編集後記 11月2日号

■【編集後記】
みなさん、こんにちは。 「女子柔道の母」と呼ばれ、女子柔道をオリンピック正式種目とすることに尽力し、柔道を世界に普及させることに貢献したレナ・ラステレィ・カノコギさん(故人)の名前にちなんだストリート名が生まれ故郷ブルックリンのコニーアイランドで10月27日除幕されました。カノコギさんは、2008年に日本政府からその功績により旭日小授章を受賞しています。当日は家族や弟子、全米柔道連盟の代表、ニューヨーク日本総領事館から100人以上が集まり、同氏の栄誉を称えました。
カノコギさんは、米国では女性が柔道の指導を受ける場所がなかった時代に、男性に混じって柔道を始め、1961年(昭和36年)にYMCA主催のニューヨーク州選手権の団体戦に出場し、優勝に多大の貢献をしましたが、女性であることを理由に、メダルの返還を余儀なくされました。その後、同氏は講道館に入門し、研鑽を積んだ結果、外国人で女性としては初めて、大道場における男子との稽古を許されています。同氏を中心とする関係者の強い働きかけ、柔道の家元である日本柔道界からの協力により、女子柔道は1988年のソウル大会で公開競技として、92年のバルセロナ大会で正式種目として採用されることになりました。式典で夫の量平さん(81)は「彼女が、もしいま、この道路標識を見たら、きっとニッコリ笑うだろう」と話しました。標識は、サーフ街と西17丁目交差点に設置されていて、大雨だったため、室内での除幕式となったのですが、標識は、猛烈な風雨の中で毅然として立っていました。今週号の1面に記事です。それでは、みなさんよい週末を。(「週刊NY生活」発行人兼CEO三浦良一)■【今週の総合動画】
「女子柔道の母」道路名に 鎌倉シャツNY進出7周年

❶ 女子柔道の母標識に ❷ 鎌倉シャツNY7周年

【今週の紙面の主なニュース】
(2019年11月2日号)

(1)MoMA多様化の時代 (1面)

(1)女子柔道の母が道路名に

(2)草間彌生の太陽が感謝祭

(3)ジョーカー階段観光名所

(4)砂田向壱さんグランドゼロへ

(5)ウエグマンズNY1号店

(6)鎌倉シャツNY進出7周年

(7)NY生活ウーマン

(8)ホワイトライト祭

(9)映画

(10)めいた 8

女子柔道の母称えて

道路標識を手にする夫の量平さん(左から3人目)と娘のジーンさん(隣)ら関係者(10月27日、写真・三浦良一)

故・レナ・ラスティ・カノコギさん故郷の道路名に

ブルックリン
コニーアイランド

「女子柔道の母」と呼ばれ、女子柔道をオリンピック正式種目とすることに尽力し、柔道を世界に普及させることに貢献したレナ・ラステレィ・カノコギさん(故人)の名前にちなんだストリート名が生まれ故郷ブルックリンのコニーアイランドで10月27日除幕された。カノコギさんは、2008年に日本政府からその功績により旭日小綬章を受章している。当日は家族や弟子、全米柔道連盟の代表、ニューヨーク日本総領事館から100人以上が集まり、同氏の栄誉を称えた。

 カノコギさんは、米国では女性が柔道の指導を受ける場所がなかった時代に、男性に混じって柔道を始めた。1961年(昭和36年)にYMCA主催のニューヨーク州選手権の団体戦に出場し、優勝に多大の貢献をしたが、女性であることを理由に、メダルの返還を余儀なくされた。その後、同氏は講道館に入門し、研鑽を積んだ結果、外国人で女性としては初めて、大道場における男子との稽古を許された。
 帰国後、柔道家で夫である鹿子木量平さんと共に、生まれ故郷のブルックリンで「キュウシュウ・ドウジョウ・コミュニティーセンター」を開設し、柔道を通じた青少年の育成に貢献した。
 同氏は、女子柔道を世界に普及させるための第一歩として、世界選手権の開催を提唱し、第1回大会をニューヨークで開催することが国際柔道連盟により承認された。同氏は開催のための資金集めに奔走し、自宅を抵当に入れるなどした結果、1980年を機に、同氏を中心とする関係者の強い働きかけ、柔道の家元である日本柔道界からの協力により、女子柔道は1988年のソウル大会で公開競技として、92年のバルセロナ大会で正式種目として採用されることになった。同氏は、これらの功績により、女性スポーツ団体の殿堂入り、ヘンリー・ストーン賞、国際柔道連盟銅メダルなどさまざまな表彰を受け、日本政府からは2008年秋の叙勲で旭日小綬章が授与された。翌年74歳で他界している。

