宮城県民合唱団コロ・はせくら
NYからJCHともが合流
伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団がスペインに到着して410年目の節目の今年、宮城県民から参加希望者を募り「令和遣欧使節団2024」として10月16日から9日間スペイン・イタリアの慶長使節団の足跡を辿るツアーが開催された。2019年以来5年ぶりに日本人の血を引く末裔とされるハポンさんたちとの交流も深めた。さらに、新たに合唱団「コロ・はせくら」を結成し、使節団ゆかりの深いコリア・デル・リオ市とチビタベッキア市で現地の市民合唱団と合同演奏会を開いた。この「コロ・はせくら」にニューヨークの合唱団JCH「とも」が加わり、NYから一緒にツアーに参加した。4世紀の時の流れを超えて現代の令和遣欧使節団一行が見たものは何かー。 (写真・マウリシオ・ラミレス)
(写真上)コリア支倉像の前で
日本人の血が流れる私たちにとっては、不思議な縁を感じる魅力的な町がある。スペインの南部、アンダルシア地方にあるセビリアの郊外、コリア・デル・リオだ。
今から410年前、1614年10月「日本初の外交官」と呼ばれる支倉常長率いる使節が、この村に上陸。税関のような役割を果たしていたこの村からセビリア・マドリッドを目指し、最終的にはローマ法王に謁見するという道のりを辿ったのだ。奥州王伊達政宗の命を受けての慶長遣欧使節団だったが、結局は日本との通商条約を結ぶことなく、失意のうちに支倉常長は日本に戻っていった。しかし、この使節団の何人かは、コリア・デル・リオに留まり、村の女性との間に子供が生まれたと言われている。それ以来、苗字が「ハポン(日本)」という人が出てきたというのだ。
それを裏付けるかのようにこの町の教会のカトリックの洗礼台帳にも1646年にはハポンさんが洗礼を受けた記録がある。今ではこの町だけでも700人近くがハポンという苗字を持っている。 この町に今年10月、支倉常長から14代目にあたる支倉正隆さんを団長に、この町に日本から令和遣欧使節団がやってくるという。この使節団を企画したニューヨーク在住の白田正樹氏から話を聞いてこれは参加するしかないと同行を決めた。
そして、驚いた。この旅は単なる観光旅行ではなく、一部で言われている410年前の慶長遣欧使節はスペインとの通商交渉を結べなかったから「失敗だった」との見方を、少なくとも私の中では大きく覆す旅となったからだ。
その瞬間は、幾度となくやってきた。
後方の天井には着物を着た聖母マリア(写真上左)と支倉常長(同右)の壁画が描かれている
まず、コリア・デル・リオでは、この旅のために宮城県で結成された「コロ・はせくら」(団長:川上直哉)という合唱団とニューヨークから参加した「合唱団JCHとも」(団長:阿部友子)が、現地の複数の合唱団とともにコンサートを開き、支倉正隆さんは、祖先の常長がローマ法王に謁見するときに纏った着物と袴を思わせる衣装で登場。ハポンさんたちを始め、町から集まった観客は大喜び。司会をつとめた私は、その様子を舞台裏で見ながら、410年後に、これだけ盛り上がる国際交流を目の当たりにして、慶長遣欧使節がこの町に残した縁は今も脈々と続いていると実感したのだった。
令和遣欧使節は、その後イタリアへ。正隆さんにとっては初めてのイタリア。自分の祖先の足取りを辿るべく、支倉常長がローマを目指して上陸したチビッタベキアという港町まで足を延ばした。
この町で、令和遣欧使節団は、チビッタベキア市長を始め、議会議員が勢揃いした市庁舎に招かれた。そこには、コリア・デル・リオの市長の姿もあった。支倉常長が結びつけた2つの町の市長が目の前で演説をしている。「各地で戦争が続く今だからこそ、こういった国際交流こそ大事なのだ」その発言を聞いた瞬間、思わず涙が溢れ出た。「やっぱり慶長遣欧使節は失敗じゃなかった。410年後、こんな素晴らしい瞬間が生まれたのだから」そう思うと涙が止まらなかった。正隆さんを始め団員たちも目を赤くしていた。
