次元の異なる災害、能登半島地震を考える

 1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災、2016年の熊本震災と比較すると、今回の能登半島地震は災害として全く次元が異なる。もっと言えば、あらゆる点で過去の災害と異なっており、救助にしても復興にしても全く異なった発想が求められると思われる。

 まず、発生が元日の午後4時過ぎという特殊な時間帯であった。過疎地でありながら、帰省した家族が相当数あり、多くの家庭では大家族が集結していた。そのために被災したケースもあったが、高齢者の孤立が避けられて避難や救出につながったケースも多かったと思われるのは不幸中の幸いだ。

 その一方で、報道機関の初動は極めて遅かった。コストの問題や労働条件の問題もあり、有能なクルーを元日に急派する体制は現在の日本のメディアにはなく、全国に情報が届くのが著しく遅れた。北陸朝日放送など、地元のローカル局の孤軍奮闘が目立ったのも事実だ。2日には羽田空港での海保機と日航機の衝突事故というニュースが発生したことも、災害の詳細情報について浸透を遅らせることとなった。そのような中で、「地元の迷惑だから報道機関は入るな」といった日本独自の妨害の罵声が大きくなり、現在も被災状況の詳細は全国に伝わっていない。

 一番の特殊性は能登半島、しかも突端の奥能登が震源であったことだ。北陸新幹線の開通により金沢は関東圏からの利便性が劇的に向上した。そして多くの日本人は、同じ石川県である能登半島は金沢の「すぐ先」だと思っている。けれども実際は違う。能登半島は南北に長く東西にも広がった巨大な半島である。例えば、半島中部の七尾市街や、和倉地区でさえ、金沢からは車で1時間半かかる。和倉までは鉄道があるがやはり金沢から1時間半である。北の輪島になると、半島西岸を走る高規格道路を経由しても丸々2時間で、突端の珠洲までは更に30分弱を要する。キロ数で言えば、ほぼ140キロある。距離が遠いだけではない。山が険しく、海岸線も切り立っている箇所の多い中では、平時でさえ交通の便は良くない。

 さらに言えば、文化も異なる。能登半島(能登国)は前田藩加賀百万石の一部を形成しており、現在の石川県の枠組みとほぼ同じように政治的には金沢との結びつきは強い。だが、実際は距離と風土の相違から、能登には多様なカルチャーが維持されている。山間部も含めて多くの神社があり、その系統は様々である。朝鮮半島由来の信仰、沿海州や樺太などとの結びつきを示すユニークな信仰が残っていたり、毎年の夏祭り、秋祭りには独特の伝統を伝える社もあり、実はその全体像は解明されていないくらいである。

 今回の震災では、半島全体の生命線とも言える西海岸の高規格道路、東海岸(七尾湾)を通る国道249号(実際は半島周回路)の2本の幹線道路が甚大な被害を受けてしまった。自然現象とは言え、この地域の脆弱性を突かれてしまったことで、大きなコミュニティが事実上孤立してしまった。救援活動にも遅滞を来しているが、これは政府の怠慢ではなくそれだけ自然環境が厳しいが故である。また、谷筋が細かく入り組んでいる中では、谷沿いの隘路が土砂災害などで不通となり、集落が孤立する中で一軒一軒の家屋の状態、そして住民の安否の確認自体が非常に難航している。これも県庁の怠慢ではなく、厳しく入り組んだ地形のためである。

 とにかく、今回の震災では、被害の全体像を把握するのには相当な時間を要するというのは避けられない。土地勘のある地元の行政機関、そして県庁、警察、消防、自衛隊は全力を尽くしており、安易な批判は慎みたい。

 その一方で、能登の人々は強い。厳しい自然環境に耐えて多くの伝統工芸を守り、海の幸、山の幸を活かしながら生活を守ってきた彼らの粘り強さは極めて独特だ。能登出身の知人がよく言っていたのは、自分たちの能登半島は同じ半島でも「南に垂れ下がって」いるのではなく、本州の大きな半島の中では唯一「北へ突き上げる」半島だという。その心意気が個性的な文化を守ってきている。