 式典では、ブルックリン第47地区議員のマーク・トレガー議員、全米柔道連盟会長のデビン・P・コーエン氏、米国柔道連盟最高経営責任者(CEO)のキース・ブライアントさんらが祝辞を述べた。日本政府を代表してニューヨーク日本総領事館の村上広報センター長が、「日本の武士道を世界に広めてくれたことに日本は大いなる借りができた」と挨拶し、大きな拍手を受けた。
 夫の量平さん(81)は「彼女が、もしいまこの道路標識を見たら、きっとニッコリ笑うだろう」と話した。標識は、サーフ街と西17丁目交差点に設置されている。大雨だったため、室内での除幕式となったが、標識は、猛烈な風雨の中で毅然として立っていた。

カンボジア 幻の遺跡へ

大プレアカーンをたずねて

「観光客がいない遺跡に行きたい。大プレアカーンに行ける?」と、20年来の友人で考古学者のダリット君に連絡すると、「4時間かかるけど道は大丈夫。僕が運転するから」との返事。カンボジアの古都シェムリアップはアンコールワットなどの遺跡観光で有名だが、周辺には無数の寺院がある。中でも大プレアカーンは、地雷除去や道路整備が進まずに長らく訪問できなかった。アンコール遺跡群から東へ約100キロ、古代都市アンコールトムの中にあるプレアカーンと区別して「プレアカーンコンポンスヴァイ」と呼ばれている。「本当の名はプレアバカーン。フランス時代に間違って記載されてしまった」とダリット君が説明する。長年カンボジアの遺跡研究に携わる上智大学の石澤良昭氏は「1960年代には馬に乗って辿り着いた」と言う秘境だ。
 1年ほど前から就航を始めた成田からの直行便で首都プノンペンへ飛び、空港で数時間待って国内線でシェムリアップへ飛んだ。翌朝6時、ダリット君が碑文研究者の米国人ハンター君と一緒に迎えに来た。東に1時間ほど走ってレストランに寄る。「クイティウ(米麺)」豚挽肉入りを注文。「作りたてが届いたわ、おいしいわよ」と店員の女性がバイクに乗ってきたおばさんから買い付けたばかりの揚げ菓子を私たちのテーブルに持ってきてくれた。ミニバスが着き、白いブラウスに長い巻きスカートの女性たちが出てきた。「どちらへ?」「アンコールワット詣でに」などと会話を交わす。こうした人々の距離感が、10年ほど前まで住んでいた頃の感覚に私を一気に戻してくれる。
 アンコール時代の大きな石造りの橋は、現在は迂回道路を作って車両禁止になっている。その迂回道路から橋を見た後に国道から北へ、舗装されていない道に入る。アジア開発銀行(ABD)が整備したばかりのようだ。数年たつと穴ぼこだらけでまた遺跡に行けなくなるかもしれない。それほど雨季の豪雨はすさまじい。沿道の農村部の変化は都市部に比べて緩やかだが、それでも、藁葺だった雨よけをブリキに替えるのが流行っているようだし、「Wing」と書かれた看板が目立った。携帯電話ひとつで送金ができる「小規模銀行」で、都市部で出稼ぎする人たちが利用しているのだろう。いくつかの分岐点で村の人に聞きながら進み、ハンター君が携帯電話にダウンロードしておいたGPSを見て「あと2キロぐらいで都城跡の入口に着く」と言うと、いつしか周囲は森になっていた。無垢な笑顔を浮かべる少年が数十の牛追いをする光景など、昔と変わらなくてうれしくなる。
 突然、巨大な仏像が姿を見せた。発掘調査で顔や胴体などが見つかり、昨年復元されたという。小さな遺跡を左右に見ながら、都城跡の中央に位置する大プレアカーン寺院へと進む。ヒンズー寺院のアンコールワット様式(12世紀初頭)に仏教寺院のバイヨン様式(12世紀末から13世紀初頭)が加えられている。プレアビヒア州文化局派遣の遺跡番のおじいさんが同行してくれた。この日の訪問客は私たちだけだったが、乾季は毎日数人訪れるという。
 いよいよ寺院跡へ。正面の門に続く通路の両側に彫られたガルーダとナーガの彫刻が見事だ。近年の修復が見られるものの崩壊が激しい。しかし苔の緑が美しく、四面にブッダの顔を彫った塔も青空に凛と聳えている。壁に彫られたアプサラ(天女)の多くは顔がない。内戦時に軍事資金を稼ぐために削り取られたのだろう。廃墟とも言える寺院だが、中央塔にあるリンガには供え物が真新しく光っていて地元の人々が連綿と祈り続けてきたことを物語っていた。私はすべての彫像に挨拶するように寺院を見て回った。

