編集後記 12月14日号

編集後記 12月14日号

2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が9日、ニューヨークの国連本部で東京五輪期間中の休戦を加盟国に求める決議案に採択を前に演説しました。「スポーツの力で世界と未来を築いてく機会となる」期待を表明し、186か国が共同提案国となり採択されました。採択後、国際オリンピック委員会のトーマス・バッハ会長と共に報道関係者の取材に応じました。ところがこの日、世界反ドーピング機関(WADA)がローザンヌ(スイス)で常任理事会を開き、ロシア選手団を2020年東京五輪・パラリンピックなど主要国際大会から4年間排除する処分を決めたことからオリンピック関係者にショックを与えました。記者団との質疑応答でも、休戦決議採択と同じタイミングでWADAが処分を発表したことについてバッハ会長と森会長に質問が集中しました。森会長は「公正で平等な大会を準備することが組織委員会の使命だ。処分に対しては異議申し立てがあると思うが、結論が出るまで静観したい。スポーツ大国の不参加は残念に思う気持ちも理解できるが、選手個々よりも、指導しているコーチや関係者にドーピングしてでも勝たせたい、記録を作りたいという気持ちがまだあるようなので、スポーツ界全体を啓蒙していかなくてはならないと思う」と述べていました。IOCのバッハ会長によると、東京五輪では、これまでと違って、大会前にドーピング検査をして事前に不正発見に努める。そのために予算を1000万ドル振り向けたと言っていました。東京五輪はこれまでにないクリーンでフェアなオリンピックになりそうですね。いろいろな角度から浄化作用が働くことは大会成功に向けて必要不可欠です。(三浦良一/発行人兼CEO)

東京五輪で休戦決議

休戦決議採択後、国連で記者団の質問に答える森会長とバッハ会長(9日、写真・三浦良一)

ドーピング問題でロシア排除に衝撃

 2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長は9日、ニューヨークの国連本部で東京五輪期間中の休戦を加盟国に求める決議案に採択を前に演説し「スポーツの力で世界と未来を築いてく機会となる」期待を表明した。186か国が共同提案国となり採択された。採択後、国際オリンピック委員会のトーマス・バッハ会長と共に報道関係者の取材に応じた。
 この採択宣言は、オリンピック開催国が開催の前年に国連で加盟国に求めるのが通例で、今回は日本の五輪委員会の代表である森会長が演説して世界に平和五輪の開催を訴えた。
 また、同日、世界反ドーピング機関(WADA)が常任理事会を開き、ロシア選手団を2020年東京五輪・パラリンピックなど主要国際大会か4年間排除する処分を決めたことが、オリンピック関係者にショックを与えた。記者団との質疑応答でも、休戦決議採択と同じタイミングでWADAが処分を発表したことについてバッハ会長と森会長に質問が集中した。バッハ会長は「IOCはドーピングに対しては、一切の妥協を許さないゼロトレランスの立場を取っており、WADAがドーピングに対する主導的な立場を取っており、それをサポートする。東京大会では、従来と異なり、大会前にドーピング検査を行う。そのための予算を1000万ドル振り向けており、最高にクリーンな大会になる」と述べた。
 森会長も捕足し「公正で平等な大会を準備することが組織委員会の使命だ。処分に対しては異議申し立てがあると思うが、結論が出るまで静観したい。スポーツ大国の不参加は残念に思う気持ちも理解できるが、選手個々よりも、指導しているコーチや関係者にドーピングしてでも勝たせたい、記録を作りたいという気持ちがまだあるようなので、スポーツ界全体を啓蒙していかなくてはならないと思う」と述べた。

