不要と思われる芸術が次の時代を作る。

横尾忠則 GOOD DAYS 80

 とにかく1年がアッという間に過ぎて、もう2020年です。日本は、というか東京はオリンピック年を迎えて、今年は特別の年になるんじゃないでしょうかね。一方、オリンピックをぶち壊すような、東京直下型地震のシミュレーションドキュメントなどをテレビで報道して不安を煽っています。ノストラダムス級の災禍が想定されているようで、それでなくても足もとがふらつく年齢になっているぼくです。あまり恐怖を煽ってもらいたくないですね。
 週刊誌は毎週のように薬害問題ばかりです。長寿が約束される一方、その足を引っ張るイチャモンは問題、結局は週刊誌の売り上げが目的だと思うんですが、こういう記事はストレスになりますね。そんなストレスが作用して、社会を不安に巻き込むメディアもメディアですよ。裏を返せば平和ということですかね。平和ボケが逆に作用すると、こうした終末時計が針を刻むんでしょうか。
 ぼくは画家ですから、いつもキャンバスを相手に無言の会話を交わしています。社会に対する不満や意見を持つアーティストが、愛知トリエンナーレで「自由の不自由展」を開催した結果、この展覧会が発信した政治的問題で令和元年の後半、このことが持ち上がり、ぼくの方にも飛び火があって、そのためではないが体調を崩し2か月半、休養することになりました。
 画家はというか、ぼくのようなタイプの画家はプロパガンダとは無関係の何も訴えないことを訴えるような絵ばかりを描いています。つまり、社会や政治などの外部の現実を描くのではなく、むしろ「私の心の問題」をテーマにしているのですが、その心というものも外部の現実とどこかでつながっています。
 社会を変革することも重要ですが、人間の内面を変えることも大変必要な問題です。自分が変わることによって社会も変わるという視点意識を持つ人間はそう多くないかも知れませんが、むしろアメリカにはこのような思想が意外と浸透しているんじゃないでしょうか。自分が不幸なのは社会のせいであるという論理がやはり圧倒的に強いのは日本だけではないかも知れませんね。
 例えばアンディー・ウォーホルがキャンベルスープの缶を描いたり、マリリンモンローを描いたことが、どれだけ社会を変えたことでしょう。ここに芸術の変革の力があることが証明されましたよね。セザンヌがリンゴやヴィクトロール山ばかり描いて何の役に立つんだと思う人もいますが、あのリンゴと山が実は20世紀を変えたのです。
 芸術の力を真から信じることのできる政治家が現代にはひとりもいないんじゃないでしょうか。絵にかいたリンゴで貧しい人が救えるのかと言われればそれまでです。でも絵の持つ魂の力を自分のものにしてしまえば、その人はその瞬間から救われ、社会も変える力も持つことになるのです。どこからか「ホンマか?」という声が聞こえませんか? 
       (よこお・ただのり/美術家/東京都在住)

ゲルニカ

国連本部ビルの安全保障理事会の議場に通じる廊下に掲げられているピカソの大作「ゲルニカ」のタペストリー(写真・三浦良一)

