独立記念日祝う花火咲く

イーストリバー

 ニューヨークの独立記念日恒例の花火大会「第47回メーシーズ・フォース・オブ・ジュライ・ファイヤーワークス」が4日夜、イーストリバーで開催された。今年の式典は特に、5月24日に死去したロックの女王ティナ・ターナーさんを称え、カスケード効果を利用した金色の光がイースト・リバー上1マイル以上を照らした。

  花火は、イースト・リバーの東26〜40丁目に停泊する5艘の艀から打ち上げられた。この模様は、NBCが生放送し、同社傘下のオン・デマンド・サービスのピーコックが配信した。

(写真・植山慎太郎)

カワイイ+SUSHI

【編集後記】
 みなさん、こんにちは。日本のポップカルチャー「カワイイ」文化と「寿司」の日本食文化とを合体した新コンセプトの寿司レストランがこのほどニューヨークのソーホーに開店しました。世界のセレブに愛された原宿「KAWAII  MONSTER CAFE」を生み出した “King of Kawaii”の異名を持つアーティスト、増田セバスチャンさんがクリエイティブディレクションを務めているお店「SUSHIDELIC(スシデリック)」です。店内に入るとまるで異世界に迷い込んだようなサイケデリックでアイコニックな空間が広がります。ゲストを案内するのはカラフルなオーダーメイドの衣装を身に纏ったキャストたち。天井には、3匹の猫のアートが展示され、カウンター席から楽しめる回転寿司レーンは、ピンク色の特注品。増田セバスチャンの「カワイイ」を見て触れて食べる、単なるレストランでの食事を越えた体験を提供するのがコンセプト。パフェグラスに盛られたチラシパフェ、カラフルなアペロール、マカロンのマグロづけサンドなど斬新なメニューのおまかせが85ドル。6月28日にオープンしたばかり。増田さんは「ニューヨークに移住してきて約1年。街を見て思ったのはNYは意外と色がないことです。そこでアートで元気にするのは何かと考えたら、カワイイを使ってこの街に勇気を与えられる寿司の新しいプレゼンテーションをやることにしたんです。サイケデリックとデリシャスをテーマにアートや音楽も含めてアディクトするものというのがコンセプトで店名をスシデリックにした」そうです。寿司を握るのは、自動寿司ロボットで、日系メーカーのオーティックが全面的に担当していて、米国で年間2000台を販売する勢いのある会社が技術面を支えています。もはやこれが寿司と呼べるのかどうかもわからなくなるカラフルな寿司アート。誰も考えつかない世界の提言ですが、すでに7月の予約は一杯でSNSでインフルエンサーが拡散してなんと2300人がウエイティングの予約待ちという食べる前からの大人気です。住所は177 Lafayette St, New York, NY 10013です。それでは皆さんもよい週末を。(週刊NY生活発行人兼CEO、三浦良一)

【今週の紙面の主なニュース】(2023年7月1日号)

(1)カワイイ+寿司! セバスチャン増田氏

(2)ロイ芦刈さん死去 乳腺外科医の世界的権威

(3)EATOUT 火鍋と寿司専門大型店 ミッドタウンに

(4)JAPAN CUTS 北米最大の日本映画祭

(5)マイナンバーカード 海外日本人の恩恵が先行

(6)潜水艇沈没の悲劇 艇長夫人の祖先が乗船

(7)日本酒利き酒会 ジャパン・ソサエティーで

(8)ストーンウォール 反乱の歴史大行進

(9)MANITOGA ラッセル・ライトの「偉大な魂の場所」

(10)ジャズの本場で演奏活動中 ジャズピアニスト 藤原亜利奈さん

カワイイ+寿司!日本文化異次元の融合

セバスチャン増田氏NYで手がけて開店

 「カワイイ」と「寿司」とを合体した新コンセプトの寿司レストランSUSHIDELIC(スシデリック)がソーホーに6月28日オープンした。世界のセレブに愛された原宿「KAWAII  MONSTER CAFE」を生み出した “King of Kawaii”の異名を持つ増田セバスチャン氏がクリエイティブディレクションを務めている。