 そうはいっても、奥能登のとりわけ輪島市、珠洲市の被害は甚大だ。経済規模、過疎化の進行ということを考えると、阪神淡路のような「全面復興」や、東日本のような「巨大堤防と嵩上げの二重防災」というような手厚い復興事業が適当であるかは分からない。もしかすると、仮説住宅の代わりに被災者住宅を建設して、コミュニティごと移転する必要など「新たな発想」が必要という声もある。復興への道のりは、過去の震災と比較すると遥かに困難となるかもしれない。だが、能登の人々は耐えるであろう。文化の一部は失われるかもしれないが、ある部分は確実に守っていくに違いない。

 今は、被災者への救援が最優先であり、そのためにも仮設の交通ルートの突貫工事が急務という段階だ。だが、やがて能登の人々は復興へと立ち上がっていくに違いない。その困難な闘いを、理解しつつ支えることは我々の責務であると思う。(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)

奇跡的な生還世界が称賛

日航機の乗客脱出

羽田空港航空機衝突事故で海外の報道

 1月2日に羽田空港で起きた日本航空350便の旅客機と海上保安庁の飛行機の衝突事故は世界各国でも報じられた。

 事故では海上保安庁の乗組員5人が死亡した。日航機(エアバスA350-900型機)は乗客367人と乗員12人の全員が生還した。1月2日付ニューヨーク・タイムズ電子版は「奇跡:飛行機が爆発炎上して東京に着陸、しかし乗客全員は生き残った」とのタイトルで報じた。

 同記事ではスウェーデン人男性の「数分で客室全体が煙で満たされた」「私たちは床にひれ伏した。そして非常扉が開かれ、私たちはそこに向かって身を投げた」という当時の状況を語る証言を掲載。「日本航空は、おそらく多大なプレッシャーにかかっていたであろう状況下で、乗客367人を避難させることができたとして称賛を集めた」と報じた。

 また、この避難について英国グリニッジ大学教授で防火工学グループの責任者であるエド・ガレア氏が「奇跡的な仕事」と述べたことを紹介した。飛行機は前脚が折れ、機首が下がり尾翼が上がっている斜めの状態だったため、使用された出口は3つだったが全員が避難できたことを称賛している。日本航空の乗務員は90秒以内に乗客全員を避難させるよう訓練されているという。

 記事では、各座席に置かれている安全指示書を作成する会社であるインタラクション・グループのトリシャ・ファーガソンCEO(最高経営責任者)の話も掲載。荷物を取ろうとする人や自分勝手な行動を取る人がいると迅速な避難が難しくなる。乗客全員が無事に降機できたという事実は乗客とスタッフの協力がうまくいったことを示しており、ファーガソン氏が「乗組員の反応速度は素晴らしく、彼らがやったことは驚くべきものだった。全員を救出したのは本当に奇跡だ」などとを語ったことを紹介している。航空アナリストのアレックス・マチェラス氏がBBCに対し、日本航空は安全性のリーダーとして知られていると語ったことにも触れている。

(写真)シューターを使い脱出する乗客(テレビ映像から)

乗員は日頃の訓練の成果
乗客は荷物持たずに従う

 ワシントン・ポスト紙1月3日付電子版は「激しい日航機衝突事故から379人はいかにして逃れたのか」と題する記事を掲載した。専門家らは避難の際は客室乗務員の指示に従い、荷物を置いていくことが重要だと指摘しているが、今回誰一人荷物を持って出た人がいなかったことを報じた。乗客の一人の「叫び声があがりましたが、ほとんどの人は落ち着いて席に座って待っていました。だからこそスムーズに逃げられたのだと思います」という証言を紹介している。着陸して約20分後に火災が発生したが、その前に全員が避難できた。「全員が飛行機から降りて10分ほど経った頃、爆発音が聞こえました。もしもっと遅く避難していたら、助からなかったと思います」との乗客の声を紹介している。

