昭和の日本最大のプロデューサーレコード時代駆け抜けた石坂敬一

小田裕一郎の音ネタ日記81


前回の「ポールマッカートニー」に続き、日本でビートルズの担当ディレクターだった石坂敬一さんをご紹介いたします。
1945年8月25日生まれ。 残念なことに2016年12月31日に他界されました。祖父母双方の従兄弟に、戦後を立て直した第二代経済団体連合会会長、石坂泰三氏がいます。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ピンク・フロイド、ボブ・マーリーなどを担当し、当時は憧れの花形ディレクターとして活躍されました。その後はプロデューサーとなられますが、その石坂氏が、私が26歳の時マネージャーを買って出てくれたおかげで、今の私が存在しているのです。私がまだ十代の頃、自作の音楽を録音したカセットテープを、聴いてもらえるまで石坂さんのところへ持って行き続けたのです。とても長い道のりでしたが、最終的に認めていただけて、私の出世作となった「アメリカン・フィーリング」(今週の45回転の名盤=27面掲載)も石坂さんのマネージメントです。
写真は在りし日の石坂さんとホテルオークラにて。今でもジェントルフェイスは、雲の上から私をずーっと見守ってくれているように感じます。石坂さんはウイングスがアメリカ横断コンサートツアーをしている折、ロサンゼルスに私を同行させてくれました。そのことも私の音楽人生に大きな影響を与えています。もう一枚の写真は、ポール・マッカートニーのオーストラリアでのコンサートの時のスナップ写真です。若き頃のピーター・バラカンさんもいますね(右端)。石坂さんもおヒゲにサングラス、カッコイイです(右から2番目)。
今年の3〜4月にかけて、私自身のコンサートツアーで日本へ行った際、ご家族とお会いし、息子さんが経営している白金台のお店で石坂敬一さんのお別れ会をしました。奥様の敏子さんとも、故人を偲んで懐かしい話ができ、ずっと変わらず家族ぐるみのお付き合いをさせていただけることに感無量になりました。石坂さんとの数々の出来事を思い出す度、今も私の胸は熱くなります。石坂さんと私とフィル・コリンズと三人で、自宅スタジオの話で盛り上がり、とても楽しい時間を過ごしたことも、忘れられない想い出の一つです。
石坂さんは、素晴らしい音楽が世に溢れていたレコード時代を駆け抜けた人。素晴らしい楽曲、そして新しいジャンルを日本の人たちに伝えていきたいとの思いで尽力された方です。昭和の日本最大のプロデューサーと言えるでしょう。ユニバーサルミュージック会長、日本レコード協会会長などを長年にわたり務められ、日本の音楽界を支えて来られました。石坂さん亡き後、その役割を受け継ぐべくこれからも活動して行きたいと私は思います。 石坂さん、優しさと厳しさを教えてくれてありがとう! 心より御冥福をお祈りいたします。 裏話=石坂さんはディレクターになる前にビジュアル系バンドでベースを担当していました。なんと化粧もしていたそうです。みなさん、想像つきますか?
(おことわり=この原稿は、筆者の小田裕一郎さんが9月に亡くなる直前に本紙編集部に送られた最後の書き下ろし原稿となります。御遺族の了解を得て掲載いたします。小田さんの御冥福をお祈りし、同コラムの長年のご愛読を読者の皆様に感謝いたします。編集部)