 テーマは「没入型のカワイイ食体験( Immersive Kawaii Experiences)」。店内に入るとまるで異世界に迷い込んだようなサイケデリックでアイコニックな空間が広がる。ゲストを案内するのはカラフルなオーダーメイドの衣装を身に纏ったキャストたち。

 天井には、3匹の猫のアートが展示され、カウンター席から楽しめる回転寿司レーンは、ピンク色の特注品。増田セバスチャンの「カワイイ」を見て触れて食べる、単なるレストランでの食事を越えた体験を提供するのがコンセプト。

 現代日本のアイコンとなった「カワイイ」文化と日本の伝統食文化「寿司」の異次元文化のコラボだ。

 増田さんは「ニューヨークに移住してきて約1年。街を見て思ったのはNYは意外と色がないことです。そこでアートで元気にするのは何かと考えたら、カワイイを使ってこの街に勇気を与えられる寿司の新しいプレゼンテーションをやることにしたんです。サイケデリックとデリシャスをテーマにアートや音楽も含めてアディクトするものというのがコンセプトで店名をスシデリックにした」という。寿司は、自動寿司ロボットメーカーのオーティックが全面的に担当していて、同社の田中上千社長は「寿司職人が見つからない昨今でも、仕事環境の新しい流れを作り、日本のお祭りや誕生パーティーのような楽しい雰囲気を体験できる店」と話す。メニューは、当面おまかせ(85ドル)のみで、すでに7月の予約は一杯で、ウエィティングが2300人と出だしは好調だ。 

「カワイイ」と寿司の融合「SUSHIDELICNY」が開店

 アソビシステム株式会社(本社・東京都、中川悠介社長)は、商業用の「すしロボット」販売をアメリカで手掛けるAUTEC Inc.(田中上千社長)、食品卸業を扱う株式会社スリーウェイズ(本社・東京都、平井元貴社長)と共同で、アーティスト・増田セバスチャンが クリエイティブディレクションを務める 新たな寿司レストラン「SUSHIDELIC」(スシデリック)をソーホーにオープンした(1面に記事)。

 オリジナルメニューの開発にあたり、日本人シェフとAUTEC社が全面的にバックアップした。独創性溢れるメニューを今回増田セバスチャンと一緒に考案したのは、日本人シェフの安陪弘樹氏。2001年に渡米後、ニューヨークの日本食レストラン 「EN Japanese Brasserie 」などでエグゼクティブシェフを務め、 現在はアメリカ現地の企業イベントやホームパーティにひっぱりだこの人気プライベートシェフとして活躍している。また、技術面では、北米にて自動寿司マシンのシェアナンバーワンを誇るAUTEC社がサポート。日本人シェフ、日本のフードテックが「Kawaii」と融合し、美味しくて新しい日本の寿司を提供する。


SUSHIDELIC

177 Lafayette St, 

New York, NY 10013

https://www.sushidelic.net

Instagram:@sushidelic.nyc

予約は: resy.com


 増田セバスチャン=1970年生まれ。ニューヨーク在住。1990年代前半より演劇や現代美術に関わり、95年に表現の場としてのショップ「6%DOKIDOKI」をオープン。一貫した独特な色彩感覚からアート、ファッション、エンターテインメントの垣根を越えて作品を制作。2017年度 文化庁文化交流使、18年度ニューヨーク大学客員研究員、19年 Newsweek Japan 世界が尊敬する日本人100人に選出。

乳腺外科医の世界的権威、ロイ芦刈さん死去

 乳腺外科医の世界的権威、芦刈宏之ロイ医学博士が6月12日夜、ケンダル・オン・ハドソンで死去した。91歳だった。芦刈氏は1931年、当時日本が占領していた中国の大連で生まれ、第二次世界大戦後、家族と大分に帰国し、慶應義塾大学医学部に入学。卒業後、米国に移住し、ブロンクスのフォーダム病院でインターンとして働き、そこで最初の妻と出会って家庭を築き、2人の子供に恵まれた。その後、マウント・サイナイで外科研修医を修了し、メモリアル・スローン・ケタリングで外科腫瘍学フェローシップを修了。80年にメモリアル・スローン・ケタリングを退職し、ウエストチェスター郡で最初の外科腫瘍学サービスを立ち上げた。ニューヨーク州バルハラにあるニューヨーク医科大学で外科教授を務め、83年に芦刈乳腺外科センターを設立。ウエストチェスター郡全域の患者を診て最終的に84歳で引退した。80年代初頭に日米医学生交流プログラムを立ち上げ、何百人もの日米医学生を教育し、現在も継続している。2002年、日本政府より勲三等瑞宝章を受章している。葬儀は6月24日、ニューヨーク州プレザントビルのビーチャー・フロークス葬儀場にてしめやかに行われた。

