見つかった1枚の写真
松方幸次郎の青春
1988年にラトガース大は松方幸次郎就学100年記念行事を行ったが、その年の春に大学図書館資料室から当時の松方の学生時代の生活ぶりを偲ばせる一枚の写真が見つかっている。フットボールチームの一員として1889年卒業組のユニフォームに納まった弱冠20歳の幸次郎青年。その瞳には、日本の近代化と共に歩み出す彼の大志がしっかりと刻み込まれているように見える。
今から150年以上も前になぜ、この大学にこぞって日本人留学生が集中したのか。その問いに答える学術的研究はなされていないが、明治以前から長崎にいた米国人宣教師で、英語教師もしていたオランダ修正派教会から派遣されていたフルベツキの手引きがあったからという推測ができる。1853年のペリー提督の来港以来、幕府の日本人海外渡航禁止令は有名無実となり、大志を抱いた若者が続々と西欧文化の取得に海を渡った。幕府自身も1862年ごろからオランダ、イギリス、フランス、ロシアに留学生を送り出している。新島譲は1864年に函館から単身渡米し、マサチューセッツ州アムハースト大に入学、その前年には長州藩が伊藤博文、井上馨らをイギリスに送り出し、薩摩は65年に森有礼ら15人を船出させている。
そのような時代に来日した60人を超えるラトガース大卒業生の「お雇い外国人」教師や宣教師たちが日本の近代化に果たした役割は、欧米の他の大学に比して劣らぬものであったと言えよう。 (三浦良一記者)
帰国後、日本の礎に
NJ州ラトガース大学
日下部太郎永眠す
ラトガース大学は、オランダ修正教会を母体とする学校を前身として1866年に創立された州立大学。ストレプトマイシンを発見したS・A・ワックスマンを輩出するなど、化学、農学、科学技術分野に突出した業績を持つニュージャージー州最大の総合大学だ。この大学がある町、ニューブランズウイックに近代日本の黎明(れいめい)期にあたる慶応3年から明治30年までの30年あまりの間に、300人近くもの日本人留学生が学んだことを知る者は多くない。
当時この大学に学んだ日本人留学生の多くは、幕末の壮士、政治家、知識人とその子息たちで、帰国後、科学技術、政治、教育、ビジネスの分野で日本の近代化に大きな足跡を残している。また、同時期にラトガース大学卒業生で日本へ行った「お雇い外国人」教師や宣教師も60人に上る。日本人留学生を相次いで受け入れた最初の米大学。ラトガースの創世期をつづる歴史の1ページを開くと、そこに日米関係の原点が鮮明によみがえる。
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慶応3年(1867年)にラトガース大学に入学した日本人最初の官費留学生、日下部太郎=写真右=のパスポート番号は第4号。日本からの正式な海外渡航者の4人目、当時の奨学金として年間600ドルが支給された。当時の同大学の年間学費は45ドルから60ドルだった。
越前福井藩士の日下部は、同大を3年間でしかも首席で終えたが、卒業の1か月前に結核のため、この地で死んだ。享年26歳の若さだった。しかし成績が優秀だったため、正式に卒業が認められ、米国最高の学称ファイ・ベータ・カッパの称号と金のカギを受けている。
大学キャンパスから学生街を抜けた一角の共同墓地、ウイローブ墓地の片隅に、日下部ら日本人留学生の墓がある。並ぶ7本の墓石に、長谷川鍛郎(23)、小幡茶三郎(29)、阪谷達郎、川崎新二郎(21)、入江音次郎、松方蘇介(22)の名がいずれもかすかに読み取れる。松方蘇介は、後の1884年に渡米して同大に学び、帰国後初代川崎造船社長となる松方幸次郎の実兄でもある。
同大図書館に保存されている1958年1月11日付の地元紙、ザ・デイリー・ホーム・ニューズが「明治初期の日本人留学生の墓が23年間も倒れたまま、荒地に放置されている」と報じるまで、在米邦人はこの墓の存在を知らなかった。この記事を読んだニューヨーク日系人会(JAA)の代表が、当時のポール市長にかけあい、修復工事を依頼、市長は、ヘルスケア大手のジョンソン&ジョンソンのジョージ・スミス社長に修復のための工事費、200ドルを懇願、墓石修復を行ったという。しかし1977年にこれらの墓石が再び将棋倒しのように倒れ、日下部の故郷、福井市の市長が来米して修復、現在に至っている。
同大に学んだ日本人留学生には、1872年に特命全権大使として来米した岩倉具視の子息3人もおり、帰国後、宮内庁や外務省の要職に就いたほか、岩倉の通訳として来米し、帰国後も政府の要職を歴任した畠山茂成や、県知事や東京大学の前身、東京開成学校予備門長を歴任した服部一三、大蔵書記官となった吉田清成、川崎造船の初代社長で日本の実業界のリーダーとなり、膨大な美術収集・松方コレクションで知られる松方幸次郎らがいる。
さらに明治維新の立役者の一人、勝海舟の子息、勝小鹿もここに学び、その小鹿の従者として渡米した富田鉄之助と高木三郎もともに同大に在籍、明治5年にできたニューヨーク領事館の副領事と領事を務めている。富田は留学生のまま副領事を4年間務め、帰国後の明治21年から1年間、二代目の日銀総裁に就いている。高木は、初代のニューヨーク総領事となり、離官後ニューヨークにそのまま留まる。製糸の輸入業を営み、日米貿易の先駆者として活躍した。
日下部太郎らの墓と共に「1877年没、タカギ・サブロウ・スマ夫妻の幼女」と記された小さな墓は、この高木の亡くなった幼女の墓で、外地で娘を一人にせず、せめてともに志を同じくした同胞とともに眠らせようと、高木三郎夫妻がこの地に埋葬したのだと大学関係者が説明してくれた。
(写真)松方幸次郎の部活 1889年卒業組のフットボール・ユニフォームに身を包んだ弱冠20歳の松方幸次郎(前列右から2人目)。子供の頃、木から落ちて足が不自由だった松方が入部したのはフットボール部。「生きた英語を学ぶにはフットボールが一番と考えたのかもしれません」と写真を発見した図書館のミーチさんは話す。(大学図書館所蔵写真)