国連アート探訪
よりよい世界への「祈り」のシンボルたち

星野千華子

 国連本部の会議棟2階、連日「国際の平和と安全の維持」に関する重要な議題を取り扱う安全保障理事会の議場に通じる廊下の壁面には1985年にロックフェラー家から国連に寄託されたパブロ・ピカソの大作「ゲルニカ」のほぼ原寸大のタペストリーが展示されています。
 もとになった「ゲルニカ」は、1937年5月のパリ万国博覧会でスペイン館のミューラル用に依頼されたものですが、内戦のさなか、スペインの共和国政府の打倒を目指して蜂起したフランコ将軍に加担する形でナチス・ドイツ空軍(コンドル部隊)がバスク地方のゲルニカという町を空爆した事実を知ったピカソが一気に描き上げたといわれています。この空爆は人類史上初の一般市民を巻き込んだ無差別攻撃で、たくさんの女性や子どもを含む1600にも上る人々が犠牲になりました。絵画「ゲルニカ」は、これに激怒したピカソが、殺し合いをやめない人類に突き付けた渾身の一作です。反戦の象徴として有名な絵ですが、それだけにこの作品自体、受難と流転の歴史をたどっています。
「ゲルニカ」は、パリ万博が終了しても内戦状態にあったスペインに送られることはなく、ヨーロッパ諸国を巡回し、ファシズムの脅威を訴えるとともに、得られた資金は共和国政府の支援に使われました。当のスペインでは1939年4月に内戦に勝利したフランコが軍事独裁政権を樹立したことから、「ゲルニカ」はその年の5月には当時ネルソン・ロックフェラーが理事長を務めていたニューヨークの近代美術館(MoMA)に、スペインに人民の自由が訪れるまでは返還しないというピカソ本人との約束のもと、いわば「亡命」することになります。
 この大作のスペイン帰還が動き出したのはピカソが91歳で亡くなり(73年)、フランコ将軍も死去(75年)してからのことで、81年に極秘裏にニューヨークからマドリードに移され、最初は国立プラド美術館の別館で防弾ガラスのなかで公開されていましたが、1992年からは新たにオープンした国立ソフィア王妃芸術センターに常設展示され、今日に至っています。
 なお、この間にゲルニカをバスク地方で展示しようという動きも出ましたが、それにふさわしい美術館がないとの理由で断られていたところ、MoMAのライバルともいわれるニューヨークのグッゲンハイム美術館が、ゲルニカに近いビルバオに世界級の分館をビルバオ・グッゲンハイム美術館として開館、国王夫妻にゲルニカを本来ある場所に戻すよう訴えたとのエピソードがあります。
 このように「ゲルニカ」はまるで圧倒的なカリスマを身にまとった生きもののように、それぞれの国や人々の間で翻弄されてきたことがわかります。もっともいまでは「ゲルニカ」は、世界一借りにくい作品としても有名です。2000年にはMoMAからの貸し出し申請でさえも却下されています。その理由の一つが、作品の傷みやすさです。
 ピカソは1937年4月26日のゲルニカ空爆のニュースを2日後の28日にパリで知るのですが、そこから作品を構想して描き始めたのが5月1日。そして6月4日にはすでに完成させています。怒りに打ち震えたピカソの様子がうかがえます。その姿や形相は、不動明王や金剛力士のようではなかったかと想像を駆り立てられます。そして逸る気持ちを映し出すかのように制作には通常の油絵具ではなく速く乾く工業用のペンキが使われました。そのことが絵の保存を難しくし、また移動も困難なものにしているのです。
 ところで、この「ゲルニカ」にはタペストリーのかたちでのレプリカがあり、世界で3点のみ制作されました。レプリカですがピカソ本人が承認し、いずれも信頼する織り師のジャクリーヌ・ド・ラ・ボーム=デュルバックのアトリエで織られた分身といえるものです。国連本部内のそれは唯一ピカソが存命中に彼の直接の監修のもとに制作された第1号です。それをロックフェラー家が寄託、つまりローンというかたちで国連に置き、安保理の議場入口近くに飾られています。
 ピカソの研究者としても有名な作家の原田マハ氏は、第2次大戦前夜のパリと9・11事件後のニューヨークでの物語を「ゲルニカ」でつないだ小説『暗幕のゲルニカ』のなかで、「この作品は見るものに目撃者となり証言者となれと挑発しているかのようだ」とお書きになっています。
 小説のタイトルにもなった「暗幕のゲルニカ事件」とは、03年2月5日、実際に国連本部で見られたある出来事に由来しています。その日、安保理公式会合ではアメリカのパウエル国務長官がパワーポイントでイラクによる大量破壊兵器の保有を世界に発信し、実質的にイラクへの軍事作戦の容認を求めました。安保理では重要な議題が審議された後には議場前の常設の記者会見スペースで議長が声明を発表したり、関係国の代表が自らの立場を述べたりと、記者とのやりとりが行われます。ですがこの日に限って会見場所が「ゲルニカ」前に移され、その設営のために「ゲルニカ」は濃紺の布で完全に覆われ、それを背景にいつもの安保理のバナーと理事国の国旗を並べられるかたちになりました。さすがに剥き出しの「ゲルニカ」の前でイラク攻撃に関わる議論はできなかったのではないか、国連事務局がアメリカに忖度したのか、それとも米代表部からの圧力だったのか、など、このタイミングで「ゲルニカ」に幕がかけられたことでかえって多くの憶測と反響と批判を招くことになったのです。国連の報道官の説明は、テレビ・カメラ向けにはこれが適切、というものでしたが、このように今なお大きな影響力を持つ「ゲルニカ」です。
 この措置に怒ったロックフェラー家から、タペストリーを国連から引き揚げるといったお叱りもあったともいわれています(物議をかもした幕はその後すぐに取り外されました)。
「ゲルニカ」はなぜ安保理の入口の前に飾られたのでしょうか。安保理で議論の対象となるその国や地域で何が起こり、どれだけの人々の「あたりまえの日常」が奪われ、命を奪われ、希望が奪われていて、その人々の声は安保理のメンバーに届いているのでしょうか。そしてここで下される決定が、嘆き悲しむ人々や世界に、そして未来に何をもたらすのでしょうか。「ゲルニカ」は、それを目撃者としてだけではなく、決して傍観者ではなく当事者としての我々の覚悟を問うている…とは言いすぎでしょうか。 (つづく)
(筆者は国連日本政府代表部幹部の配偶者でニューヨーク在住)