ロイ芦刈さん逝く

NY日系社会にも貢献

 乳がん医療の世界的権威ロイ芦刈さんの葬儀が6月24日、ニューヨーク州プレザントビルのビーチャー・フロークス葬儀場にてしめやかに行われた(1面に記事)。次男で喪主のアンドリュー・芦刈氏が弔辞を述べ、慶應義塾ニューヨーク学院を代表して巽孝之学院長からの弔辞をディーンのエドワード・コンソラティ氏が代読した。芦刈家の遺族の希望で、供花は慶應NY学院へ寄付してほしいというアナウンスがあり、同学院では芦刈記念奨学金(https://www.keio.edu/giving)を設立することになった。

 葬儀には佐藤貢司NY日系人会(JAA)会長、スーザン大沼JAA名誉会長、本間俊一JAA副会長/日本人医師会元会長ら100人余りが列席した。会場には芦刈氏の外科医としての多くの功績を示す資料や子供時代から今までの写真が飾られた。  

 JAAの資料「日系人会の顔」(第34回、2001年6月7日号)によると、芦刈氏は、1931年中国大連で生まれ、敗戦と同時に、家族と引き上げ船で佐世保に帰国した。大分で1年を過ごした後上京、慶應大学医学部を卒業後の1958年、26歳で「海外医科卒生交換研修制度」で渡米した。米国留学を決めたのは、当時の強いアメリカへの憧れと、父親も早稲田大学卒業後米国に留学し、親しみもあったことや、母が亡くなり父は出家、兄妹も独立し、一人になったことから軽い気持ちで決めた。NYに到着したその日から、市立フォーダム病院でインターンレジデントとしての生活がスタート、何もわからない中、隔日当直の週120時間勤務で週給125ドルという厳しい研修が続いた。この頃、同氏が後にがん医療の道に進むきっかけとなった亡妻のジュディさんと出会った。1年の交際後結婚、より高い医療技術を求めてマウント・サイナイ医科大学に移り、研修期間が終わりアテンディングになった時、ジュディさんのがんが発見された。レジデントで外科を選択していた芦刈さんは、がんを専攻しようと「メモリアル・スローンケタリング・がんセンター」に応募、採用された。しかし、ジュディさんは氏の献身的な看病と治療もかいなく27歳の若さで、2人の男の子を残して亡くなった。

 この頃、病院で乳がん治療の世界的権威を持つ医師が病院を移ることになり、その後を継いでほしいと請われ、脾臓・肝臓がんの研究・治療を目指していた芦刈さんは迷った末に応じた。その後の活躍は目ざましく、手術が早くて術後がきれいということで「スピーディー・ゴンザレス」と敬意を込めて異名されたその手腕をいかんなく発揮、ロックフェラー副大統領夫人を始め、数多くの著名人の執刀・治療に携わってきた。80年に外科教授兼主任としてNY医科大学に転任、年間500回を超える手術を行った。米国での治療方法、がんに対する啓蒙運動、社会と患者が助け合う精神など手本とすべきものを、過去、日本の学会や大学で精力的に講演、日本医学界に大きな影響を与えた。また、交換医学留学生制度の創設や、日系医学生への奨学金など、後進の育成にも取り組んできた。日本政府から勲三等瑞宝章を受章。芦刈さんは常々学生に「自分のお母さんを治療するような気持ちで、患者さんに接し、そして信頼される医師になりなさい」と言っていたそうだ。