スポーツには世界と未来を変える力

森会長国連演説

 つい2週間前、ローマ教皇フランシスコ台下は、広島・長崎を訪問され、「核兵器のない世界は可能であり、必要不可欠であると確信す る」と述べられ、人々の心は深く共鳴しました。江戸時代約250年の弾圧に耐えてキリスト教信仰を守った長崎の空にも、1945年に原子爆弾は爆発し、平和の祈りは虚しいと感じていた我々日本 人の心に、教皇の言葉は一筋の光として、あるべき未来を照らしたの です。
 また、平和への脅威は戦争によるものだけではありません。グレタ・トゥーンベリさんの地球温暖化問題への叫びは、世界を震撼させ、 私も深く衝撃を受けた一人です。私が初めて国連総会で演説をした のは、2000年の国連ミレニアムサミットで、日本の総理大臣とし て、「人間の安全保障」を日本外交の柱に据え、国連の機能強化を訴 えた時でした。(中略)
  私は国連の場で演説するのは今回で5回目になりますが、常に「人間の安全保障」を胸に、世界の平和と繁栄を祈りつつ壇上に立つ気持ちに変わりはありません。特に今日は、10月に他界された緒方貞子 元国連難民高等弁務官が私の背中を押してくれているようです。緒方貞子さんは、東京2020組織委員会の特別顧問でもありました。 2001年に私が日本の現職総理として初めてアフリカを訪問した際には、全行程に同行し、ケニアのカクマ難民キャンプでは先頭に立って案内してくれた盟友です。その時、官房副長官として私に同行していたのが、現職の安倍晋三総理大臣であり、緒方貞子さんの遺志を継ぎ、世界の平和と繁栄に取り組み続けることは、私たち共通の誓い でもあります。(中略) 
 オリンピックの原点は平和です。約2800年もの昔に、古代ギリシャの偉大な先人たちは、オリンピックを通じ紛争をスポーツに置 き換えることを考え、それがオリンピック休戦の理念につながっています。現代に生きる我々の務めは、古代からの理念を受け継ぎ、広めていくことです。私は1964年の東京大会の時は27歳でした。当時、平和であるからこそ世界各国が集うオリンピック・パラリンピックが開催でき ると、平和の尊さをしみじみと感じたものです。1964年の東京オリンピック・パラリンピックは、戦争で焼け野原となった日本が終戦からわずか19年で立ち上がった象徴となり、その後の経済成長へ と繋がる日本国民の力となりました。2020年の二度目の東京オリンピック・パラリンピックは、平和の中で成熟した日本を見て頂く と共に、2011年の東日本大震災に際して世界中から頂いたご支 援に感謝しつつ、復興を遂げつつある東北の姿を世界に発信し、更には日本のみならず世界で発生している自然災害で苦しんでいる被災 者を励ます願いが込められています。励まし、励まされる連帯が、立ち上がる力になるはずです。
 東京2020大会の主たるテーマは「共生」です。平和は世界の人々の「共生」により成り立ちます。東京2020大会は、史上初め てオリンピックとパラリンピックを一体化した組織委員会を持つことを通じて「共生」を実践し、その素晴らしさを世界に示したいと思 っています。
 本年秋、ラグビー先進国以外で初めて開催された、日本でのラグビーワールドカップは、ビル・ボーモント・ワールドラグビー協会会長 が「過去最高のワールドカップだ」と評するほどの大成功を収めました。このラグビーワールドカップの成功経験を、東京2020大会にも生かしていくつもりです。スポーツの素晴らしさは、不可能が可能になる喜び、そして困難に挑戦することの尊さ、だと思います。私は弱い立場の人々が苦しむのを看過することはできません。だからこそ、ここで改めて世界の平和と繁栄を祈り、東京2020大会のビジョンである「スポーツには世界と未来を変える力がある」を信じたいと思います。
(9日午前、国連本部での演説から抜粋)

NYに伝統文化紹介

人間国宝の井上萬二氏が舞台で講演

陶芸について舞台で講演する井上氏

 SDGs子ども勉強会プロジェクト(櫻井真紀代表)は9日夜、マンハッタンのシグネチャーシアターで台風19号に関連したチャリティー日本文化紹介イベントショー「ジャパニーズ・トラディッショナル・カルチャーショー」を開催した。
 特別ゲストに白磁の重要無形文化財保持者、人間国宝の井上萬二氏が舞台で講演し、花器への生け込みパフォーマンスなどが行われた。今年90歳になった井上氏は「白磁は美しい女性のようなもの。化粧をしなくても美人は美しいし、容姿のシルエットも素晴らしい。だから着色の化粧をしないままが一番美しい」などと舞台で作陶への情熱を語った。11日にはニューヨーク総領事の山野内勘二大使を表敬訪問した。
 また、舞台での子供たちによる日本舞踊、童謡、南京玉簾、和太鼓、が紹介された。特に日舞の少女たちの踊りの可愛らしさには会場から温かい拍手が贈られた。日本の伝統演芸である南京玉簾は、最小限の道具で描き出す世界が会場を驚かせ魅了した。迫力の和太鼓はフィナーレを飾り会場を圧倒した。コーヘイは全米ツアーから戻り、一段と磨きがかかったダイナミックな歌声を披露した。同イベントでは、SDGs「目標13 気候変動に具体的な対策を」について日本からメッセージをロビー展示し、来米する子供たちが舞台からスピーチした。台風19号の被災者支援のために会場入口には募金箱を設置。集まった募金はジャパン・ソサエティーに届ける予定。
 出演は、人間国宝・井上萬二、フラワーデザイナー 櫻井真紀、道後親子日舞教室・藤間歌登美 (小西愛莉、川内淑礼、木村日夏里、土岐さえり)、南京玉簾 ・馬場登美江、LYRA、Kohei、Eva Kestner(シンガー)、和太鼓 OTOGATARI、スピーチ・北澤和也、小松原真子、森島彩叶。日本監修・櫻井晃太郎 、松本藍里、金三津日和。プロデュースは谷脇有香(J’SHA)。

