街中の人気者、但し要チップ

タイムズスクエア

 何匹ものミッキーマウスやミニーマウス、スーパーマリオやスパイダーマンにバットマン、セサミストリートの人気者などお馴染みのキャラクターが一堂に勢揃いしているのがタイムズスクエア。かつては著作権侵害論争もあったが、はなから民事不介入の警察官は「コスプレの人がファンと記念撮影してチップをもらうのは違法ではない」と容認。(13日午後2時、タイムズスクエアで、写真・三浦良一)

「マエストロ」に見た指揮者の人間性と芸術性

田村麻子のカーテンコール オペラ公演の舞台裏 2

 皆様、こんにちは。元旦早々より日本では、悲惨な災害や事故が相次ぎ、今年の行く末を思わず案じてしまうような幕開けとなってしまいました。が、過去に目覚ましい復興を遂げてきた日本は、きっと大丈夫だと固く信じています。

 さて皆様におかれましては、どのような年末年始でしたか?休み中に家族で映画を楽しんだ方も多かったかと思いますが、私も年末に「マエストロ」という12月に公開したばかりの新作を観ました。この作品は、既に名俳優であるブラッドリー・クーパーが、自身が主演し監督業も行うという、全身全霊をかけて作った事が歴然とわかる力作で、複雑ながらも深い絆で結ばれた夫婦関係に重きを置き、彼の偉業よりも、どういう人物であったのかをより描いたものでした。有名なアーティストが主人公の映画は通常、その作品や演奏に焦点が当てられるのはある意味当然なのですが、今回そういうシーンは勿論いくつかあったものの、誰もが知るウエストサイドストーリーはバッサリ切り捨て。指揮者として世界中飛び回っていた様子も殆ど出さず、よく練られたシンプルな脚本に、冒頭から目を奪われる斬新なカメラワーク。妻役には素晴らしい女優を起用し、極め付けは、まるでバーンスタイン本人かと見まごうような特徴をよくつかんだ、クーパーの演技を超えた演技!その指揮ぶりたるや、もう乗り移られているとしか思えない程で、一体彼は、どれほど莫大な練習時間を費やしたのだろう、、と考えるのと同時に、彼のバーンスタインへの尊敬の大きさに改めて気づかされ、ただただ圧倒されるばかりでした。ところで話は少し逸れますが、日本の私のマネージメント会社の創立者、佐野光徳氏は、生前バーンスタインと何度も一緒に仕事をしており縁も深く、レニーがこんな事を言ったあんな事をしたとか、基本はとてもチャーミングな人だったが、たまに背中を蹴りたいほど憎らしい時もあった、などと言うのを聞いた覚えがあった為、映画を観ながらなるほどなぁ、、とそれらのエピソードを合致させて、1人ほくそ笑む楽しみもありました。指揮者とは唯一、自分自身で音が出せない音楽家です。それだけに、自分の思う音楽を演奏者に奏でてもらうには、自分の解釈、哲学、イメージなどを的確に伝え、オーケストラに音を出してもらわねばなりません。その為には様々な手法が必要ですし、時には嫌な人に映るほどの、強い個性も当然あった事でしょう。でもバーンスタインの場合傑出していたのは、その懐の大きさと、人間愛から来る並々ならぬカリスマではなかったかと映画を観て思いました。指揮者に限らずアーティストとは、普段何を思い、何をどう選び、どう感じているか、がそのまま自分の演奏や作品となります。つまり人間性こそがその芸術の土壌であり、結局面白いのはその人物なのだ、と言わんばかりこの映画、来月のアカデミー賞がどうなるのか私は非常に楽しみです。ではまた来月!