 当時本人にインタビューしてこの記録を書いたNY日系人会の野田美知代事務局長は「当時すでに、名医で有名でしたが、日本人コミュニティーのドクターとして貢献されていました。先生は紳士的で、慶應ボーイで、背も高く、日本人の誇りを感じました」と話している。

火鍋と寿司専門の大型店ミッドタウンに

 ミッドタウンに中国の伝統的な火鍋と日本の寿司を中心とした革新的なラグジュアリーレストラン「Raosu Hotpot & Sushi」が6月15日オープンした。落ち着いた雰囲気の店内で上質な料理の数々を一人69ドル99セントで食べ放題。アンガスビーフ、スノーフレークビーフ、ショートリブ、オイスター、車海老、オーガニックポークベリー、プレーリーチキンなどの最高級の鍋メニューと、寿司メニューの定番ロールや刺身を堪能できる。火鍋のみなら1人49ドル99セント。伝統的な中国の火鍋と日本の寿司とのユニークな融合だ。

 店内は200席。1万平方メートルの大型店で、3つのダイニングエリア、オープンキッチンを備えた寿司バー、フルバーエリアがある。同店は、フラッシングにある1500席のNY最大の中華宴会レストラン「ロイヤル・クイーン」やマンハッタンの上海料理店「レッド・ピオニー」を手がけたコニー・チャンがオーナー経営者。12歳で来米したコニーさんは、2014年にニューヨークで最初のレストランをオープンし、以来ニューヨークで最も愛されているチャイニーズ・ダイニング・スポットを提供し続けている。

オーナーのコニーさん(左から2人目)

 コニーさんは「私のビジョンは、ニューヨーカーのペースの速い多様なライフスタイルに対応しながら、比類のない品質へのこだわりを維持するダイニング体験です。味と文化のエキサイティングな融合は、すべてのゲストをニューヨークの賑やかな大通りから中国と日本の活気ある食の旅にお誘いします」と話す。ソフトオープン期間中の現在は期間限定特典として、1テーブルにつきロブスター1匹をサービス中だ。(三)


Raosu Hotpot & Sushi

310 W 38th St, 

New York, NY 10018

営業時間 月〜金 11:30-23:00

土日 12:00-22:30

TEL 212-884-1218

https://raosu.com/

https://www.instagram.com/raosuhotpot/


JAPAN CUTS

北米最大の日本映画祭

ジャパン・ソサエティー

 ジャパン・ソサエティー(JS・東47丁目333番地)は7月26日(水)から8月6日(日)まで、毎夏恒例、北米最大の日本新作映画祭「ジャパン・カッツ」を開催する。今年で16回目となる今回は3年ぶりに全ての作品を劇場にて上映。時代劇から家族ドラマ、青春物語、コメディー、スリラー、ドキュメンタリーや実験映画まで幅広いジャンルを取り揃え、全29作品を上映する。

 期間中は6人の特別ゲストを迎え、レセプションパーティーを開催する。特別ゲストは次のとおり。柳楽優弥(『ターコイズの空の下で』出演)、KENTARO(『ターコイズの空の下で』監督)、エリザベート・レナール(『トーキョー・メロディー』監督)、矢野顕子(『トーキョー・メロディー』出演)、大友啓史(『レジェンド&バタフライ』監督)、石橋夕帆(『朝がくるとむなしくなる』監督)。

© Turquoise Sky Film Partners, IFI Production, KTRFILMS

 オープニングは日本公開時に半年で累計1000万人の動員数を記録した『THE FIRST SLAM DUNK』の東海岸初公開(写真上、©  I.T.PLANNING,INC.© 2022 THE FIRST SLAM DUNK Film Partners)。スラムダンク・シリーズとして33年ぶりとなる長編アニメ映画で、原作者の漫画家・井上雄彦の初監督作品。センターピースは、『ターコイズの空の下で』を上映。またジャパン・カッツでは、日本映画界へ著しく貢献した監督や俳優の功績を称える「CUT ABOVE Award for Outstanding Achievement in Film」(映画への卓越した貢献を讃える賞)を設けており、今年は同作主演の俳優・柳楽優弥に贈られる。国際的俳優として活動をしてきたKENTAROが初の長編映画として監督した同作は、モンゴルの草原を舞台に日本人青年の成長を描いたロードムービー。日本・モンゴル・フランス合作の国際色豊かな同作を米国初公開するにあたり、柳楽とKENTAROを特別ゲストとして迎え、上映後の質疑応答やレセプションパーティーを実施する。

