ご当地商品対米PR

47都道府県コーナー
Jコラボが設置して新企画

 2008年の設立以来、ニューヨークで日本文化を発信するイベントや教育プログラムを提供してきたNY州認可の非営利団体Jコラボが、地方自治体の海外発信を支援する新プログラムを創設した。このプログラムは、Jコラボが昨年6月に始めた47都道府県のご当地商品や伝統工芸品をJコラボのホームページ(https://www.j-collabo.org/47-j-b)とニューヨークのショールームで展示し、さらには販売するという「47 J+B」企画の一環。現在約200のご当地商品が参加している。
 インバウンドブームの一方で、海外で自治体の観光名所や伝統産業などを発信する常設の店舗を持つことは費用面で難しい現状を打破するために考案されたこのプログラムは、ブルックリンを拠点とするJコラボの47 J+B特設ショールーム内に、自治体が年間1000ドルで常設ブースを持ち、そのブースを自由に使えるというプランとなっている。また、年に3週間、より広いブースでの特別展の開催や、その自治体に所縁があるニューヨーカーの紹介などの特典も。インバウンドブームでは偏った都市が注目されがちという現状を打破し、まだ海外であまり知られていない自治体の魅力をニューヨークから世界へ向けて発信するという、地方再生のための試みとなっている。問い合わせは、47jplusbarchive@gmail.com 須能さん。

新感覚のインドネシア料理

 現在世界各国に約40のレストランを経営する米国屈指の料理人、ジャン・ジョルジュ・ヴォングリクテンヴ氏の子息セドリック・ヴォングリクテン氏は、マンハッタンのウェストビレッジにある、2005年開店の現代米国料理店「ペリー・ストリート」の料理長として定評高いシェフである。その氏がインドネシア人の妻と2019年2月、ノリータに開いた「ワイヤン」が話題だ。
 テーマは、フランス料理にスパイスやソースなど、豊かなインドネシアの風味を取り入れた料理。例えば伝統的な鶏の串焼き「サテー」(14ドル)には旨味の強い脚肉のみを使い、薄切りにして均等な火入れに。クラシックなインドネシア流ピーナツソースを添え、素朴な料理の味わいを繊細に伝える。また野菜、茹でた鶏卵、濃厚なピーナツソースからなるインドネシアを代表するサラダ「カドカド」(16ドル)は、親しみやすくピーナツソースを軽めに仕上げ、代わりに米国で人気のアボカドでクリーミーさを表現。一方スズキは伝統流にバナナの葉で包んで蒸し、客席で開いて豊かな香りを伝える。東南アジア原産柑橘カラマンシー風味のヴィネグレットで爽やかな味わいに仕上げた一品だ。
 メニューには串焼き3品、小皿9品、メイン9品、付け合わせ6品を用意。例えば2名なら、各項から1-2品を分け合って多彩な品々を楽しむお客が多いという。
 店内はバーカウンターも備えた活気あるフロントルーム、オープンキッチンに面した6席のシェフスカウンター、その奥にある落ち着いた雰囲気のダイニングからなる。それぞれ軽い食事とドリンク、美食体験、ハレの機会と言った異なるニーズに対応してくれるのもうれしい。常連客は30%に上る人気ぶりだ。
「独自の魅力溢れながら十分知られていないインドネシア料理の魅力を、大切に伝えていきたい」とヴォングリクテン氏は話す。
(ニューヨーク在住ジャーナリスト 片山 晶子)


Wayan
20 Spring Street,
New York, NY, 10012
TEL (917) 261- 4388
営業時間
月 11:30 – 15:30, 17.30 – 22.30
火-木 11:30 – 15:30, 17.30 – 23.00
金11:30 – 15:30, 17.30- 0.00
土11:00 -15.30, 17.30 -0.00
日 11:00 – 15.30, 17.30 – 22.00
www.wayan-nyc.com