パーティーシーズンには紺ブレ

イケメン男子 服飾Q&A ケン 青木 75

 令和元年2019年も最後の1か月となりました。お仕事からプライベートまで、何かとお集まり、パーティーの多い1か月となりますね。僕は洋服屋ということもあり、夜に集まりがある際は必ずオフィスで着替えて出席する様にしています。ニューヨークのオフィスでは管理職の方は個室を持たれていることが多いので着替えそのものは問題ないかとは思うのですが、でもちょっと面倒に感じられるのかもしれませんね。 
 今回はネイビー・ブレザーのパーティーでの活用についてです。ここはニューヨークなので、ブレザーではなくあえてブレイザーと書きます(笑)。今日のアメリカにおいてはスポート・コート、ブレイザー、ジャケットの認識、区別が
曖昧でハッキリしなくなってしまったので、僕がアメリカ人に説明することが随分と多くなりました。ブレイザーとは本来スポート・コートの一種で、生地は無地もしくはストライプ、ボタンはメタルで刻印など組織のIDとなる要素がマストでして、つまり元来ユニフォームの一種なのです。
 ブレイザーという名前の由来について代表的な説がいくつかあります。その一つが19世紀のロンドン、テムズ川の大学対抗ボートレースでケンブリッジ大の学生の揃いの赤いブレイザー姿の応援風景が川面に映り、あたかも赤い服のゆらゆらがメラメラと燃え上がる炎の様に見えた…なんて話がありまして、それでネイヴィー・ブレイザーという、よく考えてみますとおかしな名となったようなのです(笑)。さらにおカタイ言い方をするならばblazer coatが正式名です。
 以上のような由来から、名門校の現役学生さんからOB諸氏に至るまで、老若男女のほぼすべてのシチュエーション、カジュアルからフォーマルまでのシーンをカバーできるのはこのネイヴィー・ブレイザーしかないのですね! 例えばウイークエンドに御家族でレストランへといった際、ポロシャツやセーターにジーンズまたはチノパンツ姿であっても、ジャンパーではなくブレイザーを羽織られてお出掛けになられましたらお店の方からよりビッグなスマイルで迎えられるかも。
 そして今月のパーティー、昼間のスーツからネイヴィー・ブレイザーにスウィッチ。例えばニットでもいいので前開きボタンのヴェスト、色は例えば赤とかグリーンとか。ネクタイも季節柄できればマッチしたものを。で、ブレイザーの胸には思い切りよく白か赤のシルクのポケット・スクエア(チーフ)をあしらってみましょう。ニューヨークのホリデーシーズンの夜の建物の中、ほのかに明るい室内の照明に上質なネイヴィーの生地、そしてメタル・ボタンが思いのほかシックに映え、昼間とは違う御自身を演出してくれることでしょう。
 それではまた次回。
 けん・あおき/日系アパレルメーカーの米国代表を経て、トム・ジェームス.カンパニーでカスタムテーラーのかたわら、紳士服に関するコラムを執筆。1959年生まれ。

フィラデルフィア 日本人教会75周年

 第2次世界大戦の最中だった1944年11月に設立されたフィラデルフィア日本人キリスト教会(JCCP)は、戦後は収容所帰りの日系一世や米国人と結婚して当地に移住してきた日本人への心の拠り所となっていた。その後は企業駐在員家族や留学生の会員も増え当地の日本人会や補習校とも協力し合い活動を続けてきた。2013年9月には日本生まれのアメリカ人でバイリンガルのメリー・クルス・ザンブラナ牧師を迎えて若い会員獲得にも尽力する同教会がこのほど75周年を迎え、11月17日に創立75周年記念礼拝と昼食会を行った。
 当日は日本からの元会員を始め、フィラデルフィア日本人会やフィラデルフィア日本語補習校、そして近隣教会の代表者ら45人が参加し盛大に祝った。礼拝ではフィラデルフィアオーケストラのファーストバイオリニスト沼沢やよりさんが、元テンプル大音楽科の高島のぞみ講師の伴奏で感動的な演奏を披露した。昼食会は近隣のイチバン・シーフード・バッフェに移動し、同教会の長きにわたる活動の思い出話や今後の展望などで盛り上がった。

