103万円の壁で大論争、日本の財政規律を考える

 10月の総選挙の際に、野党である国民民主党は「手取りを増やす」政策を掲げて議席数を伸ばした。一方で与党の自民党と公明党は惨敗、少数与党に転落する中で第二次石破政権がスタートした。少数与党だから、一部の野党の支持がなければ予算も法案も通らないし、いつでも内閣不信任を突きつけられる。

 そこで石破総理は、国民民主党の主張する「手取り」の問題について、具体的に「103万円の壁」を引き上げるとして現在調整中である。この「103万円の壁」とは、パートやアルバイトで働く人たちの年収がこれを超えると所得税が発生し、学生などの場合は親の所得税の控除にも影響するという問題だ。つまりパートやアルバイトで働いていて、この「壁」を超えてしまうと本人または世帯全体の「手取り」は減ってしまう。この年収というのは、税務上の年度であるのでカレンダーイヤーである。人手の足りない歳末に、この「壁」に接近した若者が仕事をセーブせざるを得なくなるということは、本人にも回り回って経済全体としてもマイナスだ。これを見直そうというのである。

 けれども、この「壁」を引き上げるというのは、従来は取れていた税金が取れなくなるので、一種の減税になる。そこで、今は財源をどうするのかというのが切実な問題となっている。一部には「そんな減税をしたら、少子化対策予算の半分が吹っ飛んでしまう」とか、いやいや財源は国債でいいなどと様々な議論がある。防衛費増額の際もそうだったが、歳出増となる政策を進める際の財源を増税で補うのか、国債で調達するのかは、その都度大きな議論になる。そんな中で、最近は財務省ができるだけ国の借金を減らそうと動くと「ザイム真理教」などと世論から批判を浴びるようになってきた。

 考えてみれば、アメリカの場合は歳出をカットして「小さな政府」を実現して減税しようというのは共和党の党是である。一方で、理想的な政策を実施するには金がいるので増税も厭わない、いわゆる「大きな政府論」は民主党の方針だ。だから、この種の財政規律論議は、政治の対立軸の中で議論ができる。けれども、日本の場合は、右派には右派のバラマキがあり、左派には左派のバラマキがある。また、今回の「壁の撤廃」は、左右対立の色が薄く、かつ選挙の公約として信認を得てきているので、少数与党の石破政権はこれを無視できない。そんな中で、アメリカの左右対立の原因となっている、大きな政府か小さな政府論による財政規律かという選択が、まるで一般世論と財務省の論争のようになってきている。

 この問題だが、まるで財務省が頭の硬いエリート集団で、国民の苦しみを知らないかのような批判がされている。一方で、財務省の側は、中長期的には日本経済は苦境の度合いを深めるという現実的な悲観論に立って、国家の破綻を少しでも先へ繰り延べたいという、いわば国家を代表した国家の生存を背負っての苦悩を示しているかのようだ。

 日本は約1100兆円の国債残高がある。その一方で、この金額は2100兆円と言われる個人金融資産と相殺されている。だが、今後この国債残高が膨張し、個人金融資産が縮小するのであれば、やがて国際金融市場から資金調達をする必要が出てくる。その際には、現在でもG7中最悪と言われるGDP比2・6倍の国債残という状況から日本国債は極めて低い評価を受ける危険がある。その場合は、急激に金利が上昇し、一方で円が下落してハイパーインフレが加速すると、国家破綻は現実のものとなる。現在の日本は、IMF(国際通貨基金)への主要な資金提供国であり「大きすぎて潰せない」規模を有している。けれども、破綻に至る頃には、スケールが縮小していて、簡単に潰されるかもしれない。財務省を突き動かしている苦悩というのは、そのような危機感であると思われるが、これは全くもって正しい。

 けれども、政府がカネを回さなければ景気は冷えて、GDPの縮小は加速する。つまり、それは全か無かの両極端の選択ではない。気になるのは、今回の「年収の壁」とか「手取り」論議が、そのような国家の大計とは無関係の表層的な議論に終始していることだ。激動期に入った世界を生き抜くには、もっと柔軟でダイナミックな経営感覚が求められる。

(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)