田村麻子=ニューヨークタイムズからも「輝くソプラノ」として高い評価を受ける声楽家。NYを拠点にカーネギーホール、リンカーンセンター、ロイヤルアルバートホールなど世界一流のオペラ舞台で主役を歌う。W杯決勝戦前夜コンサートにて3大テノールと共演、ヤンキース試合前に国歌斉唱など活躍は多岐に渡る。2021年に公共放送網(PBS)にて全米放映デビュー。東京藝大、マネス音楽院卒業。京都城陽大使。

21世紀の日本舞踊 歌舞伎舞踊からボレロまで

ジャパン・ソサエティーで24日から上演

 ジャパン・ソサエティー(JS:東47丁目333番地)舞台公演部は24日(水)から26日(金)まで、古典&現代舞踊「21世紀の日本舞踊:歌舞伎舞踊からボレロまで」を上演する。

 日本舞踊界から重鎮・花柳基、歌舞伎役者としても人気の吾妻徳陽(歌舞伎名:中村壱太郎)を迎え、伝統的な歌舞伎舞踊の演目「鳥羽絵」を邦楽生演奏付きで、後半には西洋音楽の不朽の名作「ボレロ」に大胆に日本舞踊を振り付けた新作「ボレロ〜安珍清姫伝説〜」の2演目を披露する。

 江戸時代に作られた「鳥羽絵」は、漫画の祖先と言われる戯画を題材にしたもので、リズミカルでユーモアと笑いに溢れる踊り。一方「ボレロ〜安珍清姫伝説〜」はモーリス・ラヴェルの名曲「ボレロ」に合わせ、恋しい男・安珍を追いかけるうち、自らの情念に飲み込まれ大蛇になってしまう娘・清姫を描いた「安珍・清姫伝説」を語るもの。振付は、四世宗家家元花柳壽輔に師事し、古典舞踊を基盤にしつつも創作舞踊や舞台・テレビ・メディアでも振付・出演に引くてあまたの花柳源九郎が手がけた。ふたつの舞踊演目をはさんで、三味線・歌・笛・囃子による邦楽演奏も行われる。日本語上演・英語字幕付き。各公演の上演1時間前には、カリフォルニア州立大学サン・バナディーノ校のカーク・カネサカ教授によるプレパフォーマンス・レクチャーが実施される(チケット購入者対象、参加費無料)。

 入場料は一般55ドル、JS会員44ドル。チケット・詳細はウェブサイトhttps://japansociety.org/performing-artsを参照。

Photo © Edo-Tokyo Museum

イサム・ノグチ美術館、新館長にハウ氏

美術館の発展に貢献

 イサム・ノグチ美術館は13日、新館長にエイミー・ハウ氏を発表した。エイミー氏は1986年にイサム・ノグチのアシスタントとしてキャリアをスタートさせ、ノグチの遺産と財団を世界的に有名な美術館へと発展させる上で重要な役割を果たした。その後、2015年まで約30年にわたり同館でさまざまな職務に携わった。ここ8年間は、ニューヨークを拠点とするWXY Architecture and Urban Designのマネージング・プリンシパルを務めている。特別展「A Glorious Bewilderment」の最終週であるマリー・メンケンの「ノグチの視覚的変奏曲」展(本紙2023年10月7日号既報)は2月4日に閉幕するが、1月12日付ニューヨークタイムズ紙のアートセクションに1ページを割いて掲載されるなど好評だ。

ハドソン川が増水氾濫

NJ州エッジウォーターで浸水被害が発生

冠水した道路

 13日午前、火曜日の嵐と金曜夜の大雨の影響でハドソン川が増水して氾濫。マンハッタン対岸のニュージャージー州エッジウォーターなど河川沿いの町の一部で浸水被害が発生した。

 同区の、トレーダージョーズやコンフォートインホテル、屋内テニスコート、オフィスビル、飲食店や小売店などがある商業エリアの広大なパーキングの3分の1ほどが完全に水没し、何台もの車が池のようになった駐車場に取り残された。ホテルは3フィート浸水し、宿泊客や職員は避難させられた。

 朝10時過ぎに地元の警察が現地に駆けつけ交通規制を開始。幹線道路からこの商業エリアに繋がる3か所の出入り口のうち2つが封鎖されたので、買い物客の車が1箇所の出入り口に殺到し大混乱していた。

 また、同区を南北に貫く唯一の幹線道路、リバーロードの一部も大雨の影響で冠水しており、警察の誘導で迂回や浅めの部分を通過するよう指示され渋滞が発生した。同区はバーゲン郡の法律で日曜日は営業できない店舗が多く、土曜日は買い物客でリバーロードの交通量が増えるのだが、今回は水害と重なり、多くの足に影響が出た。