その9:沿道で目を引く「マフラーマン」

魅惑のアメリカ旧国道「ルート66」をフォーカス

 ルート66ファンの皆さん、こんにちは! ついに2019年も残すところあと僅かとなってきました。筆者も東京に来て3年目となりますが、未だ日本の文化や慣習に馴染めない上に転職も経験し、激流の人生を送っています。(汗)通常秋ごろには短期間ですがアメリカへ帰省するのですが、今年はそれは果たせず郷愁はつのるばかりとなっています。唯一の光は筆者の30年以来のイタリアの親友がこの夏に結婚をしたことでしょうか。真夏のイタリアも暑かったですが、とても楽しく素敵な集まりに命の洗濯が出来ました。皆さんはこの1年、沢山の素晴らしいことがあったことと想像します。
 さて、今月の魅惑の旧街道を行くシリーズのシーズン③ 第9話は、読者の皆さんにはあまり馴染みがないかもしれない「マフラーマン」についてお話したいと思います。マフラーマンとは一体何ぞや? と思われるかもしれませんが、実はルート66とも深いかかわり合いがあるのです。さて、その正体は如何に?
 まずマフラーマンですが、それは主にアメリカで広告用のアイコン、または沿道のビジネス活性化のためのアトラクションや装飾目的として置かれる、大きな鋳造グラスファイバーの像を総称してこのように呼ぶのです。身長は大体約18〜25フィート(約5・5〜7・5メートル)で、記念すべきマフラーマン第1号は「ポール・バニヤン」のキャラクターでした。ポール・バニヤンはアメリカの民間伝承の巨大な「木こり」さんのことです。
 ちょっと古い話なので知らない方も多いかもしれませんが、70年代に流行ったアメリカのコミックで「ジッピー・ザ・ピンヘッド」を憶えていますか? この漫画のなかや多数の書物のなかでもマフラーマンは取り上げられており、筆者の記憶では最近は2012年のニューメキシコ州AAAの季刊誌にて、マフラーマンは50周年記念号の表紙を飾りました。余談ですが。
 ではその「マフラーマン」はどうやって誕生したのかですが、元々ボート作り職人であった スティーブ・ダシュー氏が1963年にある工場を買い取り、「インターナショナル・ファイバーグラス社」として、特大像を造り始めたのが事の始まりです。斧を持った木こりの上記マフラーマン第1号は、アリゾナ州フラッグスタッフのルート66上にあった「ランバージャック・カフェ」の入り口付近に建てられました。しかし、1973年にそのカフェが閉店してしまったことから、その後そのマフラーマンは北アリゾナ大学の所有するスタジアムの横に移転され、現在でも元気にその姿を見ることができます。
 そんなマフラーマン、やはりかなり目を引く宣伝には打ってつけの存在であったため当時は多くの注文が殺到し、約10年間ぐらいの期間でかなりの数が造られ、大体1000〜2800ドルの値段で販売されていたそうです。形も木こりだけではなく、恐竜、カウボーイ、フットボール選手、海賊、兵士、宇宙飛行士等も現れました。何ともアメリカらしいラインナップではないでしょうか。ただ残念なことに軽量ではありましたがかなり大きなもののため、配達コストの増加、そしてグラスファイバーの危険性と合間って、73年の石油危機の影響がラストパンチとなり需要が激減。インターナショナル・ファイバーグラス社は76年に廃業してしまいました。さらに残念なことには、同じ型の鋳造が廃業後に失われてしまい修理修復することが出来ないため、マフラーマンの多くは維持できないまま無くなってしまいました。
 現在アメリカの27州においてマフラーマンは残っていますが、数にして当時の約30%、いや20%ぐらいだろうと言われています。
 ルート66が通過する州かつ、関わりのある街のみで計算すれば、イリノイ州(6)、ミズーリ州(1)、カンザス州(0)、オクラホマ州(3)、テキサス州(1)、ニューメキシコ州(2)、アリゾナ州(1)、そしてカリフォルニア州(1)で合計たったの15体だけなのです(泣)。
 そんななか、2019年はちょっとした「事件」がありました。オクラホマ州タルサの街に新しく一つ、マフラーマンが誕生したのです! 事の始まりは昨年の6月。「Buck Atom’s Cosmic Curios on 66」が、メアリー・ベス・バブコック女史の手によって新規オープン。この雑貨屋はタルサ・ルート66の新たな情報発信地となりました。お店の場所は、オン11番街。歴史的なMeadow Goldのネオンサインがあるビルが建つ、タルサ・ルート66の中心です。そして今年、かねてから計画されていたマフラーマンが実際にそのお店の玄関先に立つこととなりました。21フィート(約6・4メートル)のマフラーマンは地元アーチストのデザインで、「宇宙カウボーイ」です。お披露目当日はタルサ市長やオクラホマ州副知事も参列し、盛大なイベントとなったようです。メアリー・ベスさんの「ルート66を愛し、その歴史的意義や価値を保存し、さらに未来へ残していきたい」という意思を見に、タルサまで小旅行はいかがでしょうか。
 読者の皆さんはオクラホマ州と聞けば牧場や田舎を想像するかもしれませんが(否定はしません 笑)、タルサの街はその歴史と国際色豊かな文化に溢れた、さらに言えば「お洒落なレストラン」なんかも多い、とても素敵な中都市です。それではまた来年、お目にかかります。良いお年をお迎えください!
(後藤敏之/ルート66協会ジャパン・代表、写真も)
■訂正とお詫び=11月16日号の本コラムのタイトルに間違いがありました。正しくは「その8:そうだ!この冬はサンタフェに行こう!」、デジタル版は修正済みです。お詫びして訂正いたします。