タフな人生の向こうに明日

ジャズピアニスト 大江千里

 あけましておめでとうございます。
 2020年1月20日、バードランドシアターで再び大江千里トリオライブをやりますので、新年は心が躍ります。旧年中は本当に皆様にはお世話になりました。こうしてまた新しい年を迎えてご挨拶ができることに心から感謝をしたいと思います。
 2019年は、わが12年のアメリカ生活で最も大変だった年です。4月のある夜中にお腹が痛くてどうしようもなく自力で病院まで歩いて行き、そのまま入院、
虫垂炎の手術を行いました。腹膜炎で破裂寸前だったのです。Waiverにサインして犬に朝ごはんやりに帰ろうとしているのを現場のお医者さんたちがCTを受けた方がいいと進めてくれたのです。日本でそのあと7月にPETを受けたらなんと盲腸の手術で腸を止めたクリップが外れてお腹の中でぐるぐる動いているそうです。聞いてないよ、そんな話(涙)ですが、命は助かりました。
 そのちょっと後に、僕を応援してくれていた父が亡くなりました。ずっと長いこと心の距離があったのですが父は20年ほど前に下咽頭がんを手術して声を失って、その後からお互いに会話が始まったのです。声を失って会話を得るって変な言い方ですが、一度もポップ時代にコンサートを見に来てくれなかった父が「1234」という僕のアルバムを持っていて、アメリカに渡るときも「日本ではやりきっただろう? 行ってきなさい」と背中を押してくれたのでした。
 父が亡くなった直後はアルバム「Hmmm」のレコーデイングだったので、人生ってタフだなと痛感したのですが、このジェットコースターから降りたらだめだなとレコーディングを敢行し、自分の未来に光が見えるようなSenri Jazzを詰め込んだアルバム「Hmmm」 が完成しました。人生とはわからないものですね。このアルバムをNYにオフィスのあるSONY MASTER WORKSにダメもとで送るとなんと即契約が成立しました。ヨーヨーマーやブランフォードマルサリスのいるレーベルです。
 秋以降もお腹の傷跡を抑えながらアルベニアジャズやローマの老舗ジャズクラブ、シカゴ、LA、シリコンバレーなどで演奏しました。ハードルが高くて不安も大きいのですが、気がつくとスタンデイングオベーションが起こり、拍手をいただけていると、きっと神様がどこかで「頑張れよ」って背中を押してくれているような感じがします。
 新しい年もバードランドのトリオ公演を始め、そのあとはDCの名門ジャズクラブブルースアレーなどが待っています。今年は還暦を迎えます。47歳でNYのジャズ大学に入って52歳でジャズレーベルを立ち上げて6作アメリカで作っていることになります。
 日本人としての誇りを持って一歩一歩今年も精進していきたいなと決意も新たにしています。
 この新しい年の始まりが皆様にとって素晴らしいものになりますように。健康で実り豊かな2020年をどうかお過ごしください。