 アジアに本社のある国際線の客室乗務員は匿名で「日本の国内線だったという事実により、避難過程がより簡単になった可能性がある」とワシントン・ポスト紙に語っている。乗客のほとんどは同じ言語を共有しており、指示を理解し、従うことが容易だった。また、この国でよく見られる自然災害への備えとして、日本人乗客は危険と避難について十分な訓練を受けている可能性が高いという見方を伝えている。ただし飛行機には日本人だけではなくスウェーデン人家族や10人ほどのオーストラリア人など外国人も乗っていた。

 記事では、脱出成功のおもな要因は世界中の航空会社が乗務員に毎年行っている安全対策に関する訓練とし、航空安全コンサルタントのエイドリアン・ヤング氏の「これは完全に教科書通りの避難のようだ」との言葉を伝えている。ヤング氏によれば、ほとんどの乗客は着陸するとすぐに反射的にバッグに手を伸ばすという。しかしこれは貴重な時間を費やし乗客の脱出が遅れることになる。今回、脱出シューターから出てくる乗客はほぼ誰も荷物を持っていなかった。

 もう一つの重要な要素は現代の飛行機設計の改善であるという。ヤング氏によれば、今回のA350などの最新の航空機で使用されている複合材料は「煙の発生が遅くなるか、煙の発生が少なくなる」という。ウォールストリート・ジャーナル4日付電子版は「なぜ乗客全員が安全に避難したのか」という題する記事の中で航空の安全がどのように進歩し、飛行機の設計が彼らの生存を確保するのに役立ったかを説明している。CNNテレビは乗客に犠牲者がいなかったことについて「驚くべきことだ」と伝えた。専門家は乗客が荷物を持たずに脱出シューターから機外に出ていたことなどを挙げ、「お手本のような対応」だったとしている。

SDGs目標達成のカギ握るZ世代

古市裕子・著
新潮社・刊

 いまや書店に行けば、SDGs(サスティナブル・デベロプメント・ゴールズ、持続可能な開発目標)という言葉の付いた本が書棚に所狭しと並び、日本でもかなり浸透してきていて、いまさら感もあるが、本書は「ニューヨークのZ世代の視点から、読者をSDGsの世界に引き込む新鮮でエネルギッシュな論法」と元国際連合人道支援調整担当官で、現同志社大学講師の黒田和秀さんが帯で推薦している。コロナ禍を境に環境問題への人々の気づき、企業が経済活動の軸足を移動させるピボット戦略に対して10代から25歳までのZ世代と呼ばれる次世代の若者たちの意識の高さを指摘し、これからの企業価値について記述している。Z世代の視点と言っても著者の古市氏がZ世代という意味ではなく、同氏は長年ニューヨークに住み、ジェトロNY事務所勤務の経験を生かしグローバルにビジネス展開する日本企業、特に北米エリアへの進出支援に関わってきた。

 その一方で、国連大学SDGsサステイナブル高等研究所、国連フォーラムNY勉強会に所属しながらSDGsに関する研究情報に日々大量に触れながら一足先に進む欧米企業のSDGsピボット(転換)戦略の現在をニューヨークから日本に発信している現地エキスパートの第一人者だ。

 同書では、企業がZ世代が起こすトレンドや消費者意識の動向を意識し、商品やサービス、企業のブランディングを経営戦略として表明していく必要性を説いている。NY在住のジャーナリストでZ世代・ミレニアル世代評論家のシェリーめぐみさんの「大きな比率を占めるこの世代は、今後企業が商品やサービスを提供するときの主要市場となる」との分析を引用し、SDGsを意識する次世代による社会的ムーブメントはすでに始まっていると述べている。