新潟から煮干し醤油味 ラーメンのサンポウテイ

イーストビレッジに23日開店

金子社長

 イーストビレッジに醤油ラーメンと和風中華の店、新潟のサンポウテイ(金子博信社長)が23日オープンした。1967年に新潟市内で創業以来ラーメンで業績を伸ばして現在日本国内に中華などを含め47店舗を展開している。米国1号店となるイーストビレッジ店は50席。煮干しをベースとしたうま味出汁が効いた同店看板商品の醤油ラーメン(16ドル)を柱に、麻婆ラーメン(17ドル=ランチのみ)、サンポウイテイ餃子(6個、10ドル)、チャーシュー煮干しつけ麺(17ドル)などを出す。 
 ラーメンブームといわれるニューヨークだが、多くはとんこつ味が主流で、醤油ラーメンを食べさせてくれる店はニューヨークには数えるくらいしかない。いわば少数派の醤油だが、出している店はどこもこだわりの味を提供している。サンポウテイは、そんなライバル店たちとも互角以上にわたりあえる本格的な煮干し醤油味だ。米処・酒処の新潟から取り寄せる選りすぐりの日本酒とカクテルのペアリングもいい。 (三)


SANPOUTEI
EASTVILLAGE
92 2nd Avenue
New York, NY 10003
Tel: 646-964-4357
https://sanpoutei.com/
営業時間 日〜木 17:00-22:30
金〜日 17:00-00:00

錦織待望の復帰戦

2月NYオープン
西岡、内山も参加

 男子テニスで世界ランク13位の錦織圭が2月9日(日)から16日(日)まで、ロングアイランドのユニオンデールにあるナッソー・ベテランズ・メモリアル・コロシアム(1255 Hempstead Turnpike, Uniondale, NY 11553)で開催されるニューヨーク・オープンに出場する。
 同大会には錦織のほか、世界ランク19位のジョン・イスナー(アメリカ)、30位のニック・キリオス(オーストラリア)、昨年の覇者で同36位のライリー・オペルカ(アメリカ)、日本人では同73位の西岡良仁と同81位の内山靖崇など、10か国から20人が出場する。会場となるコロシアムは2018年から新たにブラックコートが採用されて話題となった。
 錦織は昨年9月の全米オープン以降、右ひじの負傷で全大会を欠場、10月には手術を受けており、今回のニューヨーク・オープンが復帰戦となる。

 入場料などの詳細はウェブサイトhttps://newyorkopen.com/を参照。

ぼくめいた 最終回

短期集中新連載えほん

作・絵 三浦良一

 あれあれ、
なんだか、やさしく ぼくの頭を撫でる女の人がいるよ。
「まだ頑張って車の留守番してるのね。偉いわね」って。
ぼくには すぐわかったよ あのときの女の子だってね。
見上げると、腕にはあの時と同じ時計。そう「ああ、おばあさん時計だ!」
「がんばってるわねえ。アナタたち」とおばあさん時計がウインクしてくれたよ。

(おしまい)


What’s this?
Suddenly, I felt someone’s hand gently petting my head.
“I see that you’re still out here, working hard and watching over the cars. You’re doing a great job.”
I knew right away that it was the young girl from back then.
When I looked up at her wrist, I saw that she was still wearing her grandmother’s watch.
“Oh. hello, Grandmother’s Watch!”
“I see you’re all still here, doing your best.”
The grandmother’s watch said to me with a wink.

(END)