©Elizabeth Lennard

 「クラシック」部門は、今年3月に亡くなった作曲家・坂本龍一への追悼の意を込めて、ドキュメンタリー映画『トーキョー・メロディー』(1985年)を上映。フランスとアメリカで活躍するエリザベス・レナールによる同作は、YMO解散後である80年代半ばの坂本の素顔に迫る。上映に先立ち、同作要のシーンに登場するミュージシャン・矢野顕子が登壇・挨拶、レナール監督との質疑応答を行う。

               ◇ 

 入場料は、上映会18ドル、JS会員14ドル、シニア・学生・障がい者16ドル。レセプションパーティー付き上映会は22ドル(JS会員17ドル、シニア・学生・障がい者20ドル)オールアクセスパスは300ドル(JS会員のみ購入可)。チケット・詳細はウェブサイトhttps://japansociety.org/film/japancuts/を参照。

マイナンバーカードは海外日本人の恩恵が先行

 2024年5月から海外日本人もマイナンバーカード(以下カード)が取得できることを昨年11月の本紙で報告しました。オンラインでの本人確認や行政手続も可能になります。カードの変更や交付期限が切れても帰国せずに手続きができる流れです。またオンラインによるパスポート申請も可能になります。

 しかし、日本国内でカードをめぐる不祥事が後を絶ちません。24年秋の健康保険証との一体化、25年秋の保険証廃止に対する反発が強く、この一体化を「延期ないし廃止すべき」とする人が72%です。

 コンビニでの別人の住民票の発行、マイナ保険証に別人の情報のひも付け、公金受取口座に別人口座の登録などが起きています。マイナ保険証を使える医療機関は3割程度しかなく、マイナ保険証を使える医療機関の65%でトラブルが起きていることも深刻です。米国のソーシャル・セキュリティーカードが、不正や人的間違いが起きないシステムであるのとは大きく異なります。

 私はマイナンバー制度は、米国のような安全弁の効いたシステムにすれば国民の利便性と行政の効率化になると思います。しかし、国内の日本人には恩恵が明らかでなく、むしろ不安と不信を招いています。

 カードを取得すれは2万円がもらえるという「アメ」と、マイナ保険証への一体化という「ムチ」でカード加入を強いたことが原因と言われます。

 現在の保険証に特別問題はないのにマイナ保険証への一体化によって困る患者や医療機関などが続出してます。

 これに対し、海外日本人にとっては、カードによってのみオンラインでの本人確認や行政手続ができるという恩恵があります。在外投票も在外公館との距離、郵便投票の不備などから、ネット投票しか名案がないのと同じです。

 岸田文雄首相は、保険証廃止は「国民の不安の払拭(ふっしょく)が大前提」で、「コロナ対応並みの臨戦態勢で政府横断的に取り組む」と宣言しています。日本の政治責任の不明確さと縦割行政を大改革する時です。

 今はまず、来年4月のカード取得が実現するように声を大にして頂きたいと思います。その次に、日本政府が国内の日本人にも恩恵をもたらすようなマイナンバー制度と安全体制を確立するよう求めて頂きたいと思います。

 ふじた・ゆきひさ=慶大卒。世界的な道徳平和活動MRAや難民を助ける会で活動した初の国際NGO出身政治家。衆議院・参議院議員各二期。財務副大臣、民主党国際局長、民進党ネクスト外務大臣、横浜国立大講師等歴任。アメリカ元捕虜(POW)の訪日事業を主導。現在国際IC(旧MRA)日本協会会長。岐阜女子大特別客員教授。