 Z世代がビジネスに与える影響について、SDGs理念を取り入れていない商品や、人権問題や差別運動に対し、反対声明を発信していない企業は、社会貢献を放棄している企業と判断される傾向があると指摘する。表面的なブランドイメージよりも、実際にそのブランドが社会に対してどのようなポジティブな活動をしているか、もしくはしていないかにZ世代は非常に敏感であるとし、ネット検索や友人とのSNSでの情報交換でいち早く察知する能力が高いと分析している。

 世界が取り組むべきSDGsのスタートは2016年、ゴールは2030年。17の達成目標で「誰一人取り残さない」というターゲット達成まで残された時間はあと6年だ。本書では潮流としての一つのカギを握る特徴としてZ世代を項目の一つとして取り上げてはいるが、もちろんそれがすべてではない。企業価値を高めていく上で、ビジネス活動に関わるすべての人がいま何をすべきかを考える指針を国連のお膝元から示している一冊と言えそうだ。(三浦)

本紙創刊20周年

在米邦人と共に歩んで

 週刊NY生活は、2004年1月10日に生活情報紙として創刊号を発行しました。米国に住む日本人を主な対象とし、教育、就労ビザ、社会問題、文化、経済、その他アメリカで生活するうえで必要な情報をすべて独自取材で構成し伝えていこうという主旨で一貫して発行しています。20周年を迎えることができましたのも、新聞を支えていただいているスポンサーの皆様、読者の皆様のサポートの賜物です。ありがとうございます。

 これからも家族全員で安心して読める内容の地域に根ざした「新聞」を目指すと同時に、ローカル経済面などでも進出日本企業のビジネスの動向やアメリカ経済のニュースを伝えながら情報をお届けして参ります。引き続き変わらぬご愛読、ご支援をお願い申し上げます。

 2024年1月13日

               ニューヨーク生活プレス社

                       社員一同

米国で監督デビューしたブロードウエー女優

作品「SPIRIT BOX」オスカー・ミショー受賞

ルミ・オヤマさん

 ブロードウエー女優、ルミ・オヤマの映画監督デビュー作「SPIRIT BOX」が、昨年7月16日にロサンゼルスで開催されたオスカー・ミショー映画祭で「傑出したドラマデジタルシリーズ」賞を受賞、ブロードウエー女優から映画監督へ見事に転身した彼女にとって勝利の瞬間となった。

  同映画祭は、エンターテインメントとメディアの分野における多様性、ジェンダー平等、アイデンティティの平等を提示し、祝福することに特化した映画祭で毎年夏にロサンゼルスで開催されている。

 オヤマさんは、広島県出身。中央大学法学部を卒業後、リクルートに入社、その後退社して劇団四季に入団、ライオンキングなどに出演した。2007年に来米後、全米の数多くのプロフェッショナルシアターに出演、2015年にブロードウエーミュージカル「アリジャンス」のオリジナルキャストとしてブロードウエーデビューした。振り付け家としては、BroadwayWorld Regional Awards(2018年および2023年)でBest Choreographerにノミネートされる。米国の長編映画、「RUNNING FOR GRACE」ではハリウッド俳優のマット・ディロンの相手役ミス・ハナブサとして出演するなど女優としても活躍が続いている。

 脚本家としては、「ロサンゼルス国際映画上映賞(The Los Angeles International Screenplay Awards)」や「アニメーション映画賞(The ScreenCraft Animation Competition)」などの全米の脚本コンペティションでファイナリストに選ばれてもいる。2021年、映画制作会社「クマ・ダッコ・プロダクション」を設立。

 今回監督デビュー作となった「SPIRIT BOX」は「傑出したSFファンタジー(Outstanding Sci-Fi/Fantasy)」部門と名誉ある「パナビジョン・アワード(Panavision Award)」にも併せてノミネートされた。監督だけでなく脚本も手がけたこの映画は、「Kinky Boots」、「The Prom」、「Allegiance」などのブロードウエーミュージカルのプロデューサーとして活躍するエリオット&キャシー・メイジー(メイジープロダクション)がエグゼクティブプロデューサーを務め、出演者とスタッフは50%以上がBIPOC(黒人、先住民や有色人種)または女性で構成されている。

