乳腺外科医の世界的権威、ロイ芦刈さん死去

 乳腺外科医の世界的権威、芦刈宏之ロイ医学博士が6月12日夜、ケンダル・オン・ハドソンで死去した。91歳だった。芦刈氏は1931年、当時日本が占領していた中国の大連で生まれ、第二次世界大戦後、家族と大分に帰国し、慶應義塾大学医学部に入学。卒業後、米国に移住し、ブロンクスのフォーダム病院でインターンとして働き、そこで最初の妻と出会って家庭を築き、2人の子供に恵まれた。その後、マウント・サイナイで外科研修医を修了し、メモリアル・スローン・ケタリングで外科腫瘍学フェローシップを修了。80年にメモリアル・スローン・ケタリングを退職し、ウエストチェスター郡で最初の外科腫瘍学サービスを立ち上げた。ニューヨーク州バルハラにあるニューヨーク医科大学で外科教授を務め、83年に芦刈乳腺外科センターを設立。ウエストチェスター郡全域の患者を診て最終的に84歳で引退した。80年代初頭に日米医学生交流プログラムを立ち上げ、何百人もの日米医学生を教育し、現在も継続している。2002年、日本政府より勲三等瑞宝章を受章している。葬儀は6月24日、ニューヨーク州プレザントビルのビーチャー・フロークス葬儀場にてしめやかに行われた。

ロイ芦刈さん逝く

NY日系社会にも貢献

 乳がん医療の世界的権威ロイ芦刈さんの葬儀が6月24日、ニューヨーク州プレザントビルのビーチャー・フロークス葬儀場にてしめやかに行われた(1面に記事)。次男で喪主のアンドリュー・芦刈氏が弔辞を述べ、慶應義塾ニューヨーク学院を代表して巽孝之学院長からの弔辞をディーンのエドワード・コンソラティ氏が代読した。芦刈家の遺族の希望で、供花は慶應NY学院へ寄付してほしいというアナウンスがあり、同学院では芦刈記念奨学金(https://www.keio.edu/giving)を設立することになった。

 葬儀には佐藤貢司NY日系人会(JAA)会長、スーザン大沼JAA名誉会長、本間俊一JAA副会長/日本人医師会元会長ら100人余りが列席した。会場には芦刈氏の外科医としての多くの功績を示す資料や子供時代から今までの写真が飾られた。  

 JAAの資料「日系人会の顔」(第34回、2001年6月7日号)によると、芦刈氏は、1931年中国大連で生まれ、敗戦と同時に、家族と引き上げ船で佐世保に帰国した。大分で1年を過ごした後上京、慶應大学医学部を卒業後の1958年、26歳で「海外医科卒生交換研修制度」で渡米した。米国留学を決めたのは、当時の強いアメリカへの憧れと、父親も早稲田大学卒業後米国に留学し、親しみもあったことや、母が亡くなり父は出家、兄妹も独立し、一人になったことから軽い気持ちで決めた。NYに到着したその日から、市立フォーダム病院でインターンレジデントとしての生活がスタート、何もわからない中、隔日当直の週120時間勤務で週給125ドルという厳しい研修が続いた。この頃、同氏が後にがん医療の道に進むきっかけとなった亡妻のジュディさんと出会った。1年の交際後結婚、より高い医療技術を求めてマウント・サイナイ医科大学に移り、研修期間が終わりアテンディングになった時、ジュディさんのがんが発見された。レジデントで外科を選択していた芦刈さんは、がんを専攻しようと「メモリアル・スローンケタリング・がんセンター」に応募、採用された。しかし、ジュディさんは氏の献身的な看病と治療もかいなく27歳の若さで、2人の男の子を残して亡くなった。

 この頃、病院で乳がん治療の世界的権威を持つ医師が病院を移ることになり、その後を継いでほしいと請われ、脾臓・肝臓がんの研究・治療を目指していた芦刈さんは迷った末に応じた。その後の活躍は目ざましく、手術が早くて術後がきれいということで「スピーディー・ゴンザレス」と敬意を込めて異名されたその手腕をいかんなく発揮、ロックフェラー副大統領夫人を始め、数多くの著名人の執刀・治療に携わってきた。80年に外科教授兼主任としてNY医科大学に転任、年間500回を超える手術を行った。米国での治療方法、がんに対する啓蒙運動、社会と患者が助け合う精神など手本とすべきものを、過去、日本の学会や大学で精力的に講演、日本医学界に大きな影響を与えた。また、交換医学留学生制度の創設や、日系医学生への奨学金など、後進の育成にも取り組んできた。日本政府から勲三等瑞宝章を受章。芦刈さんは常々学生に「自分のお母さんを治療するような気持ちで、患者さんに接し、そして信頼される医師になりなさい」と言っていたそうだ。

 当時本人にインタビューしてこの記録を書いたNY日系人会の野田美知代事務局長は「当時すでに、名医で有名でしたが、日本人コミュニティーのドクターとして貢献されていました。先生は紳士的で、慶應ボーイで、背も高く、日本人の誇りを感じました」と話している。