潜水艇沈没の悲劇

艇長夫人の祖先が乗船

タイタニック号の映画にも

 1912年に北大西洋に沈没した豪華客船タイタニック号の見学に向かったまま連絡が途絶えた潜水艇「タイタン号」について、米沿岸警備隊は6月22日、タイタニック号の残骸から500メートルほど離れた水深3800メートルほどの海底でタイタン号の破片が見つかったと発表した。水圧で船体がつぶれたとみられ、タイタン号を運営するオーシャンゲート・エクスペディションズは乗っていた5人は死亡したと発表した。(写真上:沈没した探査潜水艇タイタン号(上)とタイタニック号(下))

 タイタン号に乗っていたのは、オーシャンゲート・エクスペディションズのストックトン・ラッシュCEO(最高経営責任者。61)、英国人富豪ハミッシュ・ハーディング氏(58)、フランス人探検家ポール・ヘンリー・ナルジオレット氏(77)、パキスタン財閥のシャザダ・ダーウッド氏(48)と息子スライマン氏(19)の5人。ニューヨークタイムズ紙によると、ラッシュCEOの妻ウェンディ・ラッシュさん(61)は、タイタニック号沈没で亡くなった乗客の「玄孫(やしゃご=ひ孫の子ども)」に当たるという。

遭難したストラウス夫妻(写真左)は、映画で共に船に残った老夫婦(写真上)のモデルとみられる

 タイタニック号の事故当時、一等客室にメイシーズ百貨店の共同経営者のイジドー・ストラウス(当時67歳)と妻のアイダ・ストラウス(当時63歳)が乗船していた。船が氷山にぶつかる事故が発生し沈没しかかるなか、夫妻は救命ボートに乗れることになった。しかしボートが足りないため女性と子供が優先して乗せられているのを知ったイジドーはボート乗船を拒否、妻のアイダも40年間連れ添った夫のイジドーと運命を共にすることにした。イジドーの遺体は沈没して2週間後に海で発見されたが、アイダの遺体は見つからなかった。メーシーズ百貨店ニューヨーク店には夫妻の刻板が飾られている。ウェンディ・ラッシュさんはこの夫妻の玄孫にあたる。

 ジェームズ・キャメロンが監督し世界的大ヒットとなった映画「タイタニック」(1997年公開)では、沈んでいく船の中で老夫婦がベッドで抱き合うシーンがあるが、この夫妻がモデルとみられている。

 33回にわたって15年以上潜水艇でタイタニック号を調査したジェームズ・キャメロン監督はテレビのインタビューで、「タイタニック号とタイタン号の事故の類似性に衝撃を受けた。警告が無視された同じ場所で、非常によく似た悲劇が起きたことは驚くべきことだと思う」などと語った。

 タイタニック号には日本人としては唯一、鉄道官僚の細野正文が乗船していた。救命ボートに乗ることができて一命を取り留めている。ミュージシャンの細野晴臣さんの祖父にあたる。

日本酒利き酒会

ジャパン・ソサエティーで

 ジャパン・ソサエティーで6月21日と22日、日本酒輸出協会の講演と利き酒会が開かれた。同会は米国で活動を始めてから昨年25周年を迎え、同ソサエティーでのイベントがコロナ禍で開催できない年もあったが以来毎年行ってきた。イベントには日本から南部美人、内ヶ崎酒造店、奥の松酒造、下越酒造、御祖酒造、天鷹酒造、李白酒造、今田酒造本店、旭酒造、天山酒造、千代の園酒造の11蔵の蔵元が参加した。

 21日は日本酒伝道師のジョン・ゴントナー氏が「Flavors Across Japan」と題したワークショップを行った。各蔵のテロワールや地域性、それぞれの蔵の日本酒の特徴を紹介しながら参加者はテイスティングをした。22日はurbansake .comの創設者ティモシー・サリバン氏が「In Search of the Perfect Sip」と題した、楽しい日本酒の飲み方について講演。また今年秋にはニューヨーク州ハイド・パークに製造蔵をオープン予定の山口県旭酒造「獺祭」の桜井博志会長がニューヨークの製造蔵について講演した。 