 作品では、両親の謎の死に苦しむ少年が、日本の霊箱(スピリットボックス)から解放された幽霊たちからニューヨーク市を救う使命を負う中で、自身の家族の最も暗い秘密に立ち向かう姿が描かれている。

 オヤマは、「社会的混乱と孤立感が広がる今の時代の中、人々の絆を築く手助けをすることを目指してこの作品を制作したもので、私たちの作品が評価されたことに心から感謝している。私は元々ミュージカル畑出身なので、正式な映画教育は受けていないため、脚本家兼監督として撮影に挑戦する中で、さまざまな困難があったが、その度に仲間がサポートしてくれた。将来は、テレビシリーズ、長編映画、アニメ、演劇やミュージカルなどさまざまな媒体に挑戦していきたい」という。

(三浦良一記者、写真は本人提供)

土浦ツェッペリン伯号展示館

 1929年(昭和4年)8月19日、当時世界最大の飛行船であった「ツェッペリン伯号」が、世界一周(北半球周遊)の途中で茨城県土浦市に立ち寄りました。アジアで大型飛行船用格納庫があるのは、霞ヶ浦が唯一の場所であったためです。1931年(昭和6年)には、リンドバーグも世界一周の途中に霞ヶ浦を訪れています。

 一般に「ツェッペリン飛行船」と呼ばれるのは、20世紀初頭にドイツのフェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵によって開発された飛行船全体の通称で、実際にはそれぞれが愛称を持っています。このうち、日本にやって来たLZ127は、まさにこの伯爵の名前を冠した「ツェッペリン伯号」(Graf Zeppelin)という愛称でした。「ツェッペリン伯号」は、東京上空をゆっくりと通過した後、茨城県阿見町の霞ヶ浦海軍航空隊(現在の霞ヶ浦駐屯地の一角)に着陸しました。歓迎会を含む4日間の駐留期間に約30万人もの人々が詰め掛け、この様子を実況放送した「君はツェッペリンを見たか!」は、当時の流行語にもなったそうです。また、ジャワ経由で欧州に向けて海外放送も行いましたが、ドイツ本国では聞き取れなかったといわれています。

さて、古くからの町並みが残る土浦市中条通りに残るまちかど蔵の一角「野村」文庫蔵が、「土浦ツェッペリン伯号展示館」になっています。昔からの蔵の一つを利用した小さなギャラリーですが、土浦ツェッペリン伯号来訪を物語る貴重な史料写真やパネルなどが無料で常設展示されています。実は、中条通りの長さは、ツェッペリン伯号の全長236・6メートルとほぼ同じで、歩いて巨大飛行船の大きさを実感してみるのも面白いと思います。

 館内には様々な資料が所狭しと配置されており、天井には縮小模型が吊るされており、乗員となった日本人の写真も展示されています。正面奥には2004〜2010年に日本の空を飛んでいた最新鋭機「ツェッペリンNT号」の本物のノーズコーン(機首部分)で、同機が日本を去る際に、ツェッペリン社から飛行船を愛した土浦に託されたものです。実物の飛行船外幕などもあり、直接触って感触を確かめることもできます。

 ところで、土浦に飛来した際に、飛行船の乗組員に地元名産のジャガイモを入れた土浦ならではの食材を使ったカレーを振る舞って歓迎したそうです。現在、「土浦ツェッペリンカレー」が販売されており、日本一の生産量を誇る土浦のレンコン、茨城県の銘柄豚「ローズポーク」など、地元食材にこだわった味わい深いカレーです。これは、土浦商工会議所女性会がツェッペリン伯号の人々をもてなした当時の気持ちを現代に蘇らせた、まさに「土浦の想いが宿ったカレー」だそうです。私もおいしくいただきました。(栗原祐司 国立科学博物館副館長)