葉室鱗、最後の小説

葉室 鱗・著
朝日新聞出版・刊

 小説家の葉室鱗(はむろ・りん=1951〜2017)氏の訃報が突然届き、驚いたのはもう2年以上前、17年の12月だった。直木賞を受賞し、役所広司と岡田准一の出演で映画化された代表作『蜩(ひぐらし)ノ記』などの歴史・時代小説の名手として知られる人気作家で、まだ66歳だった。
 葉室さんは福岡県北九州市出身。西南学院大学文学部を卒業後、福岡市に本社のあった地方紙記者などを経て、50歳を過ぎてから本格的な創作活動を始め、05年に歴史文学賞を受賞した『乾山晩愁』で作家デビューした。その後、07年『銀漢の賦 』で松本清張賞、12年『蜩ノ記』の直木賞、16年には『鬼神の如く 黒田叛臣伝』で司馬遼太郎賞とさまざまな賞を受賞、単行本は50冊を超えるほど多作で、新聞や雑誌への連載などもこなす、多忙な作家生活を生きた。
 本書『星と龍』は葉室さんが亡くなる17年4月から11月まで「週刊朝日」に連載。最後まで病名は明かされなかったが、同作品の連載中から小康状態を保ちつつ、病と闘いながら書き続けた。そして11月24日号まで書きあげたが、その1か月後に力尽きた。
 河内の悪党と呼ばれる一族に生まれた楠木正成。しかし彼の信条は正義であった。近隣の諸将を討伐した正成は後醍醐天皇の信頼を得ていくが、自ら理想とする世の中と現実との隔たりに困惑する。本書では、楠木が北条得宗家から近隣の渡辺・保田・越知らを討伐するところから、足利尊氏が弟の直義を助け、東国に腰を据えるまでが描かれている。ここまでで著者が絶筆となり、話がぷっつりと途切れて終わった形となってしまったが、それでも充分読みごたえのある作品だと思う。
 葉室氏が旅立った翌年夏に都内で開催された「お別れの会」で直木賞作家の安部龍太郎氏は、「優しく、思いやりが深く、自分よりも人のことを考える。人の痛みが分かる苦労人であった」と語り、故人を偲んだ。また、本書巻末に9ページにわたる解説「夢と希望と作家の祈りと」を寄せ、「葉室さんが病を押してこの作品に取り組んだ最大の理由は、司馬遼太郎へのオマージュだったと思う」と述べている。葉室氏は司馬氏の代表作『竜馬がゆく』に肩を並べる作品を書きたかったのではないか。庶民の側に立った国民的英雄で、坂本竜馬に匹敵する人物と言えば楠木正成しかない。しかも共に幕府を倒す立て役者となりながら、若くして非業の死を遂げている。だから正成を竜馬のように書いてみよう、そう考えたのではないかという。文体や著述スタイルが『竜馬がゆく』によく似ているのも安部氏がそう考える理由のひとつだ。
 葉室氏がその人生で書いた最後の文章は、臨済宗の禅僧・夢窓疎石が清雅な佇まいで茶を点てながら訊いた「さて、楠木殿は帝と足利が争えばいずれにつかれる」という問いだった。本書は命ある限り書き続けた小説家による、楠木正成の生涯に迫る未完の傑作である。 (高田由起子)

日本人に縁のある高原

カンボジア キリロム

 坂本九の「上を向いて歩こう」。1961年に発売され世界的大ヒットになったこの曲は、カンボジアでもほぼ同時期から歌われてきた。ラブソング「パラダイス・キリロム」という歌に変わって。川や滝がある避暑地「キリロム高原」は、70年代の内戦下で共産主義を唱えるポル・ポト派の支配地域となり、長い間歌でしか知らない憧れの地だった。今では首都プノンペンから車で約3時間ほど、多くの人が川遊びやサイクリング、エコツーリズムを楽しんでいる。私が初めて訪れたのは、治安がよくなったばかりの2000年だった。熱帯雨林のカンボジアにしては珍しく松林が続く風景。建物と言えば廃墟と化した国王の別荘しかなく、片道4時間強の日帰りバス旅行だった。
 今夏、数年ぶりにカンボジアを再訪して「老後はここに戻りたい。でもこの暑さに耐えらえるか…」と話すと、「じゃ、キリロムへ行ってみない? 日本人が大学とリゾートを作っている」と友人が車を出してくれた。IT起業家の猪塚武さんが大事業を展開しているという。半信半疑で出かけた。
 首都プノンペンから車で約3時間。道路はほぼ整備され、かつてのように雨季は泥道でグチャグチャ、工事中で一方通行などということがなく、都市部の渋滞を避けて北に抜ける快適なドライブだった。国道を北に曲がって、キリロム高原へと一直線。バナナ畑と管理小屋がポツポツと見える殺風景な光景は20年前と変わらない。舗装された山道をあがり切り開いたばかりの赤土の大きな道を進むと、一戸建てが数件見えてきた。リゾート開発地らしい。しばらく行くと、林の中にキャンプ小屋が数件ある。その先に「キリロム・インスティチュート・オブ・テクノロジー(KIT)」との看板が見えるが、建物が聳えたっているわけではない。そしてその先に、独立した宿泊施設やオープンスペースのレストランが見えてきた。これが噂のリゾート「ヴィキリロム」。