64年東京五輪で通訳

ニューヨークで不動産業30年

奥山 愛子さん(78)

東京五輪の選手村で通訳仲間たちと(右から2人目が奥山さん/写真・本人提供)

 今年開催になる2020東京オリンピックをニューヨークから感慨深げに見守っている日本人女性がいる。クイーンズのフォレストヒルズで不動産業を30年以上営み、現在は投資アドバイザーをしている奥山愛子さん(78)だ。
 奥山さんは、1964年東京オリンピックの代々木選手村で通訳として勤務した。山形県寒河江市仲町の駅前にある旅館の娘として生まれた奥山さんは、小さい時から外国人と接する機会があり、外国に憧れを持って育ったという。
 共立女子短期大学英文科を卒業後、昼はサンタ・マリア学院の講師を、夜は交通公社(現JTB)のガイド、英会話学校の受付をやるなどして英語をマスターした。
 オリンピックの通訳の募集を知って、自分の語学力を試すためとさらに勉強するために応募して、五輪通訳の採用試験にパス。
「英語だけしかできないと、何か持って来てくれと言われても、部屋の番号も分からない場合が多く、せめて数を言えるくらいには数か国語を理解していなくては」と研究熱心だった奥山さん。
 2年後の66年、訪日旅行で世話した米国人女性社長の招きでカリフォルニア州サンディエゴに。
 グレイハウンドで10日かけて大晦日に着いたニューヨーク。お正月にはさっそく、日本クラブの新年会でコートチェック、ハットチェックの仕事をしていた。


 ハンターカレッジで学士(BA)卒、ニューヨーク大で不動産ライセンス資格を取って82年にクイーンズ区のフォレストヒルズに「奥山不動産」を開業。マンハッタン、ウエストチェスターなど3か所に事務所を広げ、2012年に閉業するまで30年以上日本人の住宅探しを世話した。
「世界中で日本人の女性はお利口でインテリだと思われるように自分の時間をもっと使って勉強してビジネスリーダーになってほしい。国連の緒方貞子さん(故人)が『日本はもっと大きな規模のことをしなくてはならない』っておっしゃっていたけど、本当にその通り。そうでないとフォロワーが出て来ない。頑張って」と若い女性たちにエールを贈る。(三浦良一記者、写真も)

パペットに命宿る白昼夢

アーティスト

菊地 麻衣子さん

「日常の中で、もしこれがこうだったらどうしよう。そうはならなくて安心するのだけれども、がっかりもする。ファンタジーとは違う白昼夢。自分のワクワク、ドキドキ、怖い気持ちを他の人にも伝えたい」。ビジュアルアーティスト、シアターアーティストとして活動する菊地麻衣子さんは、1月に開催される国際的な舞台芸術祭「アンダー・ザ・ラダー・フェスティバル」で自作「デイドリーム・チュートリアル」を上演する。
 ニューヨークには60〜70年代に全盛期だったパペットシアターの文化が根付いていて、ブロードウエーでもパペットが使われ、パペットシアターを見る機会があちこちにあるという。 
 パペットとの出会いは偶然だった。小さい頃からモノ作りが好きだった菊地さんは、武蔵野美術大学を卒業して働いたものの閉塞感があり、美術を学び直そうと渡米。ニュージャージーの大学編入後にプラット・インスティチュート大学院に進学した。卒業を前に1単位足りないことに気づき楽しそうだからと取ったのがパペットのクラス。「イスなどを人間が操ることもパペット。人がモノを動かすことで作る舞台芸術」と知った。「現実っぽいけど非現実的なことがパぺットなら表現できる」と、卒業後に講師のセオドラ・スキピタレスさんのアシスタントになった。思い起こせば、精神分析科医の父親が持つ「箱庭」で遊ぶことも好きだった。
 そこからは続々と名だたる劇場で発表の機会を得る。2012年にはセントアンウェアハウスが若手に発表の場を与えるパペットラボでのレジデンスに。祖父の顔でマスクを作った「デイドリーマー・アンソロジー」は同ディレクターに気に入られ、特例で翌年もラボに参加、「ピンク・バニー」を発表した。ラ・ママ劇場で上演したら来年はソロ上演をと声がかかり、英語の早口言葉を6人が演じる作品を制作。「ピンク・バニー」は16年にジャパン・ソサエティーでも上演した。今年上演する「デイドリーム・チュートリアル」は一昨年から発展途上の作品を発表し続け、数か月前からザ・パブリック・シアターのレジデンスに選ばれ、その一環で今回初めて世界的な場で発表する。
「あれ、これなんだろう。変な夢を見たような感じ」と、観客がそうつぶやくという菊地さんの作品。ニューヨーク舞台芸術界の注目が集まっている。東京都出身。    (小味かおる)