雪の降る街

 5年ほど前までは、マンハッタンが真っ白に埋まるような降雪が何度もあったような気がする。気象庁の発表では昨年は観測史上最も雪の少ない年であっただけでなく、昨年の冬も最も雪が少なかった。降った雪はわずか2・3インチで、セントラルパークに1インチ以上の雪が降ってから700日近く経っており、これも記録的なこととのこと。週末に珍しくニューヨーク地方に冬の嵐がやってきて、街なかのニューヨーカーを驚かせた。

(写真・植山慎太郎)

ホイットニー美術館 ルース・アサワ展

日系アメリカ人二世女性アーティスト

 4年ぶりに訪れたニューヨークでは、ホイットニー美術館の「ルース・アサワ展」が期待以上の収穫であった。ルース・アサワ(Ruth Asawa 1926-2013)は、ワイアー彫刻や公共美術(噴水)で有名だが、本展は、素描・水彩画・デザイン画など主に紙に描かれた100点余りを見せる希少な展覧会である。

 西海岸(南カリフォルニア)の日系人として、アジア・太平洋戦争中の1942年、家族と共に、サンタアニタ仮収容所(カリフォルニア州)、次にローワー収容所(アーカンソー州)に強制移住させられた経歴をもつ。ただ、同じ日系アメリカ人二世ではあっても、自らのエスニックな背景を前面に出した一世代上の画家ミネ・オオクボ(1912-2001)とは違い、アサワは「抽象」を指向する作家として出発した。

 アサワの運命を決定づけたのは、ノース・カロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジ(BMC)との出会いである。ミルウォーキーの大学で、美術教師の資格取得を事実上拒否された後で、戦後アメリカの前衛芸術を牽引した芸術家たちが集まったBMCで修学した(1946〜1949年)。

 抽象への指向、幾何学模様の多用、芸術と工芸の境界を取り払った創作態度など、アサワ芸術の特徴は、特に元バウハウス教授のヨゼフ・アルバースから学び、BMC時代に築いたものである。

 今回の展示では、人物・生物のデッサン、植物の細密画、植物や果物の水彩画も見事であり、具象画家アサワの確かな才能も垣間見えた。しかし、アサワ芸術の本領は、具象よりも抽象的画面にあらわれる。

 「抽象」は、自然界が幾何学模様に変容した図があり、またギリシャ雷文のような装飾模様を使い、色彩・構図のバリエーションをさまざまに展開する場合もある。インクの手作業で、細部と全体のバランスを取りながら描いたモノクロの雷文模様は、修行期の作品ながら、洒脱である。 

 模様の画面から、アサワのジェンダーがこぼれ落ちるような作品、《模様のある毛布で眠るポール・ラニアー》[Untitled (FF.1211, Paul Lanier on Patterned Blanket), 1961. ]は、アサワの家族生活をうかがわせる。技法にも工夫を凝らしているが、フェルトペンの先を切り裂き、一筆で並行する4本の線が出るようにして描き、精緻な画面を構成する。緩やかなうねりをつくりながら複雑に編み込まれた模様の毛布に、ふっくらとした幼児期のポールが眠る。子育てと創作を同時進行でこなしていた、アサワの人生そのものが表現された作品である。

 アサワは、1949年に建築家のアルバート・ラニアーと結婚し、6人の子に恵まれた。異人種間結婚が、1948年に合法となったサンフランシスコで暮らした。

 高齢になり、アサワは日系人のアイデンティディを打ち出した作品を創った。1990年から1994年に、サンホセ(カリフォルニア州)で、《日系人強制収容記念碑》(Japanese American Internment Memorial)を創作している。戦前と戦後における日系アメリカ人共同体の歴史と体験を刻んだ戸外作品である。同展は今月15日まで。

(金田由紀子、青山学院大学名誉教授、写真・三浦良一)