 平日で客は誰もいない様子だが従業員は数人いて、タンドリーチキン用の大きな焼き窯がある。マネージャー風の人もインド人。メニューにはインド料理や日本料理が並ぶ。食事中、KIT所長の別宮健三郎さんがやってきた。友人が猪塚さんと懇意で到着を先方に伝えていたようだ。ラップトップを開けて別宮さんがキリロム開発について解説してくれる。1万ヘクタール、ヤンキースタジアム2000個分、山手線圏内に匹敵する広大な土地をカンボジア政府から無償で借り受け、教育、エコツーリズム、都市計画の事業を推進中という。KITは2014年に創設、数学とIQと英語の試験を経て25倍の倍率を勝ち抜いた生徒がカンボジア全土から集まっていて、18年からは日本人学生の受け入れも始めた。ITと英語とリーダーシップに力を入れ、午前は勉強、午後は支援企業とのプロジェクトを行っている。「若者だけでなく高齢者が暮らすCCRC(Counting Care Retirement Community)も設置した都市づくりを目指す」と壮大な構想を語る。「これぞ我が目的」とお返事するが、どれほどの資金力なのだろう。
 別宮さんの案内でKITへ。屋根しか見えなかったが階段を降りると、谷間のような形で、斜面を利用した教室がいくつか並んでいた。天井扇風機のもと、学生が学んでいる。教師陣はインド人。なるほど、だからタンドリー窯か。きれいな英語を話す学生がパワーポイントで現在取り組んでいるプロジェクトについて説明してくれた。学校の施設は簡易な印象だが、優秀そうな学生がラップトップ片手にせわしく行き交い、講義を受けたり議論したりしているさまは不思議な光景だった。200人もの学生が暮らす寮は森林のどこかにあるらしい。
 灼熱のカンボジアだが、キリロム高原は夜はぐっと冷え込む。ちょうど手にした無料誌「プノン」に、50年代半ばに日本からの大規模な移民計画があったことが記されていた。カンボジアが日本への戦後賠償請求を放棄したことへの感謝として、5万人もの農業移民を送りこみ「高原都市建設計画」があったというのだ。初めて知ったが、60年代に電気技師として駐在していた北川泰弘さん(故人)は「日本人会の別荘があってね。トッケイ(やもり)が大声で鳴いていたんだ」と話してくれたことがあった。また、ここにだけに松林があるのは、山田長政がシャム(現在のタイ)活躍した頃にカンボジアの日本人町にも100人ほど住んでいて「サムライが松を植えた」と話す人もいた。現首相の独裁や中国政府の大規模支援など、カンボジアの将来は不透明だが、果たして日本人に縁あるキリロム高原でリタイア生活を送れる日が来るのだろうか。 
(小味かおる、写真も)