 帰り際、水草や蓮に覆われた周濠から民謡の調べが聞こえてきた。粗末なボートに少女が2人乗っている。私たちに気づくと歌声がピタッとやんでしまったが、手を振ると笑顔で手を振り返してくれた。遺跡番小屋の近くで朝御飯を食べたレストランで用意してもらった炭焼き豚肉入り御飯のお弁当を食べた。大盛り白米は食べきれないので、遺跡番のおじさんに半分おすそわけ。この辺りの村の人は、こんな白米をほとんど食べたことはないのだろうと思いながら…。
 翌朝ダリット君から「男子誕生」とテキストメッセージが入った。遺跡から戻ったのが午後4時、1時間後に奥さんを病院に運んだという。このような大切な日に、彼は遠くニューヨークから来た私たち夫婦の同行を優先してくれた。
 誰もが「激変した」というカンボジア。初日のこの遺跡訪問がなかったら、首都プノンペンの変化や生活が格段に向上した知人たちの姿に、目を丸くするばかりだったかもしれない。遺跡もさることながら人々の穏やかで自然体の暮らしぶりが変わらないままで、そのことが何よりもカンボジアの魅力だと改めて感じる「帰省」の初日だった。(小味かおる、写真も)

ウェグマンズNY1号店が開店

オープンした広い店内で買い物をする人たち Photo: Yasuharu Sato

ブルックリン・ネイビーヤードに
地元の活性化期待

 ニューヨーク州ロチェスターに本社を置くウェグマンズ社の「ウェグマンズ・フートマーケット」が10月27日、ブルックリン・ネイビーヤードにオープンした(フラッシング街21番地)。同社がニューヨーク市に店舗を構えるのは初めて。初日は雨天で初日特売などもなかったにもかかわらず、故郷でウェグマンズに親しんできたファンや地元住民など、大勢の人が詰め掛けた。
 同社は1916年に創業、昨年はフォーチュン誌が選ぶ「最も働きがいのある全米100社」第2位と客からも雇用される人からも人気が高い。同州を中心にペンシルベニア、メリーランド、バージニア、ニュージャージー、ノースカロライナ各州に約80店舗を展開するスーパーは、大型でも知られ、ネイビーヤードの店舗も約7万4000フィート(約6800平方メートル)の広さに、約5万点、ヘルシー志向ニューヨーカーにあわせて約2万点はオーガニック食品を並べるという。
 同スーパーでお馴染みのレストランフードは、ステファン・デ・ルシア調理長率いる約157人のスタッフがバーガー、ピザ、サラダ、すしなどを並べ、セルフサービスのフードバーもある。中2階には約100席を用意、ワインなどのアルコールも楽しめる。店の中と外に食事ができるスペースを設置。広大な駐車場もある。
 同スーパーに隣接する低所得者住宅には約1万1000人が住むが、約540人の新規雇用のうち214人を同所から雇用した。地域の活性化に拍車がかかると期待が寄せられている。
 同店は、同社101店舗目、ニューヨーク州では47店舗目。次はウエストチェスターのハリソンにオープン予定で、同店でスタッフの訓練をしているという。