新年号

【編集後記】 みなさん、こんにちは。56ページの分厚い新年号が昨日無事に印刷を終わりました。市内クイーンズ区、マンハッタン区内の配達は昨日のうちに無事に終えましたが、本日配達予定のウエストチェスター、コネチカット、ニュージャージーなどは、配達車の電気系統の故障があり、配達が明日になるとの連絡が現場からありました。新聞を楽しみにしておられるその地域の方、ご迷惑をかけますが、1日遅れますのでお待ちください。大方の郵送地区の方にも年内にはお手元に届き、お正月気分を味わっていただけるかと思います。もちろんデジタル版だと、今読めますね。どうぞ! 今年も一年、お世話になりました。来年は、本紙が創刊して20周年になります。早いものです。自分でもびっくり。歳もとるはずですが、まあそれは気にせず、来年も、あちこち走りまわりながら、若造の新人記者の頃の初心を忘れずに頑張りますので、どうぞご愛読をよろしくお願いいたします。さて新人の初心ってなんだっけ。「すぐ書く。とにかく書く」かな。年明けは1月13日号になります。それでは皆さんよい年をお迎えください。Have a happy holidays!(週刊NY生活発行人兼CEO、三浦良一)

【今週の紙面の主なニュース】(2024年1月1日号)

(1)折り紙アンテナ宇宙で開花 日本人生徒のアイデア優勝 1面〜11面

(2)日本の民主主義の消滅 海外日本人サポート 5面 

(3)ララ物資の議事録見つかる NY日系人会で  14面

(4)マッド・アマノの新春パロディ  24面

(5)バービーを作って演じるまで 成田陽子のTHE SCREEN  31面

(6)米語ウオッチで振り返る2023年  38面

(7)テーブルで水浴び ニューヨークの魔法 39面

(8)美容NY生活 プロの技術と癒しの生活  43面

(9)生き生きEATS   薬膳で楽しむお正月 44面

(10)世界チャンピオンに返り咲く 吉田実代さん  55面

折紙アンテナ宇宙で開花

在米日本人生徒のアイデアNASAで優勝

在米日本人アーティストの作品も
国際宇宙ステーションで初宇宙展

NASAが打ち上げたジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡 (写真提供・ NASA)

 米航空宇宙局(NASA)が主導する青少年の宇宙科学アプリケーション発明コンテスト「NASA ISAC ハッカソン」で、在米の日本人青少年研究チームが大健闘している。ボストンの日本人チームが、アート&テクノロジー部門賞を2021、2022年連続で受賞している。

 特に21年の日本人チーム「ジミー・イン・ザ・ボックス」は、「ウェブ・オリガミ・デザイン・チャレンジ」コンテストに挑戦し、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の模型を折り紙を使い再現、六角形折り紙細工(テッセレーション)を使った宇宙で開かせる内格ロケットアンテナの模型で作品を作り、その精巧さを評価されて見事優勝した。 アンテナは宇宙空間で大きく開き、科学者たちが大歓声をあげる美しい宇宙の神秘の映像を地球に送ってきた。日本人生徒たちの挑戦は引き継がれ、現在も続いている。

 またニューヨーク在住の日本人アーティストが制作したアート作品が国際宇宙ステーションの外壁に取り付けられて「展示」され、人類初の宇宙展覧会を終えてこのほど無事に作品が地球に帰還した。本紙新年号では、独自の思いで宇宙に目を向ける在米邦人たちの姿を紹介する。 

人類初の宇宙アート展成功

NYのアーティスト野村さん

作品「パイオン・プレート」無事地球に帰還


5つあるPION Plateの2つを手に持つ野村さん

 ニューヨーク在住のアーティスト、野村康生が、人類初のアート宇宙展示を行った。スペーステインメントPTE社(本社シンガポール、榊原華帆CEO)は2023年3月に国際宇宙ステーション(ISS)へと打ち上がった野村のアート作品「PION Plate」が、宇宙での旅を経て6月に地球に無事帰還したと11月に発表した。