 エッジウォーターはハドソン川の直ぐ横に店舗や住宅が連なっているが、治水工事や堤防建設などはほとんどなく、大雨が降ると直ぐに川の増水で冠水することが多い。今回被害のあったホテルや駐車場も過去に何度も水没を繰り返しているが、堤防建設など具体的対策はなされていない。今回は人的被害はなかったものの、マンハッタンを眺められる美しい景観の維持を優先するのか、住民の安全を優先するのか、決断が必要だ。なお、今回の嵐と大雨では同州のパサイック川も氾濫して流域の町に多くの浸水被害をもたらした。

(写真)ハドソン川に隣接したショッピングセンターの駐車場・本紙 久松茂

Prayers for Japan 日本への祈り

 二〇一一年三月十一日のあの日を、私はニューヨークで迎えた。朝起きると、日本にいる家族からは無事を知らせるメールが、私が東京にいると思っていた友人からは安否を尋ねるメールが続々と届いていた。

 あわててテレビをつけると、大津波に村ごと飲み込まれる映像が繰り返し流されていた。すぐにでも日本に飛んで帰りたかった。眠れない夜が続いた。仕事も手につかず、テレビの悲惨な映像を見ては、涙していた。無力感に打ちひしがれた。

 母国の大惨事に、ともに日本で痛みを分かち合えないことが辛かった。これと同じ感覚を味わったことがある。ちょうど十年前の二〇〇一年九月十一日だ。その数日前にニューヨークを発ち、東京であの事件を知った私は、ニューヨークの人々とともにいられないことが、悔しく悲しかった。

 震災の日の午後、米企業の人事部で働く友人のジェネファーから、義援金を募る社内メールが私の元へ転送された。その迅速さに驚いた。日本とは直接、関わりのない企業だが、多数の社員から被災者を援助したいとの声があがったという。

 ニューヨークに住む知り合いの韓国人女性、グレイスは、韓国系の子どもたちが週末に通う補習校を設立し、昨年度まで校長を務めていた。校長の座を退いた今も、毎週土曜日の早朝、これまでと同じように、タクシーで学校に向かう。

 東日本大震災の翌日は、土曜日だった。グレイスがタクシーに乗り込むと、開口一番、運転手が言った。

 日本の人たちのために、祈っているんだ。彼は何年もグレイスを学校まで送り届けてきたから、彼女が日本人ではないことはもちろん知っている。

 誰かに言わなければ、いられなかったんでしょう。みんながそういう思いだったんですよ。グレイスは、私に言った。

 大震災の四日後、マサチューセッツ州ハイアニスからマンハッタンまで、長距離バスに八時間、乗った。途中、ロードアイランド州のプロビデンスでバスを乗り換えた。運転手は言葉遣いがとてもていねいで、誠実な人柄がにじみ出ていた。

 私は反対側の最前列にすわっていたので、プロビデンスは水辺の美しい街ですね、と運転手に話しかけた。彼はうなずき、話し始めた。

ロードアイランドは、アメリカ建国十三州のひとつで、全米五十州で一番小さいけれど、名前は一番長いんですよ。State of Rhode Island and Providence Plantations。プロビデンスは一六三六年にロジャー・ウィリアムスが入植し、「神の慈悲深い摂理」という意味なんです。

 そう説明し終え、私に聞いた。どれだけアメリカ史に詳しいか知りませんけれど、あなたはアメリカ生まれですよね。

 いえ、日本です。

 日本から。そう言うと、彼は黙り込んでしまった。そのあとも、彼の車内放送はていねいで、車間距離を十分に取り、安全運転だった。

 深夜、マンハッタンのバスターミナル、ポートオーソリティに到着した。運転手はドアの脇に立って、乗客ひとりひとりに挨拶している。私は伝えた。あなたはとても感じがよく、心地よい旅でした。ありがとう。