■デイドリーム・チュートリアル=12日(日)午後1時、19日(日)午後7時、ザ・パブリック・シアター(ラフィエット通り425番地)で上演。入場料は25ドル。詳細はウェブサイトhttps://publictheater.orgを参照。

画廊で甘味堪能 ウサギNYで茶

 ダンボ地区にあるカフェとギャラリー「ウサギNY」は、京都の日本茶専門店「一保堂茶舗」の抹茶をふんだんに使用した抹茶ラテをはじめ、抹茶ブラウニーやクッキー、ほうじ茶を使用したほうじ茶ラテほか、抹茶/ほうじ茶のパイを販売している。さまざまなデザインの椅子やソファーが置かれたカフェスペースで、好きな座席を選んでゆっくりお茶とスイーツが楽しめるダンボの隠れたリラックススポットだ。
 ギャラリーでは毎回刺激的なアート展が開催されており、さらにお土産にも喜ばれそうなアートグッズや本が並ぶブック&デザインストアも併設。カフェとギャラリー、ブック&デザインストアという完璧な組み合わせの開放的で心地よい空間が広がっている。ランチタイムにはポケ(Poke)やおにぎり、お弁当を買い求める地元の住人たちでにぎわう。ダンボ観光で疲れたらぜひ立ち寄ってみてはいかが?

usagi new york
163 Plymouth St,
Brooklyn, NY 11201 
Tel: 718-801-8037 
月〜金曜:8:00〜18:00
 日曜:11:00〜17:00 
土曜定休 
www.usaginy.com

ハッピーホリデー・ウエストチェスター 年末年始のイベントガイド

 皆さんの2019年はどんな1年でしたか? 楽しかったこと、悲しかったこと、頑張ったこと、恥ずかしかったこと、全部引き出しにしまって、気持ちも新たに新年を迎える準備をしよう。
 日本では大晦日の夜12時から年明けにかけて各地の寺院で除夜の鐘を撞くが、アメリカでは大勢の人が集まり年越しの瞬間に合わせて降りてくるボールを見ながらカウントダウンする「ボール・ドロップ」があちこちで開催される。タイムズスクエアのカウントダウンには毎年数万人が押し寄せて大騒ぎしているが、このような新年を祝うイベントを「Ring in the new year」または「Bring in the new year」と言う。「Ring in the new year」は日本の除夜の鐘と同じように、その昔欧米の教会でも年越しに合わせて鐘を鳴らしたことから、また「Bring in the new year」は文字通り、古い年を置き去り新しい年を迎えることから来ている。
 以下はウェストチェスター近郊で行われる年末年始のイベント情報。

■ホリデー・ウィークエンド・ギャザリング=エルムスフォードにあるキャプテン・ローレンス・ビール醸造所併設のビアホールで2019年最後の週末を季節のビールやシーフード、ライブ演奏で楽しむイベント。子供連れもOK。日時:12月28日(土)・29日(日)正午〜午後7時 場所:Captain Lawrence Brewing Co. (444 Saw Mill River Rd. Elmsford) チケット不要。詳細:www.captainlawrencebrewing.com/