 作品「ほしの姿観 | Eyes on Us (通称 PION Plate)」が、高度約400キロメートルの軌道上を秒速約7・9キロメートルで飛行している国際宇宙ステーションで直接宇宙環境に長期間晒れた後、無事に地球に帰還したのだ。約68ミリ四方の作品「PION Plate」は両面に特殊なレザー加工が施され、表と裏を重ね合わせて一つのイメージを結ぶ設計となっている。3か月間、国際宇宙ステーション外部に設置された特別なプラットフォームで宇宙空間に曝露された。

大阪大学で作品披露

PION理論がアートになって原点回帰

大阪大学で開催された講演会(12月24日)

 この作品が「Study – 大阪関西国際芸術祭」の一部企画展として2023年12月23日から28日まで世界初公開された。展示キュレーションを担当する同社アート事業統括の斯波雅子さんは「今回の展示の舞台となる大阪大学、中ノ島センターは、作家がアーティスト活動を通して提唱する「PION理論」の元となる、湯川秀樹博士がノーベル物理学賞受賞のきっかけとなったπ中間子理論発見の場でもあり、元々のπ中間子理論をアートという形で実践に移し、それをこの場所で展示すること自体が原点回帰ともいえます。世界で活躍する日本人アーティストによる、文字通り宇宙規模のアート表現を、先ず日本の皆様にご覧頂けて嬉しいです」と話す。

 キュレーターを務めた斯波さんが今年力をいれているのは共同創設者兼エグゼクティブ・ディレクターとして準備を進めているブルックリン実験アート財団(BEAF)で、日米文化交流の場として既に日本の有名アートサポーターの前澤友作氏が設立者・会長をしている現代芸術振興財団(CAF)の最初のアメリカコラボパートナーとして3月から活動をスタートさせること。斯波さんは「何年も日本のアーティストをサポートし、CAFに文化交流の大切さを訴えかけてきた結果の実現となり、大変光栄」と話している。

「宇宙人に向けて地球人が展示した作品なんです」

カリフォルニア州の海洋研究所では、ゾウアザラシの GPSデータを水のプレートのログデータとして提供を受けた

 広く宇宙へと向けられたオモテ面には私たちが好奇心や冒険心、探究心によって進歩させてきた”文明の目”が刻まれ、宇宙から地球を見下ろすウラ面には、そうした私たち人類がどんな存在であり、いま地球上でどのような活動を行っているかを見つめる”内省の目”が刻まれている。

 この二つの視線が重なり合う”あわいの境界面”を野村はPION(パイオン)と呼んでいる。PIONプレートは全部で5つ。古代から宇宙の基本的な力として哲学されてきた5つのエレメントと(火、水、大地、大気、宇宙)それを象徴する5つのプラトン立体(正四面体、立方体、正八面体、正十二面体、正二十面体)をモチーフにして展開される。

 プロジェクトのスタートは正十二面体が表す”宇宙”を象徴する場所=国際宇宙ステーション(ISS)へ一枚目のプレートが送られた2023年3月。そこからこのプレートが地球に帰還するまでの3か月間、野村は自らの手で地上の残り4つのエレメントを象徴する場所へ、同じコンセプトが刻まれたプレートを送り届ける旅に出た。

 野村は武蔵野美術大学で油彩を専攻して2004年に卒業、アート表現を模索する中で人類が宇宙空間に飛び出した20世紀こそ重力からの解放と陰と陽、白と黒、裏と表、天と地という方向性と時間からの解放を21世紀の人類に向けたメッセージを作品に込め、これまで、NYのソーホーのギャラリー「ナウヒア」やブルックリンのJコラボなどで前衛的なコンセプチュアルアート作品を発表してきている。

 野村は言う。「PIONは重力から解放された純粋な三次元空間、つまり宇宙に設置されてはじめて完成するインスタレーション。つまりこれは宇宙人に向けた、私というよりも地球人が展示した作品なんです」。