危ない可動ステップ

14丁目の地下鉄駅
安全性に投資できず

 地下鉄ユニオンスクエア駅の4番、5番、6番線プラットホームの「動くプラットホーム」の安全性が当駅利用者やマスコミから懸念されてきた。駅はきついカーブ上にあり、直線の車体とプラットフォームのカーブに避けられないギャップが生じるため、それを埋める可動ステップ(Gap Filler)が設けられている。しかし、幅の狭いプラットフォームには両側から車体が出入りし、ラッシュ時には人があふれるような混雑となり、「可動ステップに乗るな」の可動ステップに書かれた黄色の警告さえ見えなくなる。
 実際にこの可動ステップの事故が何件か起きている。過去45年間、人身傷害訴訟を扱ってきたダンクナー/ミルスタインPC弁護士事務所のジェイ・W・ダンクナー弁護士は、これまでに扱ってきた地下鉄事故のうち可動ステップが関与しているものが5〜6件あり、最も大きく報道された一例は、陪審員がMTA(メトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティー)に被害者へ1000万ドルの支払いを命じたマイケル・ディオンケースであると本紙に語った。
 事件は、2010年12月、ディオン氏(当時41歳)は地下鉄ユニオンスクエア駅の4番線プラットホームと電車の13インチ(33センチ)の隙間に落ちた後、13インチの隙間を埋めるためにとる付けられた自動可動ステップが、「167回出たり入ったりして」ディオン氏を締め付け、同氏は大怪我をしたというもの。
 当駅の安全用柵なしの「動くプラットホーム」に対する通勤者やマスコミからの安全性を懸念する声はこれまでにも報道されてきた。今年4月には、同駅のプラットフォームで21歳の女性が下り6番電車に巻き込まれて即死した。目撃者によると、被害者のマクドナルド=ファロンさんは線路のぎりぎりに立っていて足を滑らせ、入ってきた電車とプラットフォームの間で引きずられて即死したとされたが、被害者が自動可動ステップ立っていてバランスを失ったかの云々は一切報道されていなく、MTAの広報部からも返答がない。
 今日、度重なる事故の後でも当駅の安全対策は警告のアナウンスメントと可動ステップにペンキで塗られた警告と、まばらな駅員の立ち合いという3点のみしかない。何故か? ダンクナー弁護士は、MTAの金銭面からの躊躇だと指摘する。MTAはここに安全柵を設けることを「高すぎる」として躊躇してきた。
 日本では可動ステップが可動式ホーム柵とセットで使われている=写真左=。「安全のため、両者は連動しており、可動ステップがせり出し終わってからホーム柵と列車のドアが開きます。そして、ホーム柵と列車のドアが完全に閉まってから可動ステップが格納されます」と、設計と製造元の京三製作所の広報部員が可動ステップと可動式ホーム柵を併用することの安全性を説明する。その通りだとダンクナー弁護士も同意する。「私はもちろん安全柵を併用するよう裁判で推薦しました。しかし問題は経費です」と、ダンクナー弁護士は説明する。安全柵の使用はMTAでも検討もされたとのことだが、経費が高すぎるとしてニューヨークでは採用されていない。(ワインスタイン今井絹江)

