何をやっても怒られません

和田秀樹・著

青春新書・刊

 日本は、会社勤めの勤労者なら、60歳という一般的な定年制度があり、その後5年間は、同じ会社の名刺を使いながら、役職が取れた配置転換などの中で「元は私◯◯にいまして」という前置詞がついての名刺交換になり、対外的には大手企業社員であった本人と家族のプライドが保たれ、会社は人件費を安く抑えることができる。双方のニーズがうまく合致したいかにも日本的なウィンウィンなシステムだが、定年前に役職のない人の場合は結局、「そのまま同じ仕事をしていて給料が半分になった」という「残念」な気持ちを抱くことも少なくないようだし、元部下が上司となって主従逆転するシステムもなんだかストレスが溜まりそうだ。

 そんな中でも、定年退職したら、夫婦で世界一周の海外旅行に行きたいとか、若い頃に乗りたかったけれど乗れなかった大型バイクの免許を取得して日本全国気ままなツーリングに行きたいとか、趣味の釣りやゴルフを存分に楽しみたいとか、憧れだったポルシェを買いたいとか夢のような希望は、誰でも心の中でうっすらとは持っている。

 アメリカに住んでいる本紙の読者は、転勤で3、4年一時滞在している駐在員や似たようなカテゴリーの企業派遣留学生は別として、大体が永住者か米国籍を取得した日本語が分かる元日本人ということになるので、日本の定年制度は関係ない。そもそもアメリカには定年制度がないので、勤め人は年齢による解雇、差別ははなから受けないので、「老後の楽しみ」という概念が日本とは少し異なるのではないだろうか。

 米国では、66歳と半年が過ぎれば、長年働いて税金さえ払っていれば、積み立ててきたソーシャル・セキュリティー(米国年金)が正確に毎月銀行に振り込まれ、勤労者のシニアライフは、経済的には案外と恵まれていて、リタイアメントも漠然とした老後であり、日本のように「はい今日から会社勤めは終わり、長年ご苦労様でした」というような環境にはない。本書は、当たり前の話だが、日本にいる日本人を読者対象に長年高齢者精神医療に携わってきた和田秀樹さんが書いた本で、以前に『どうせ死ぬんだから』(SBクリエイティブ・刊)でも似たような書評を書いた覚えがあるが、どうせ死ぬという突き放した極限の意識を持たないまでも、要は「やりたいことがあったら、後回しにせずに、50代のうちにその準備をして定年退職後に備えなさい」という内容の本だ。

 人生100年と言われ、周りを見渡せば、若々しいご年配の人たちが多い。アメリカで長く生活していると、リタイアメントの線引きがはっきりしていないだけに「気がついたら60超えてるわ」、「およよ、もうすぐ70だわ」「うーん実は80代なの」という人がゴロゴロいる。人間は天邪鬼な生き物なので、希望が叶うことになった瞬間に、その希望は輝きを失うことがままある。ポルシェに乗りたいという夢が叶うお金を手にした瞬間に「今買わなくてもいいか、それより」となることがあり関係のないことに使ってしまったりする。なので、配偶者から怒られているうちが「華」と思って、またお一人様人生の人は心おきなく、好き勝手に生きることが、健康にもプラスだというようなことが書かれている。(三浦)