■Ring in the new year at noon=今年で10回目を迎えるニューロシェル市主催による2歳から10歳の子供向けイベント。消防署や公園管理局など行政機関をはじめ地元の各種ビジネス、スポーツチームなどが協賛、協力する。会場ではスナックやライド、バルーンツイスト、フェイスペインティング、クラフトなどが楽しめる。参加費(1家族4人で10ドル)は寄付制で図書館のサポートに利用される。要事前予約。日時:12月31日(火)午前10時30分〜午後12時30分 場所:New Roc City (33 Le Count Place, New Rochelle)  詳細:https://bit.ly/34Bp4mi

■ウィンターワンダーランドRing in the new year=1月4日(土)までバルハラのケンシコ・ダムプラザで開催している期間限定アミューズメントパーク「ウィンター・ワンダーランド」でのドロップボール。小さい子供も楽しめるようドロップボールは夜7時に行われ、続いて花火も上がる。入場料にはアイススケートやサーカス、乗り物チケットも含まれる。暖かくして出かけよう。日時:12月31日(火)午後5時〜10時。場所:Kensico Dam Plaza (1 Bronx River Parkway, Valhalla) 入場料:20ドル。詳細:www.wwinterwonderland.com/

■ホワイトプレーンズ・ニューイヤーズ・イブ・セレブレーション=毎年恒例、ホワイトプレーンズのダウンタウンで開催される紙吹雪と花火、ライブ演奏で新年を祝うイベント。車を遮断した通りで行われるが、数カ所に設置されたゲートからしか入場出来ないため、事前にゲートの場所を確認して行くこと。日時:12月31日(火)午後10時〜12時30分。主会場はメインストリートとコートストリートの交差点。入場無料。
詳細:https://bit.ly/2sFwSGs

血より濃い正義と友情 Star Wars: The Rise of Skywalker

敵地に向かうレイ(リドリー、右)とチューバッカ(ヨーナス・スオタモ、左)たち PHOTO : Lucasfilm

「遠い昔、遥か彼方の銀河系で…」のオープニング・クロールが画面に表れ、ジョン・ウィリアムスのメインテーマ曲が始まる心躍る瞬間。1977年に1作目がスタートした壮大なスペースオペラ「スターウォーズ」シリーズもいよいよ最終章の9作目となった。時系列順エピソードで言えば4・5・6の旧3部作から始まり、時代を遡った新3部作(プリクエル・トリロジー)、そして続3部作(シークエル・トリロジー)へと40年以上にわたりファンを魅了し続けた大作。その集大成とも言える完結編だけに物語の展開はもとより、どんなエンディングを迎えるのか熱狂的ファンでなくても気になるところ。
 ルーク・スカイウォーカーを師にジェダイの修業をしたレイを主人公に独裁国家・銀河帝国の流れをくむ軍事組織ファースト・オーダーとレイア率いるレジスタンスとの戦いの行方、それと並行して、ハン・ソロとレイアの息子でダークサイドに落ちたカイロ・レンと命を懸けて銀河系を守ろうとするレイとの対決がいよいよ決着を迎える。
 監督は「Star Wars: The Force Awakens」(エピソード7)で監督・脚本・製作を担当したJ・J・エイブラムス。レイ(デイジー・リドリー)、カイロ・レン(アダム・ドライバー)フィン(ジョン・ボイエガ)、ポー・ダメロン(オスカー・アイザック)らメインキャストは続投。レイアに扮するキャリー・フィッシャーは2016年12月に死去したため、過去のフィルム映像を使ったカメオ出演程度を予想していたがまるでこのエピソードのために撮影したような場面が数多くあり、うれしいボーナスだ。 
 惑星ジャクーでスカベンジャーとして生計を立てていたレイになぜフォースが備わっていたのか、彼女の出生の秘密がそれを語る。エンディングはいかにも銀河系の未来を象徴するようなさわかやで希望に満ちた結びでラストにふさわしい感動と涙の作品となった。2間22分。PG-13。
 さて、完結編をもっていわゆる「スカイウォーカー・サーガ」の本編は終了するがこれでスターウォーズが終わったわけではない。2012年にルーカス・フィルムを傘下に置いたウォルト・ディズニー・スタジオはすでにスターウォーズのスピンオフ作品「ローグ・ワン」(16年)、「ソロ」(18年)を公開しており、同様のライン、あるいはスーターウォーズ新作が出てくるのは間違いない。 (明)

https://www.starwars.com/films/star-wars-episode-ix-the-rise-of-skywalker


■上映館■
Regal E-Walk Stadium 13 & RPX
247 W. 42nd St.
AMC Empire 25
234 West 42nd St.
AMC Loews 34th Street 14
312 W. 34th St.