この高ぶる思いのなか、日本人画家が壁画を書いた日本聖殉教者教会で、この夜コンサートが開かれた。着物姿の聖母マリア様が見守るなか、「コロ・はせくら」と「JCHとも」が当時のスペインの大作曲家ヴィクトリアの「アベマリア」を熱唱した。歌声が響くなか、私の目は、マリア様イエス様から、壁画に書かれた支倉常長の姿、そして、それを見つめる正隆さんへと移って行った。常長さんと正隆さん、410年の時空が超えた瞬間だった。
最終日、正隆さんは、語った。「14代ということでいろいろな場所で講演します。他の侍の子孫が、過去を振り返って話す時、私はあえて、今そして未来に向けての話をするのです」
この瞬間、私にとって、支倉常長は日本史の教科書の1ページに出てくる遠い昔の侍ではなく、この目の前にいる正隆さんの祖先で、このつながりはこれからも続いていくのだと実感した。歴史は教科書の中から飛び出して私の目の前で現実として動いていた。そして未来に向けて、支倉常長に縁がある世界の町が繋がって行ったらどんなにいいだろうと410年前の侍たちの描いた夢が、今、私の夢となった。(我謝京子、ドキュメンタリー映画監督、壁画写真も)
辿る夢から叶える夢へ
支倉都市同盟構想実現に向けて
「日本の歴史上最初の外交使節を知っていますか?」と自称「歴史通」に聞いてみる。「咸臨丸で渡米した勝海舟一行ではないか」とか「明治維新後に欧米に派遣された岩倉使節団だろう」という答えが返ってくる。私はシタリ顔で答える。「クラはクラでも岩倉ではなく支倉(はせくら)使節団ですよ。岩倉使節より約260年も前の話です」と。相手は大抵ここで引っ込むが、中には「でもあれは結局失敗したんだろう?」と食い下がってくる「通」もいる。そこで私は切り返す。「派遣した政宗の真の目的が謎なのにどうして失敗と決めつけられますか? ハポン姓を名乗る末裔たちを知っていますか?」と。
かように慶長遣欧使節は世間には知られていない。一言も書かれていない歴史の教科書さえある。宮城県生まれの私としては心外な話だ。歴史上最も過小評価されている事実の一つではないか、と怒りさえ覚える。
スペインの人口3万人の町コリア・デル・リオには、32年前に宮城県が寄贈した支倉常長像がある。そこに住むハポンさん達との交流が始まったのは大震災の翌年の2012年だ。ハポンさん達が支倉像の前に集まって、仙台・石巻の復興を願う俳句を詠んだというニュースを聞き、居ても立っても居られない気持ちになったからだ。それから毎年のように合唱コンサート、サッカー大会、俳句交流会などの文化交流が始まった。コリア・デル・リオ、セビリア、コルドバ、トレド、マドリッド、バルセロナ、ローマそしてチビタベッキアなど何度も足を運んだ。政宗と常長の夢とロマンを辿る旅だった。
パンデミックが落ち着き、今年交流の再開を決意した時私の気持ちは変わっていた。これからは夢を追いかけるのではなく実現させる旅にしようと。そうして企画したのが「令和遣欧使節団2024」である。
宮城県で生まれ育った県民を対象に募集した。県民からなる合唱団「コロ・はせくら」も新たに組織した。ニューヨークの合唱団JCH「とも」にも加わってもらった。故郷の生んだ偉人たちに畏敬の念を持つ県民達と長い交流を通じてハポンさん達と心を通わせてきた合唱団員のユニークな混合チームである。団長は支倉常長家の第14代当主の正隆氏。さらには支倉本家の末裔のお二人、支倉紀正さん、神田常美さんも加わった。総勢約50名の豪華な顔ぶれである。普通の観光コースでは行けない支倉所縁の場所を廻ってきた。政宗直筆の親書も見ることができた。実は、使節団には宮城県議会議員と仙台市議会議員も加わった。コリア市長のモデスト・ゴンザレス氏が描く「支倉都市同盟(仮)」を進めるためである。常長らが辿った世界の各都市と日本の常長所縁の都市で、経済・文化・スポーツ・教育・観光などの分野で連携を深めていこうという大構想である。アンダルシア州議会議員、セビリア県議会議員、セビリア市副市長、チビタベッキア市長らとの会談が実現した。皆熱心に話を聞いてくれた。どこからも異論は出なかった。それどころかとても前向きだった。 410年前の「夢」が、今現実のものとして歩み始めた! 身が震える思いでローマを後にした。(白田正樹、ハポン・ハセクラ後援会会長)