取得したのだろうが、ロシアで取得しなければならないと言われた(あるいはそのようなことを言われた)。そして、杉原氏が通過ビザを出したという話を聞いたのでしょう。カウナスまで行ってビザを取ったのは、祖母とミラおばさんです。叔父のサムは19歳くらいで、徴兵されやすいので、隠れて人前に出なかった。父はまだ若かったので、カウナスまで行くのは無理だったようです。彼らは、祖母とミラと父に1枚、サムに1枚の計2枚の通過ビザを取得した(18歳未満の場合は、親のビザ)。そのおかげで、彼らはモスクワに行き、そのままシベリアを横断してウラジオストクに行き、日本に行くことができたのです。1941年1月初旬に日本に到着し、5月に船でシアトルへ向かった。彼らは他のユダヤ人難民と一緒に神戸にいました。父の祖母は高齢でこの旅には出られず、他の親族と一緒にリトアニアに残されましたが、全員ナチスによって殺されました。私の家族のようにアメリカのビザを持っていなかった叔父、叔母、従兄弟は、昨晩お話した上海のゲットーに送られたそうです。

 もし、これが興味深く、お役に立てれば幸いです。

また、質問があれば教えてください。

よろしくお願いします。

Dov Manski

 終日外出していてこのメールに気がついたのは、午後6時を過ぎていた。演奏は午後7時30分。「まだ間に合う」。マンハッタンのブロードウエー27丁目の会場まで急いだ。 トリプルブラインドというジャズグループで、ドブ・マンスキーはピアノとキーボード奏者だった。チック・コリアを思わせる繊細な演奏だった。父親のデービッドさんと母親のシラさんも来ていた。敦賀市観光部・人道の港発信室の室長、西川明徳さんも一緒だった。3年ぶりの再会だという。演奏後会場を出ると土砂降りの雨だった。   (三浦)