長野県長野市戸隠(とがくし)

5つの神社を巡ってご利益を受け取る

 古事記にも日本書紀にも出てくる有名な神話「天の岩戸開き」をご存知だろうか。太陽の神・天照大神(アマテラスオオミカミ)が高天原という神々の世界を治めていたとき、乱暴な弟神のスサノオノミコトに怒り、天の岩窟の中に隠れてしまった。そのため高天原は夜のように暗くなってしまい、八百万(やおよろず)の神々が集まって相談し、岩窟の前で宴会をすることになった。その宴会でアメノウズメノミコトが披露した滑稽な踊りで神々が声を出して喜ぶと、その声を聞いた天照大神は岩戸を少し開けて外を覗こうとした。そのとき天手力雄命(アマノダヂカラオノミコト)が岩戸をこじ開けて連れ出し、空は元のように明るくなったという。
 その後、ものすごい怪力の持ち主・天手力雄命は、もう天照大神が岩窟の中に篭ってしまわないようにと岩戸をえいっとほうり投げて隠した。そこは九州・宮崎県の高千穂だが(諸説あり)、岩戸は本州をどーんと飛来して長野県に突き刺さった。それが、険しい岩山がそびえる戸隠山になったという勇壮な伝説が産まれた。
 戸隠連峰の麓にある神話のふるさと戸隠には、天の岩戸開きに功績があった神々を祀る5つの神社があり、それらを総称して戸隠神社と呼んでいる。ここは平安時代から明治維新まで神々を祭る地でありながら仏教の修行の地としても有名で、天台宗、真言宗による修験者のメッカとなり、諸国の山伏達が集まって隆盛をきわめた。高く険しいノコギリの刃のような戸隠の山々は神道と仏教の信仰の対象とされた。
 そんな歴史があるから、いまもなお戸隠の宿泊施設は旅館やホテルではなく宿坊が多い。宿坊とはお寺や神社が運営する宿泊所のことで、もともと僧侶や遠方から参拝に訪れる人のための施設だが、近年は観光客に利用されていて、外国人の姿も多い。全国各地にある宿坊によって異なるが、座禅や読経、写経のほか、場所によっては滝行や断食などを体験することで心と体のデトックス効果を得られるのだそう。そう聞いて、さぞ簡素な宿泊設備だろうと思って調べてみると、最近はさまざまなタイプがあるようだ。萱葺き屋根の建物で6畳一間のトイレなし、精進料理を食べてせんべい布団で寝るものから、温泉旅館さながらの豪華食事、ウォシュレットトイレとベッドが置かれた洋間まで。さあ、せっかく行くならどちらにする?
 私が選んだのは敷地内に小さな滝が流れる、夕食に美しいそば会席を楽しめる宿坊で、初めて食べたふわふわの「そばがき」や特製そば塩で食べる蕎麦は忘れられないほどの美味しさ。肉やお刺身がなくても満足する絶品料理に舌鼓を打った。また、翌朝の朝拝では玉串の捧げ方や作法を学び、太鼓の音とともにお祓いしてもらい、さらに特製お守りまでいただいて清々しい気分で神社巡りへと出発した。
 戸隠神社は、宝光社・火之御子社・中社・奥社・九頭龍社の5つから成る。270段の石段が連なる宝光社、岩戸の前で舞いを披露した舞楽・芸能の神を祀る火之御子社、宴会を創案し岩戸を開くきっかけを作った知恵の神を祀る中社など、宿坊でもらったマップを見ながら参拝していく。最後に巡った奥社・九頭龍社は車道から2キロ以上先にあり、車を駐めて車両の入れない参道を歩いていく。太陽光が差し込むまっすぐな参道には天然記念物に指定されている樹齢400年の杉並木が続いていて、なんだか神聖な気持ちになってくる。途中にある萱葺きの赤い随神門の美しさに見とれたり、参道の脇を細く流れる小川に沈むドングリを拾い上げたりしていると、しだいに山登りのように険しくなってきた。息切れしつつ最後の石段をのぼりきるとギザギザした山を背にしたふたつの社に到着した。往復1時間。社殿にたどり着いた達成感もあったが、参道の澄んだ空気や美しく連なる杉並木がまるで異空間だったかのように強く心に残った。
 戸隠は神社巡りのほかに、大人も楽しめる忍者カラクリ屋敷、広大な敷地でキャンプや乗馬が楽しめる戸隠牧場、風がなければ戸隠連峰を鏡のように映し出す鏡池や小鳥ケ池など、小さな村ながらも行きたいところがたくさんある。日本三大そばのひとつでもある戸隠そばを毎日違う店で食べたいし、神社巡りも車ではなく戸隠古道を時間をかけて歩いてみたい。夜はきっと星がきれいだろう。もっとゆっくり神々の村で過ごしたかった。温泉好きの私が温泉のない戸隠に魅せられて、また絶対もどってくるぞと思えた癒しの土地だった。長野市からは22キロほど、1時間のドライブで到着できる。長野市には善光寺のそばにも宿坊はあるが、戸隠のほうが自然が溢れていておすすめしたい。ひとり旅でもきっと楽しめる場所だ。(本紙/高田由起子)