 運転手は私の両手を握ったまま、離そうとしなかった。言葉を選びながら、かみしめるように、話した。

 本当にお気の毒に。あなたの国の人々のために、祈っています。私も募金しますから。あなたも、くれぐれも体に気をつけて。神のご加護がありますように。

 同じ頃、マンハッタンのグリニッチビレッジで、床屋の前を通りかかった。モダンだったが、昔、日本にもあった床屋のような懐かしさを覚えた。写真を撮ってもいいですか、と尋ねた。

 私が日本人だと知ると、店の人は手を休めて、言った。

 何だって、オーケーさ。日本のためになるんなら。

 ニューススタンドやカフェなど、あらゆるところに、「日本を助けよう」と義援金箱が設けられた。言葉を交わしたメキシコ出身のドアマンが、私にほほ笑んだ。

 どこかの国が困っていると、世界中が助け合う。すばらしいよな。今は日本の番だけど、メキシコも前に、世界中の人に助けてもらったんだ。

 震災直後、ニューヨークの部屋でテレビに釘づけになり、夜も眠れない状態が続いていたとき、ゲイである友人のジェリーが、心配して毎日のようにメールをくれた。

 仕事はしているかい。食べているかい。僕が美味しい料理を作るよ。君さえよければ、しばらくうちに泊まったらどうだい? すぐに日本に帰れなくても、いつか日本の人たちの力になれるように、今ここでエネルギーをいっぱいためておくんだ。そのときが必ず、やってくるから。

 「ニューヨークの魔法」シリーズ第4弾『ニューヨークの魔法のさんぽ』のあとがきから抜粋しました。

https://www.amazon.co.jp/dp/4167717220

隈研吾とエリエタ・アタリ

JSで2月9日講演会

 「隈研吾とエリエタ・アタリ:『 Mirror in the Mirror』を振り返る」と題した講演会が2月9日(金)午後6時30分から、ジャパン・ソサエティー(JS:東47丁目333番地)にて開催される。

 建築家・隈研吾と写真家・エリエタ・アタリの最新コラボレーション作品集『Mirror in the Mirror』は、建築とイメージの限界を超え、空間の感覚的な体験を深化させたいという共通の願いから生まれた。アタリの写真は、建築が周囲の環境に手を差し伸べ、自然を内部空間へ取り戻すという隈氏の自然を中心とした設計手法と共に建築空間の相互関係を捉えている。光とテクスチャーの相互作用が織り成す、叙情的な瞬間や移り変わりゆく境界を表現した作品だ。

  このトークイベントでは、ハーバード大学デザイン学部建築学科講師のセン・クアン教授が司会を務め、隈氏とアタリ氏、そして本の寄稿者であるコロンビア大学 マイヤー・シャピロ美術史学科のバリー・バーグドール教授が、建築と写真の領域において、同作品の広範囲に及ぶ意義を議論する。講演後、レセプションにて本の販売とサイン会も行われる。講演の言語は英語。

  入場料は一般22ドル、JS会員・学生・シニアは17ドル。チケット・詳細はウェブサイトhttps://japansociety.orgを参照。

Photo: ©Hartmann Books

日本文化の発信拠点

 ジャパン・ソサエティーは1907年(明治40年)にニューヨークに設立された米国の民間非営利団体。個人・法人・財団からの支援・協力のもと、日本の芸術と文化、公共政策、ビジネス、教育など多岐にわたる分野において米国の人々に事業を提供している、全米随一の規模を誇る日米交流団体。ニューヨーク市歴史的保存建築に指定されている吉村順三設計の本部ビルは260席の劇場、アート・ギャラリー、語学センター、図書室、会議室などを備えており、ここを拠点に年間350を超えるプログラムを主催している。

最速に生きる男 Ferrari

 イタリアの自動車メーカー、フェラーリの創設者エンツォ・フェラーリの伝記物語。元レーシング・ドライバーでもあり、モータースポーツへの熱意を絶やすことのなかったエンツォの最も波乱に満ちた一時期に焦点を当て「ヒート」のマイケル・マン監督が独特の感性で描き出す華麗でエネルギッシュな作品だ。