 講演後、参加者は各蔵の約35種類の日本酒を楽しんだ。日本から参加した佐賀県天山酒造の代表取締役・七田謙介氏は「25年前にジャパン・ソサエティーで初めて開催したことを思い出し感慨深かった。未曾有のパンデミックを経て4年ぶりの会となったが、ニューヨークの皆さんの日本酒愛を感じ、改めて世界へ挑戦していく手ごたえを感じた」。島根県李白酒造・代表取締役の田中裕一郎氏は「コロナ禍もあり久しぶりにニューヨークに来たので心配していたが、日本酒を好きな人や興味を持ってくれている人が増えていてうれしかった」と話した。また、同ソサエティー・イベント事業部長の関谷朋美さんは「コロナ禍を経て4年ぶりの対面開催だったが、多くの参加者があった。ニューヨークの酒シーンもこの25年間で大いに発展した、今後も日本酒の魅力を伝えていきたい」と語った。22日は地元ニューヨークのクラフト酒ブルワリーのブルックリン・クラも参加して彼らのSAKEも振舞った。(石黒かおる、写真も)

ストーンウォール反乱の歴史大行進

 ニューヨーク市のLGBTQの歴史の継承を促すポッドキャスト「メイキング・ゲイ・ヒストリー」と非営利団体NYCLGBTQヒストリック・サイト・プロジェクトはプライド月間の今月、ストーンウォールの反乱の歴史を伝えるプロジェクトをクリストファー・パークでスタートした。 

 同プロジェクトは、音声技術「トーキング・スタチューズ」を利用し、ストーンウォール・イン向いの同公園内にある4体の白い銅像のそばにある標識のQRコードをスマートホンで読み取ると、銅像たちが語りかけるようにストーンウォール・インの反乱の歴史を聞くことができる。音声収録には、ミュージカル「お熱いのがお好き」のジェリー/ダフネ役でノンバイナリー公言者としては初めてトニー賞を受賞したばかりのJ・ハリソン・ギーさんをはじめとする5人のLGBTQの著名舞台俳優たちが協力した。NY市内には「トーキング・スタチューズ」技術を利用した銅像や記念碑は30か所以上あるが、LGBTQの歴史を語る銅像は国内初だという。 

 グリニッジ・ビレッジのゲイバー「ストーンウォール・イン」は、1969年6月28日、踏み込み捜査を行った警察とLGBTQ当事者たちの対立が暴動に発展し、現在に至るLGBTQの権利獲得運動の発祥の地として知られ、米国定歴史建造物に指定されている。今回のプロジェクトに使われている4人銅像「ゲイ・リベレーション」は、アーティストのジョージ・シーガル氏がLGBTQの権利と連帯を象徴する国内初のパブリック・アートとして80年に制作し、92年にストーンウォール国立記念碑の一部として同公園に寄贈した。 

(写真右:25日に開催されたプライドパレード(植山慎太郎撮影))

MANITOGA

〜ミッドセンチュリーのデザイナー、ラッセル・ライトの「偉大な魂の場所」

 ホワイトプレーンズから車で北へ約45分、パットナム郡の小さな町ガリソンの南に位置する「マニトガ」。1900年代半ばに活躍したデザイナー、ラッセル・ライト(1904〜1976)の居宅とスタジオ、庭園を一般公開しているもので、ライトはこの場所を原住民族アルゴンキン族の言葉で「Place of great sprit」を意味する「マニトガ」と名付けた。数年前に「インテリアデザインやガーデンに興味がある人は必見」と米雑誌に紹介されていたのを読み、行ってみよう!と思ったものの冬季は閉鎖+春から秋も金〜月のみ公開+完全予約制のため、タイミングが合わずなかなか実現できずにいたが、この6月にようやく訪れることが出来た。期待を遥かに超えた素晴らしい体験で、NY郊外の「お気に入りの場所」がまた一つ増えた。

■ラッセル&マリー・ライト

 共にデザイナーのラッセルとマリーは結婚後「ライト・アクセサリー」を設立し、金属製の動物オブジェやアルミニウム製のカトラリーなどホームアクセサリー・ビジネスを展開した。その後「家庭の中心はダイニングテーブル」としてカラフルなディナーウェアをデザイン。陶器製、プラスチック製のシリーズ共にアメリカン・モダンデザインを代表するものとなり、プラスチック製食器の「レジデンシャル」は53年にNY近代美術館のグッドデザイン賞を受賞している。