アート通し内側を見るのが好き

アーティスト
桐谷 さえりさん

 アーティストの桐谷さえりさんの作品のメタファーは、常に「内」と「外」の関係だ。人生の中の「安定」と「混乱」という対照的な出来事を常に考慮している。表面的には安定している社会の裏側に焦点を当てたり、一般的には美しいと思われないもの、時にはグロテスクだと思われるような物、またはつまらないと思われるような物から美を追求することが好きなのだそうだ。
 幼児期に筋肉腫瘍の治療のため、2歳から4歳半くらいまで放射線治療を受けていたそうで、放射線は身体に悪いため、なるべく的を絞って当てないといけないということで、放射線治療の直前には局部を除き、放射線予防の帯のようなもので体をぐるぐる巻にされ、ベッドにベルトで固定され、放射時には息を止めなくてはならなかった。考えてみると、この頃の体験が桐谷さんのアートに対してのメタファーになっているのかも知れないと、今になって思うそうだ。
 アイデンティティーや人との関係をビデオを通して探究することは、彼女のアートにとって重要な要素。地下鉄、劇場などの一般的な場所や、ダイナミックな異文化が交わる数々の公共の場で一般の人々の興味を引き、その人々に問題を問いかけていくことが自分の役目だと思っているという。
 ニューヨークの地下鉄では、友人たちの協力参加を得て、ビニールや紙、アルミフォイルでぐるぐる巻にするラッピング・パフォーマンスを行ったり、100ポンドのお米を固めて作った等身大の自分の裸体像を彫刻として展示したり、白装束で髪も顔も真っ白にしてバスケットボールのパフォーマンスをしたり、シャボン玉のようなものがいっぱいついた白い空手着を着た桐谷さん自身のアバター(分身)を演じて人種差別や性差別、同性愛者差別といったさまざまな差別を嫌い、世の中に存在する不平等を相手に真っ向から戦うスーパーヒーローになったビデオ作品「シュワッチ・シリーズ」など奇抜な発想で見るものに常に新鮮な驚きを与え続けている。
 ワシントンDCのスミソニアン美術館ポートレートギャラリー(2013~14)でのグループ展、金沢21世紀美術館市民ギャラリー(2018年)、在オーストリア日本大使館カルチャーセンターでの個展でも好評を博している。 
 日本クラブ7階の日本ギャラリーで4月16日から22日まで、ビデオ・インスタレーション展覧会「国境を超えて/Far from Home)を開催する。(三浦良一記者、写真も)

歪められる真実 Just Mercy

再審請求の法廷に臨むブライアン(ジョーダン、左)とウォルター(フォックス、右)
Photo : Jake Giles Netter/Warner Bros. Entertainment Inc.

 司法における偏見、差別のゆがみ。死刑という極刑でさえも、事件の真相を追求することなく、いとも簡単に下される。貧困や人種差別にあえぐ人々が直面する不条理な現実を、実際にあった事柄に基づいて語るパワフルな作品だ。  
 えん罪の可能性がある受刑者の再審を支援するイコール・ジャスティス・イニシアティブの責任者でニューヨーク大学スクール・オブ・ロー教授ブライアン・スティーブンソンが実際に扱ったウォルター・マクミリアンのケースに焦点を当てる。原作はスティーブンソン弁護士の回顧録に基づいている。  
 公正な裁判を受けられない人々を救うために全力を尽くす若き弁護士ブライアンにマイケル・B・ジョーダン。「Fruitvale Station」(フルートベール駅、2013年)で注目され、「Creed」(クリード チャンプを継ぐ男、15年)で全米映画批評家協会賞で主演男優賞を受賞したトップクラスの若手黒人俳優だ。
 無実の罪で死刑宣告を受けるウォルターに「コラテラル」や「Ray/レイ」など演技力が評価されるジェイーミー・フォックス。ブライアンを支える人権擁護活動家エバに「ルーム」「キャプテン・マーベル」のブリー・ラーソン。脚本・監督は「The Glass Castle」(ガラスの城の約束)のデスティン・ダニエル・クレットン。  
 ブライアンは両親の影響やハーバード・ロー・スクール時代の体験からすでに自分の進む方向を決めていた。誰もが公平な裁きを受ける権利を持つための活動だ。南部を中心とする人権擁護組織に所属しアラバマ支部を開設後、彼が取り組んだケースが1987年のブライアンのケースだ。18歳の白人女性を殺した罪で死刑宣告を受けていたがブライアンが裁判記録を読む限り、有罪を確定する証拠はなにもない。   
 しかしブライアンの目に映る事実が司法上の事実として受け入れられる可能性は限りなくゼロに近かった。無力感、絶望感が怒りとなって胸に込みあげてくる。2時間16分。PG13。(明)

https://www.warnerbros.com/movies/just-mercy


■上映館■
Regal E-Walk Stadium 13 & RPX
247 W. 42nd St.
AMC Empire 25
234 West 42nd St.
AMC Loews 34th Street 14
312 W. 34th St.