感謝祭パレードに 草間彌生の太陽

 美術雑誌の「アートニュース」は10月23日付の電子版記事で、今年のメイシーズの感謝祭パレードに向けてバルーン専門家たちが草間彌生とコラボレーションした巨大バルーンを製作していることを伝えた。
 陽気な太陽を思わせる、草間がデザインしたバルーンのタイトルは「Love Flies Up to the Sky」。作品全体に草間おなじみのドット柄があしらわれ、中心の顔のまわりには触角が光線のように施されている。このデザインは2009年にスタートした草間の作品シリーズ「わが永遠の魂(マイ・エターナル・ソウル)」のモチーフをアイディアとして取り入れている。大きさはメーシーズいわく、「高さ:ビルの3階分×幅:自転車5台分×横:タクシー7台分」で、パレード行進のために40か所にハンドルが付けられる。パレードの運営委員会は05年から「メイシーズ・ブルー・スカイ」プログラムとしてジェフ・クーンズやキース・へリング、村上隆を含む著名芸術家たちと提携したバルーンを発表している。
 感謝祭のパレードは、28日(木)午前9時にスタートする。

映画「ジョーカー」の階段観光名所に

 R指定の映画としては歴代最高のヒットを記録している「ジョーカー」に出てくるブロンクスの階段を訪れる人が絶えず、住民は困惑しているという。
 ブロンクス区ハイブリッジにあるシェークスピア通りとアンダーソン通りを結ぶ歩行者用の階段は、ホアキン・フェニックス演じる主人公のジョーカーが奇妙な踊りを踊るシーンのロケに使われたことから一躍有名になった。
 通称「ジョーカーの階段」と呼ばれ、普段は人通りはそれほど多くない場所に「インスタ映え」を求めて人が集まるようなり、住民は困り顔だ。24日には、住人が階段を登る人に向けて卵を投げつけている様子を写したビデオがツイッターに投稿された。「彼らは店でお金を使うことなく、写真だけ撮って帰る。ここから出て行け」と書き込みされている。
 ブロンクスのルーベン・ディアス・ジュニア区長らは「観光資源」などにできないかと考えているというが、ほとんどの観光客が写真だけ撮ってさっさと帰るという。ブロンクス出身のアレクサンドリア・オカジオ・コルテス連邦下院議員(民主党)は「子供の頃はあそこは危険で近づいてはいけないと言われました。いまははるかに安全になって嬉しい」と語っている。
 アニメなどの「聖地巡り」は日本では観光資源化している。米国でも映画のロケ地が観光ガイドブックなどに載っており人気を集めるが、今回は映画が映画なだけに住人は複雑な心境のようだ。

「テロと銃犠牲者重なる」

日本人犠牲者の名前に手を当てる砂田さん(10月26日午後、グランドゼロで、写真・三浦良一)

息子の死から25年、砂田さんNYに

 1994年8月4日、クイーンズ区レフラックシティのアパートビル非常階段で、日本人青年、砂田敬さん(当時22歳)がアルバイト先のレストラン中川から帰宅直後、暴漢に銃で撃たれて死亡した。父親の砂田向壱さん=元九州大学大学院特任教授(73、当時48)は、翌5日、出張先のサンノゼで日本の妻から「敬が撃たれた。今は脳死状態だけどお父さんが来るのを待っているからすぐにニューヨークに行って」。翌6日朝8時頃、息子が収容されているクイーンズのエルムハースト病院に到着。本人の身元確認。擦ったり揉んだりした。しばらくして所轄のNYPD110分署警察署を訪問。事件現場に案内され、息子の頭を撃ち抜いて壁に当たった弾痕や血の海に横たわっていた息子の状況を聞かされ、助けることができなかった無念さに加えて怒りで身体が震えた。
 砂田さんは事件後、日本で銃規制運動を起こし、全米ライフル協会(NRA)を相手に全米の銃器メーカー32社を相手どり銃器製造責任訴訟を1999年に起こした民事集団訴訟で全米初の勝訴評決を受けた。担当したエリサ・バーンズ弁護士はロバート・ケネディ・アワードを受けている。十三回忌にニューヨークに来て以来12年ぶり、事件から25年ぶりにニューヨークを訪れた。
 10月26日午後、グランドゼロに行った。メモリアルで、日本人犠牲者たちの名前を見つけた砂田さんは、名前を手でさすり、合掌した。「テロで亡くなった犠牲者と銃犠牲者は同じではないが、愛する家族を失った残された遺族の思いには重なるものがある」と語った。