 ラッセルは他に家具やテキスタイルもデザインし、当時のアメリカンデザインを牽引する一人として活躍。妻のマリーはビジネス面で才覚を表し、「ライト・ブランド」を不動のものに築き上げた。また、夫婦は効率的な設計と家事管理により家事を減らして余暇時間を増やす方法「Guide to Easier Living」を出版、ベストセラーとなる。

■荒地を再構築

 1942年、シティ在住のライト夫妻はパットナム郡の広大な敷地(30ヘクタール)を購入。森林伐採と採石により荒れ放題だった敷地を、夫妻は当時まだ広まっていなかったサステナビリティの概念を念頭に置いて設計・構築し直した。まずは渓流の方向を変えて高さ約9メートルの滝を作り、その流れを採石場跡に導いて池を作った。更に岩を砕き、石段やテラス、橋を設置し、苔を植え、地域の樹木と植物を植えて、森林景観デザインを行った。

 52年に妻のメアリーが亡くなった後、ラッセルは池を見下ろす岩棚に家とスタジオを建築。屋根は植物が育つよう設計され、大きなガラス窓が建物の外と中の区別を曖昧にし、家の中にも大きな岩や樹木を取り入れるなど、建物が自然と融合するようさまざまな工夫が取り入れられている。

 池に面した大きな岩を「ドラゴン・ロック」と呼ぶが、これは当時幼かった娘アニーが「龍が池の水を飲んでいるみたい」と言ったのをラッセルが気に入って名付けたもので、今ではマニトガ2つの建物の代名詞になっている。

■マニトガツアー

 敷地内には全長4マイルのトレイルが整備されており、こちらは予約無し・無料(任意寄付5ドル)で散策できるが、建物内にはツアー予約客のみが入れる。ツアーは庭の散策を含めて約1時間半。まずは池をぐるりと回りながら、どのようにライト夫妻がこの地を再構築したのか説明を聞き、ラッセルのオフィス兼ゲストハウスだったスタジオと、現在は一部ギャラリーとなっている母屋の内部を見学する。

 2つの建物は池を見下ろす高台にあり、大きな窓から望む景観は絶品。そして建物の内部は隅から隅までラッセルのこだわりが形になっている。例えばスタジオのドアノブ。玄関ドアに

は手のひらにすっぽり収まる天然石を、内部からテラスへのドアには日本の古い真鍮作品を使用している。1年ほど日本に滞在したことがあるラッセルは日本の建築要素をそこかしこに取り入れていて、窓際に深めのバスタブが置かれたスタジオのバスルームは、洗い場こそないが日本のお風呂そのもの。

 日本の建築要素は母屋にも多用されており、置いてある家具はミッドセンチュリーデザインなのに、中2階の小部屋にはなぜか和室の趣が漂う。ギャラリーへの入り口は和風建築の上がり框を、暖炉横の戸棚は床の間の袋戸棚を、植物の葉を混ぜ込んだ漆喰壁は田舎の土蔵を思い起こさせる。

■ライトが遺したもの

 96年に米国歴史登録財に、建物は06年に国定歴史建造物に指定されたマニトガ。サステナブルやエコの概念が一般に浸透するずっと前に、ラッセルは自然環境に融合した家を建て、その内部には天然素材と合成素材を並置、効率と機能性を重視したデザインを実践した。晩年、ラッセルは「全てのデザインプロジェクトの中で、最も満足しているのはこの家のデザイン」と語っている。マニトガの魅力は半世紀経った今でも色褪せることなく、見る者を惹きつけて止まない。展示物としてではなく、「こんな家に住みたい」という思いと共に。

MANITOGA

584 NY-9D, Garrison, NY 10524

電話845-424-3812

www.visitmanitoga.org

会期11月13日(月)までの金〜月。ツアーは全て要予約。最も一般的なツアー「デザイン・アート・ネイチュア」約90分の開始時刻は午前11時、午後12時、1時、2時の4回。料金は大人も子供も一人30ドル(10歳以下は入場不可)。石段などを登るので歩きやすい靴で行くこと。予約不要のトレイルは日没まで。紅葉の時期はすぐに売り切れるので早めに手配を。