 エンツォに扮するアダム・ドライバーは「スターウォーズ」シリーズのカイロ・レン/ベン・ソロ役で知られるが、「ハングリーハーツ」でヴェネツィア国際映画祭主演男優賞を受賞するなど演技力では定評がある。40歳のドライバーが50代後半のエンツォを演じるにあたり特殊メイクは最低限に抑えオールバックの銀髪で強烈な存在感を放つ。

 エンツォとともにフェラーリを立ち上げ陰で支えた妻ラウラには「それでも恋するバルセローナ」などで数々の賞を受賞しているペネロペ・クルス。息子を失い、夫との関係も壊れていく現実を受け止めきれずに悲しみの底へと落ちていくラウラを熱演する。

 1957年、夏。エンツォはたびたび朝帰りをするがラウラはもう浮気には慣れっこだった。だが、夫婦は昨年、一人息子ディーノを筋ジストロフィーで失っていた。24歳という若さだった。以来、二人の間には冷たい空気が漂っている上、このところエンツォのお遊びが度を過ぎていることにラウラは苛立っていた。

 この頃エンツォは愛人リナと彼女との間にもうけた息子ピエロとの暮らしに安らぎを見出し始めていたものの、ピエロにフェラーリの苗字を名乗らせてほしいというリナの頼みに躊躇していた。ラウラはリナの存在を知らない。ましてや息子までいると知ったら激怒するに違いない。

 会社の方も問題を抱えていた。レーシングカーに力を入れるあまり、利益を生み出すスポーツカーの生産台数が目標に届かず、倒産しかねない状態でもあった。エンツォは毎年イタリアで行われる公道自動車レース「ミッレミリア」で何としても優勝し起死回生を図ろうと力の限りを尽くす。

 爆音とともに疾走する真っ赤な車と緑が鮮やかな田園風景。これぞマン監督の本領が発揮される場面だ。2時間10分。R。(明) 

(写真)ミッレミリアに賭けるエンツォ(ドライバー、右端)Photo : Lorenzo Sisti


■上映館■

AMC Empire 25

234 West 42nd St.

Regal Union Square Stadium14

850 Broadway

 Village East By Angelika

181-189 Second Ave.


編集後記

編集後記

みなさま、新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。しかし、日本では年明けから能登半島地震、羽田空港航空機衝突事故と悲劇が相次ぎ、とんでもない年の幕開けになっております。昨年は年の瀬から自民党政治派閥のパーティー券販売収支記録疑惑で自民党の集金マシーンの構造が明らかにされようとしています。時効とならない過去5年間に焦点が当たって報道されていますが、同様のことはもちろん5年前から行われていたことではなく、日本の政治の歴史において、かなりの長きにわたり暗黙の了解の元で、政治家自身が、そういうものだと新人の頃から教えられて連綿と続いてきた金のかかる日本政治の根幹を炙り出す大問題に発展しています。そんな中での目白御殿と言われた田中角栄邸の全焼です。自民党政治の歴史の根源が綺麗に丸ごと消失してしまいました。不思議な気もします。そんなこんなの足元がぐらつくただならぬ空気の中で、地震発生から(最近、発災と言っているようですが)、10日経ってもまだ岸田首相は現地入りをしていません。アメリカの大統領ならもう被災地にヘリで飛んで、とにかく被災した人に会って声をかけてトンボ返りでも行ってますね。被災者に寄り添うという言葉を何度も首相の口からテレビのニュースで聞きますが、なんだか遠い国の出来事のように思います。そんな中で、ニューヨークの日系社会では早速、支援基金の設立が相次ぎ、NY日系人会、日本クラブ、NY日本商工会議所の日系3団体や、NY日系ライオンズクラブ、NY石川県人会、米日財団などが動き出しています。今週号の1面で封じています。本紙は今週号で、創刊満20周年を迎えました。これからも、背伸びをせずにできる範囲で独自の取材記事を皆様にお届けしていきたいと思います。それでは、よい週末をお過ごしください。(週刊NY生活発行人兼CEO、三浦良一)

【今週の紙面の主なニュース】(2024年1月13日号)