トミー富田さん死去

日本とハーレム橋渡し

故・富田さん

 ハーレムと日本とを結ぶ文化の橋渡し役として活躍したトミー・富田さんが11日、ニューヨーク市内の病院で肺炎のため亡くなった。80歳だった。リュージュの日本代表選手として1972年の札幌オリンピックに出場。その後、東京六本木のジャズクラブ「バランタイン」のオーナーとなり阿川泰子ら多くのスターを誕生させた。85年ニューヨークへ渡り、「アポロ劇場」に平井堅らプロ・アマ問わず大勢の日本人を出演させている。ハーレムの黒人教会と創設した「ハーレム・ジャパニーズ・ゴスペル・クワイヤー」が2010年、全米最大級のゴスペル大会で優勝している。

ハーレムと日本結ぶ
トミー富田さん逝く

 ハーレムと日本とを結ぶ文化の橋渡し役として活躍したトミー・富田さんが11日ニューヨークの病院で亡くなった。80歳だった。学生時代より、父親の影響もありジャズに傾倒、FENを聴き育つ。大学卒業後、リュージュの選手として1972年の札幌オリンピックに出場。その後、東京六本木のジャズクラブ「バランタイン」の元オーナーとなり、同店からは、阿川泰子・マリーン・島田歌穂・マルタなど多くのスターが誕生した=1面に記事=。
 1985年ニューヨークへ渡り、雑誌、テレビ、ラジオを通してジャズ解説を行なう。その当時、ハーレムの地図・記事が無かった日本のニューヨークのガイド本「地球の歩き方」などに、1986年初めてハーレムの情報を紹介。日本から頻繁に訪ねてくる知人達に、ハーレムやジャズクラブを案内しているうち「ツアーをして欲しい」という沢山の声を受け、日本人として初めての「ハーレムツアー」を始める。また、黒人音楽の殿堂「アポロ劇場」のボードメンバーとして、「アマチュアナイト」に、平井堅、トータス松本、ディープタフ(ダンサー)、小林幸恵、嘉門達夫らプロ・アマ問わず大勢の日本人を出演させている。 
 地元で活躍するミュージシャン達と深い親交がありNYのミュージシャン・ダンサー・アーティスト達を日本へ紹介、数多くのコンサートも手がけている。ハーレム在住35年、ハーレム商工会議所の正式メンバーで、94年にはアジア人初の「ドクター・マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・エクセレントアワード」を受賞。
 著書に、『ハーレムスピークス(新宿書房)』『劇場都市NY読本(七賢出版)』があり、ジャズやハーレム関連の記事も多数執筆。
NYガイドブック「地球の歩き方」「わがまま歩き」「個人旅行」「地球小町」などにもコラム掲載。
 また、97年より、ハーレムの黒人教会と創設した「ハーレム・ジャパニーズ・ゴスペル・クワイヤー」が2010年6月、全米最大級のゴスペル大会に日本人として初出場、27年の大会史上初の日本人クワイヤー優勝となる。5年前からすべての業務をパートナーの松尾公子さんに引き継ぎ、リタイヤしていた。本紙「週刊NY生活」でも「ハーレムナウ」を一時連載執筆した。

ラ・ガーディア空港に電車計画

 クオモ・ニューヨーク州知事は、ラ・ガーディア空港とマンハッタンとを電車で結ぶエアトレイン計画を推進することをこのほど発表した。
 計画では現在80億ドルをかけて進めている拡張工事が2025年に完了したあとのプロジエクトとなる。空港と近隣の野球スタジアム、シティフィールドまでエアトレインを運行させることで最短距離でニューヨークの地下鉄網に接続することができる。しかしシティフィールドが空港よりも東側に位置するため、マンハッタンから一度空港を超えて、電車を乗り換え空港へ逆に戻ることになる。クオモ知事は「一般市民の住宅地を買収することなしに最も経済的にレールを敷設することができる最善の方法」と主張している。