旧日本軍も原爆研究

理研に「ニ号作戦」

 米国により広島・長崎に原爆を落とされた被爆国日本だが、日本も戦時中、原爆開発を進めていた。

 1938年、ドイツ人のオットー・ハーンらが原子核分裂を発見。分裂反応による巨大なエネルギーで人類がかつて見たことのない強力な兵器を作ることができると睨んだ米国、イギリス、ドイツは近づく大戦を前に原子爆弾の研究に取り掛かる。

 日本もこの動きを見逃すことなく陸軍と海軍それぞれが原子爆弾研究に取り掛かる。陸軍は1939年4月に陸軍航空技術研究所の安田武雄所長が理化学研究所(理研)の仁科芳雄教授に原爆の研究・開発を持ちかける。世界で2番目となる原子核の研究装置である円形加速器「サイクロトロン」を1937年に完成させた仁科だったが、20億ドルもの研究資金を注ぎ込んでいる米国ですら原爆開発は難しいと思われるのに45億円ほどの日本は使えるウランもないことから不可能と断る。

 しかし戦局が悪化した陸軍は1943年、起死回生策として原爆に望みを託し再三に渡り打診、仁科は原爆開発を受諾する。研究班には後にノーベル賞を受賞をする湯川秀樹や朝永振一郎がおり、研究を断れば彼らも戦地に送られる可能性があった。仁科の名から「ニ号作戦」と名付けられた。

 一方の海軍は1942年に核物理応用研究会を発足させ京都帝大(現京都大)の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託したが「米国でも今度の戦争中の原子爆弾実現は困難」との結論を出し、1943年に断念。

 ニ号作戦も完成することなく敗戦を迎える。連合国軍総司令部(GHQ)は理研や京都帝大などを捜索し「原爆の開発につながる」とサイクロトロンを破壊。研究資料もほとんど持ち去った。仁科と荒勝は広島・長崎に落とされた原爆の威力を知ることになる。ニ号作戦にもF研究にも携わった湯川秀樹は戦後、核兵器廃絶を強く訴え続けた。

 故エドウィン・O・ライシャワー元駐日米国大使は後年「核兵器開発は、戦時中どこの国も進めていて、最初に完成させた国がまず最初に使うだろうと思われていた」と語っている。

(写真)戦後間もなくGHQによって東京湾に投棄された日本のサイクロトロン