怖い日本語 下重暁子 書評

違和感アルアル現代の日本語

下重暁子・著
ワニブックスPLUS新書・刊

 いま私は、この本をニューヨークで読んでいる。NYに暮らして40年、アメリカ生活は実に45年になる。なにしろ、アメリカに来た年が1980年なのだから、日本で使っていた言葉は昭和そのもの。その後、平成、令和に日本で生まれ出て現代までに市民権を得た新語、新しい言い回しは数えきれない。

 本書の表紙にある、「この日本語に『違和感』を感じませんか?」とある表現例、「ご注文のほうこちらでよろしかったでしょうか」「自分的にはそう思う」「みなさんに勇気を与えたい」「結婚させていただきました」「連休は家族でたのしめたのかな、と」「お答えする立場にはありません」「誤解を恐れずに言えば」・・・などどれも自分が日本にいた頃には使われていなかった表現だ。NHKに大学卒業後1960年に入局して10年間アナウンサーとして活躍し、その後、民放キャスターや作家としても活躍されている著者の下重暁子さんが感じる「美しくて怖い『日本語』の正体」について書いた本だ。

 本書では、「絆」への安易な依存と日本人の「個」の喪失、美しい言葉も無意味に使いすぎると劣化すること、「元気と勇気」は与えるものではないもの、「断言」を避ける言い方が多すぎる、過剰な日本語はかえって相手を不快にする、「自主規制」で言葉は貧しくなる、語彙はこうすれば楽しく増やせる、などの要点が実例を交えて解説されている。「マジでヤバイが一番ぴったりすることもある」の項目では、いまでは「飛び抜けて素晴らしい」表現として定着した言葉の語彙力の貧困さについて指摘する。いまから20年近く前、当時としてはまだ珍しかった使い方だったが、あるNYのレストランで日本から来た若い女性たちがテーブルの目の前で、料理を口にした途端「わ、やばい!」と声をあげた。私は「なんて乱暴な汚い言葉を使うんだろうこの人は」とその外見の美しさと発した言葉の落差とに、今風に言うならドン引きしてしまった自分がいた。いまなら「なに、この美味しさ、びーっくりするくらい美味しいんですけど」という意味だったわけで、言葉というのは時代と共にその居場所を見つけていくものなのだなとその後理解することになる。

 著者は仕事では、なんといってもNHKのアナウンサーなので、普段も日本語の手本、標準語の鏡みたいなイメージで見られるが、プライベートの時に仕事仲間との会話はかなりくだけていたと言う。要はTPO、場をわきまえて言葉を上手に使い分けることのできる語彙力を増やすことが現代にも求められていると訴えている。

 言葉は時代と共に変化するとは思うが、海外生活が長くなりすぎると、使う言葉も時代遅れになるようにも思う。人混みでぶつかりそうになったときに「おっとごめんよ」などと言おうものなら「なにそれ、江戸時代のテレビドラマみたい」などと笑われる。日本からの現代語は、新聞テレビ、インターネットに加えて、日本人学校や補習校で子供達が覚えてくる言い回しでなんとか時代を乗り越えてきたように思う。本のタイトルが『怖い日本語』だが、ここで使っている「怖い」は文字通り「恐ろしい」という意味でいいのかそれとももっと深読みできるニュアンスがあるのか少し様子を見てみたい。 (三浦)