(1)能登半島地震に支援 NY日系3団体被災者基金 1面

(2)「ある愛の詩」で有名になったランチコート 3面

(3)次元の異なる災害、能登半島地震を考える 4面

(4)奇跡的な生還 世界が称賛 日航機の乗客脱出 4面

(5)本紙創刊20周年 在米邦人と共に歩んで 8面

(6)SDGs目標達成のカギ握るZ世代 古市裕子 10面

(7)米国で監督デビューしたブロードウエー女優 ルミ・オヤマさん 11面

(8)土浦ツェッペリン伯号展示館 18面

(9)雪の降る街   植山慎太郎 19面

(10)ルース・アサワ展 日系アメリカン人二世女性アーティスト 19面

能登半島地震に支援

NY日系3団体が被災者救援基金設立

街頭募金も実施準備

NY石川県人会がイベント協力
NY日系ライオンズ

 今月元旦に起きた能登半島地震は、海外に住む日本人や日系人にも大きな衝撃を与えた。10日現在石川県内で206人の死亡と102人の安否不明の人が確認されているなかで、4日、ニューヨーク日系人会(JAA、佐藤貢司会長)が地震被災者救援のための基金を設立して支援を呼びかけ始めた。寄付方法は2通りあり、一つは、オンラインで https://jaany.org/donate-new/  をクリックして行う。この際、メッセージ欄に「 JAA Noto Support 」または「Noto」と記入すること。もう一つの方法は、小切手を直接JAAに郵送する方法。郵送の場合は、小切手に同封して「名前」「住所」「金額」を添え、小切手の宛先は「Japanese American Association of New York, Inc.」と記入=下図参照=。

 ニューヨーク日本商工会議所(和田知徳会頭)と日本クラブ(河手哲雄会長)は共同で、被災者を支援する目的で、JCCファンド (上野佐有理事長)内に支援窓口を設置し、会員各社及び個人に、支援・協力をお願いすることにした。義援金は、日本の公共機関を通じて、緊急支援物資の配布や、復旧・復興支援のために使う。 小切手の宛先: J.C.C. Fund (メモ欄に “Noto Earthquake Relief Fund” とご記入)。送付先: J.C.C. Fund (145 West 57th Street, New York, NY 10019)。 受付期限: 2月末。 全額、税控除になる。問い合わせ先:info@jcciny.org

 NY日系ライオンズクラブ(三木伸夫会長)は能登半島地震救済基金を立ち上げ募金活動をはじめる。オンライン、小切手での募金受付に加え、街頭募金活動、ジャパンビレッジ(好田卓矢COO)の協力を得て同敷地内での募金活動のほか日系レストラン、サロンなどへの募金箱の設置、またNY石川県人会の協力も得て、被災地支援チャリティーショータイム演舞会を2月3日(土)にNY日系人会館で開催する。当日は和楽、洋楽、ダンス、唄、演奏など被災地支援のためにパフォーマー達が被災地を想い熱演する。NY石川県人会の宮本ボーグ麗会長は「本当に元旦早々この様な大惨事が石川県の能登地区を中心として起こり、県民として心が折れそうな思いでおります。支援イベントには今現在合計16人の出演者を予定しています。出演者の中には石川県出身のブロードウエー女優由水南さんも出演されます」と話している。NY日系ライオンズクラブでは募金活動ボランティアも募集している。救済募金は必要経費控除後、全てがライオンズクラブ組織を通じて被災地に届けられる。問合せ先 info@nyjalc.org

 ジャパン・ソサエティーでは、現地での緊急救援活動を希望する人に対して支援団体の「ピース・ウインズ」(https://peacewindsamerica.org/relief_recovery/disaster-relief-japan/)を案内している。「ジャパン・ソサエティーでは東日本大震災から現在に至るまで日本の人々とともに連帯感を持っている」とジョシュア・W・ウォーカー理事長は話す。

 ニューヨーク日本食レストラン協会も募金を計画。日系レストランのTICグループ(八木ボン会長)も売り上げの一部を被災地に送る。NY日本総領事館では「米国のみなさまからの被災者を気遣うお言葉に感謝申し上げます。総領事館のSNSでも発信をしたところです」と話している。