来月から本紙で連載

岡田光世・著
文春文庫・刊

 昨年まで本紙で連載した『奥さまはニューヨーカー』の原作と英語監修を担当していた岡田光世です。2月からは、新連載『ニューヨークの魔法』がスタートします。40万部突破の「『ニューヨークの魔法』シリーズ(全9冊、文春文庫刊行)から、毎月1話ずつ、掲載されます。
 これは、私がニューヨークの街角で出会った人たちとのささやかな触れ合いを描いたエッセイ。実際に交わした言葉が、和訳とともに紹介され、生きた英語の勉強にもなります。
 第1弾『ニューヨークのとけない魔法』(2007年刊)が増刷を重ねてシリーズ化され、『ニューヨークの魔法は終わらない』(2019年刊)で完結しました。

 私は高校と大学でそれぞれ1年間、ウィスコンシン州とオハイオ州に留学。大学院進学を機に、ニューヨークに住み始めました。「読売アメリカ」紙記者を経てフリーになってから、『ニューヨーク日本人教育事情』や『アメリカの家族』(ともに岩波新書)などの著書も執筆しました。



 ニューヨーカーはせっかちで無愛想。横柄で無礼、という印象もあります。私もそう感じた頃があったけれど、いつしかこの街をこよなく愛するようになりました。
 個人主義なのに、他人を放っておけない人が多い。孤独な大都会なのに、田舎町のように人間臭くてお節介で、人の心と心が触れ合う瞬間に満ちている。目が合えばほほ笑み合い、ジョークを交わし、心がひとつになる。その瞬間を、私は「魔法」と呼んでいます。
 多くの多種多様な人々がひしめき合って暮らすニューヨークでは、あなたも私もありのままでいい。この街がそう思わせるのか、そう信じる人がこの街に集まるのか。おそらく両方でしょう。
 米国の他の都市では、裕福な人は郊外に移り住み、それが経済的に許されない人が都市部に残る傾向があります。ニューヨークとくにマンハッタン島には、ミリオネアーも庶民も低所得者も、そして様々な人種の人たちが、地下鉄やバスで隣り合わせ、同じスーパーのレジに並びます。
 ここで暮らし、私はどんどん子どもに戻っていく気がします。それはきっと出会う人たちの多くに、子どもの部分が残っているからでしょう。私たち日本人が忘れてしまったものを、意外にもこの街は、思い出させてくれるのかもしれません。
 シリーズは終わっても、ニューヨークの魔法は終わらない。紙面の都合で、連載では短めの話が多くなりますが、人っていいな、と感じていただけるはずです。この夏のオリンピックで、世界中の人たちを迎える日本も、魔法で満たされることを願っています。 (岡田光世)