JAA年次晩さん会 川野、小野山さん表彰

左から大沼JAA会長、表彰の盾を持つ小野山さん、川野さん

 ニューヨーク日系人会(JAA、スーザン大沼会長)は6日、ハーバードクラブで第112回ガラ・ディナー・パーテイーを開催し、175人が参加した。
 ニューヨーク総領事、山野内勘二大使の祝辞に続き、ニューヨークの少年少女合唱団、ヤングピープルズ・コーラスの演奏があり、最後の曲は、美しい日本語で「お正月」の歌を披露した。
 食事をはさんで、当日のメインイベントとなる日系社会への功労者表彰として、コーリン・ジャパニーズトレーディング代表取締役社長、NPO法人五絆財団会長の川野作織社長と、元ソニーアメリカ副社長で森田昭夫、大賀典雄両氏の秘書としてソニーの発展を支え、現在は社会貢献活動に専念している小野山弘子さんの2人に日系人会の功功労者アワードが贈られた。
 川野さんは、東京生まれ。獨協大学卒業後、横浜で中学教員を2年間勤めた後78年に来米。82年光琳を設立。04年女性起業家リーダー賞やジャームズ・ビアード賞など 数々の賞を受賞し、「五絆財団(GOHAN Society)」を通じて米国における日本食文化の普及に寄与したとして、平成29(2017)年度外務大臣賞を受賞している。
 小野山さんは、日本で生まれ、68年留学のため来米、71年ソニーアメリカに就職、ソニー株式会社創立者・会長盛田昭夫氏および大賀典雄会長の秘書、顧問を歴任。多数の非営利民間団体の理事や終身顧問を務めている。とくにニューヨークの少年少女合唱団、ヤングピープルズ・コーラスを率いて、日本公演を数多く実施している。 ディナーのあとは、歌手のマンデー満ちるが、美空ひばりの「リンゴ追分」をジャズ風にアレンジして歌声を披露した。

ニューヨーク流伝統会席

Eat Out 食

 今年6月にイーストビレッジに開店した「ツキミ」が人気を集めている。同店はローワーイーストサイドにある定評高い和食店「サカマイ」のチームが開いた、カウンター14席だけの隠れ家的な和食店。料理長の秋山剛徳氏は「ラン」「バー・モガ」など、ニューヨークの人気店で長年定評を得てきた実力派だ。日本での会席料理の修業経験も持ち、伝統的な和の風味に米国素材を自然体で融合させた独自のスタイルで知られる。メニューは12品195ドルのお任せ一本。決して安くはないが、心のこもったおもてなしと共に楽しむ食事は誕生日や記念日などハレの機会にぴったりだ。
 伝統会席の流れを踏襲しながらも、味のメリハリをダイナミックに感じさせる各品は印象深い。例えば八寸。鴨とピーカンナッツ、舞茸とホースラディッシュをさっくりとしたモナカの皮に盛り込み、米国風の濃厚な旨味を軽やかに楽しませる。懐かしの味わいを感じさせる各品も秋山氏ならでは。季節限定の卵を持った松葉蟹のメス、せこがにはカニクリームコロッケ風に仕立ててその豊かな味わいを繊細に伝える。またクリーミーなキャビアと雲丹、卵をさっぱりとした鮨飯にのせたお凌ぎはクセになる美味しさだ。締めには旬の筋子をほぐし、日本から仕入れた水で丁寧に釜で炊いたご飯とともに提供。美しい和菓子と抹茶で締めくくり、和食の粋を最後まで伝えてくれる。
 秋山氏が日米の作家から買い集めたという季節がわりの美しい器も楽しみのひとつ。グラスにはマネージャーのカレン・リン氏が家族から引き継いだというビンテージものも含まれており、同店でのひと時をさらに豊かにしてくれる。料理とのペアリングには厳選日本酒はもちろん、驚きを与えるワインも各種用意している。
 着席と同時に出てくるおしぼりからは、ほのかに檜の香りが立ち上る。すっかり本格化したニューヨークの伝統和食の今を感じさせる、優れた店である。
(ニューヨーク在住ジャーナリスト、片山晶子)

ツキミ
228 E. 10th St.
New York, NY 10003
要事前予約 
毎晩7時から一斉スタート
月火曜は定休
www.tsukimi.nyc