「ある愛の詩」で有名になったランチ・コート

 ライアン・オニールが亡くなりましたね。12月8日、享年82歳でした。R・I・P・(安らかに)。

 僕らの世代にとってはなんと言いましても1970年公開の『ある愛の詩』、そして73年公開の『ペーパームーン』などで良く知られた俳優さんでした。彼はテレビドラマの『ペイトンプレイス物語』で有名になりました。

 『ペーパームーン』では娘さんのテータム・オニールとの共演でも大きな話題となりましたが、振り返ればなんとすでに半世紀前の映画であり、御存知ない皆様も思いのほか多いのかも知れません。

 この時代、映画の世界、特に映画音楽の世界においてはフランスで大人気でして、『ある愛の詩』のテーマ曲もアンディ・ウイリアムスらが歌って大ヒットしたのですが、作曲は大御所のフランシス・レイでした。

 時代的にまだ学生運動が盛んな時期でもありましたが、『ある愛の詩』の舞台はボストン、しかもハーバード大学。そして英語の原題にはAがなく”Love Story”。でも邦題は『ある愛の詩』。邦題の方が情緒豊かな感じですかね?(笑)

 この映画、お金持ちのお坊ちゃま君と貧しいイタリア移民の娘さんとの純愛を描いたストーリーなのですが、ボストンなので冬は厳しい寒さ、で、ライアン・オニールが着用して話題となったのがシープ・スキンで創られた、見るからに暖かそうなコートであったのです。アメリカではシアリング・コートと呼ばれることが多い様です。

 昨今、毛皮はじめ動物の皮革を用いた衣料品につきましては大変厳しい世相ですが、このシープ・スキン製コートには文字通り羊の革が用いられてはおりますが、そのオリジンは食用の肉のために屠殺され、結果、当然捨てられることになる皮革を利用したものであったのです。コートを作るために羊が屠殺されたのではありませんでした。

 このタイプの皮革は実はアメリカ建国以前から主に北米原住民の皆さんに防寒用としてさまざまな形で用いられてきたのでした。よって、どちらかと言えばアメリカの西部において活用、知られて参りましたね。

 こうした事情であったからかどうか、このシアリング・コート、1970年代に日米双方で流行したのです。日本では「ランチ(牧場)コート」と言う商品名でしたが、アイビー・ファッションで一世を風靡したVANジャケット社の命名であったと言われております。

 私が初めてアメリカに来たのは1976年、建国200年の年でして、建国の歴史を見直そうという機運が強く、このコートはある意味とてもアメリカ的、とても暖かく、カジュアル感もあって気軽に羽織れることも人気の理由でした。ただし、やはりホンモノの皮革ですからお求めやすいお値段とは言えなかったのかもしれませんが、当時、タイミング良くコットン・スウェードと呼ばれます、厚手コットン地にスウェード加工、つまり起毛加工を施し、裏面を毛羽立たせた生地が市場に出廻る様になり、皮革よりずっと安価で軽量でもあり、人気に拍車が掛かったのでした。

 そしてついにはこのコート、デニス・ウィーバー演じるニューヨーク市警の警部マクロードという刑事ドラマ、テキサスからやって来てマンハッタンを馬に乗り、テンガロン・ハットを被り、このランチ、いやシアリング=シープ・スキンコート姿で悪人を追い詰めるドラマが放映される様になったのでした。日本ではNHKで放映され、宍戸錠さんがデニス・ウィーバーの吹き替えをされたかと。

 そしてこのコート、昨今再び注目されております。日本での通称「ランチ・コート」の影響を受けたのかどうか、アメリカの老舗の革製品のメーカーさんで”Rancher”という商品名のシープスキン・コートが登場しております。ブルックス・ブラザーズでも最新版で商品企画されておりました。それでは皆様、暖かくしてお過ごしください。ではまた次回。

 けん・あおき/日系アパレルメーカーの米国代表を経て、トム・ジェームス.カンパニーでカスタムテーラーのかたわら、紳士服に関するコラムを執筆。1959年生まれ。