海を渡った若獅子たち

幕末に渡米した日本人留学生
ラトガース大学で150周年記念会議

 ニュージャージー州のラトガース大学で5日(金)午後7時から、「ラトガース大学、日本との出会い」と題するオンライン会議が開催された。同大学に明治時代初期、日本人留学生が大挙留学して150年になることを記念するもの。同大は、オランダ修正教会を母体とする学校を前身として1866年に創立された州立大学。ストレプトマイシンを発見したS・A・ワックスマンを輩出するなど、化学、農学、科学技術分野に突出した業績を持つニュージャージー州最大の総合大学だ。

 この大学に近代日本の黎明(れいめい)期にあたる慶応3年から明治30年までの30年あまりの間に、300人近くもの日本人留学生が学んだ。

 当時この大学に学んだ日本人留学生の多くは、幕末の壮士、政治家、知識人とその子息たちで、帰国後、科学技術、政治、教育、ビジネスの分野で日本の近代化に大きな足跡を残している。

 慶応3年(1867年)にラトガース大学に入学した日本人最初の官費留学生、日下部太郎=写真右=のパスポート番号は第4号。日本からの正式な海外渡航者の4人目、当時の奨学金として年間600ドルが支給された。当時の同大学の年間学費は45ドルから60ドルだった。

 越前福井藩士の日下部は、同大を3年間でしかも首席で終えたが、卒業の1か月前に結核のため、この地で死んだ。享年26歳の若さだった。しかし成績が優秀だったため、正式に卒業が認められ、米国最高の学称ファイ・ベータ・カッパの称号と金のカギを受けている。 

日米交流の原点
ラトガース大と日本人留学生

 ラトガースは全米でも最も早く日本人留学生を受け入れた大学の一つで、1867年に福井藩士の日下部太郎がラトガース大の外国人留学生第一号として入学しました。日下部は残念ながら、卒業間際の1870年にニューブランズウィックで結核のため亡くなりましたが、同じ年に彼の先輩であり友人でもあったウイリアム・E・グリフィス(William E. Griffis)が福井に招かれ、3年半の日本滞在中、福井と現在の東京大学の前身である大学南校・開成学校で教鞭を取りました。また帰国後は『Mikado’s Empire 』を初め多くの論文や本を書き、アメリカの人々に日本を紹介しました。1870年代のラトガースは、日本人留学生を多く受け入れており、留学生の中には岩倉具視や勝海舟の子息、開成学校初代校長の畠山義成、元海援隊士の白峰駿馬などが名を連ねていました。また、1872年の岩倉使節団訪米の際にはラトガース大学教授のダビッド・モルレー (David Murray)の学監としての招聘が決まり、モルレーは1873年から78年まで文部省の顧問として日本の教育の近代化に大きく貢献しました。2020年がちょうど1870年から150年の節目となることからラトガース大学では、日本との友好関係を記念したシンポジウムを企画いたしました。アメリカ・カナダ・日本の大学から専門家をお招きし、19世紀後半におけるラトガースと日本との交流をお雇い外国人、日本人留学生、宣教師の三つの視点からお話いただきます。

  日本では知名度の低いラトガース大学といたしましては、この機会に当大学が日本の近代化に果たした役割をより多くの方達に知っていただきたいと思っています。また、ラトガース大学にはウイリアム・E・グリフィス・コレクション(William E. Griffis Collection)や付属のツィンメリー美術館(Zimmerli Art Museum)に多くの幕末・明治期の貴重な資料があることも、この学会を機に知っていただき、多くの研究者に活用していただきたいと考えています。

 幕末・明治初期にアメリカから日本に渡った宣教師やお雇い外国人、そして日本からニューブランズウィックのラトガース大学や付属のグラマースクールに留学した日本人を通して、当時の日本の近代化の一翼を担った若き日本人留学生たちの志、彼らと深い信頼と友情で結ばれたラトガース大学の教員や同級生、そして彼らを支えたオランダ改革派教会やニューブランウィックの人々に思いを馳せるとともに、今後の日米交流の形を考える機会となることを期待しています。

(若林晴子/ラトガース大学アジア言語文化学科助教授)

ラトガース大学の日米交流150年
米国に学び近代日本支える

W.E.グリフィス

 今から150年以上も前になぜ、ラトガース大学にこぞって日本人留学生が集中したのか。その数は300人余りに上る。その問いに答える学術的研究はなされていないが、明治以前から長崎にいた米国人宣教師で、英語教師もしていたオランダ修正派教会から派遣されていたフルベツキの手引きがあったからという説がある。1853年のペリー提督の来港以来、幕府の日本人海外渡航禁止令は有名無実となり、大志を抱いた若者が続々と西欧文化の取得に海を渡った。幕府自身も1862年ごろからオランダ、イギリス、フランス、ロシアに留学生を送り出している。新島譲は1864年に函館から単身渡米し、マサチューセッツ州アムハースト大に入学、その前年には長州藩が伊藤博文、井上馨らをイギリスに送り出し、薩摩は65年に森有礼ら15人を船出させている。同大のウイリアム・E・グリフィス(William E. Griffis)が福井に招かれ、3年半の日本滞在中、福井と現在の東京大学の前身である大学南校・開成学校で教鞭を取っている。 

 そのような時代に来日した60人を超えるラトガース大卒業生の「お雇い外国人」教師や宣教師たちが日本の近代化に果たした役割は、欧米の他の大学に比して劣らぬものであった。

 越前福井藩士の日下部は、同大を3年間でしかも首席で終えたが、卒業の1か月前に結核のため、この地で死んだ。大学キャンパスから学生街を抜けた一角の共同墓地、ウイローブ墓地の片隅に、日下部ら日本人留学生の墓がある。並ぶ7本の墓石に、長谷川鍛郎(23)、小幡甚三郎(29)、阪谷達郎、川崎新二郎(21)、入江音次郎、松方蘇介(22)の名がいずれもかすかに読み取れる。松方蘇介は、後の1884年に渡米して同大に学び、帰国後初代川崎造船社長となる松方幸次郎の実兄でもある。

 同大図書館に保存されている1958年1月11日付の地元紙、ザ・デイリー・ホーム・ニューズが「明治初期の日本人留学生の墓が23年間も倒れたまま、荒地に放置されている」と報じるまで、在米邦人はこの墓の存在を知らなかった。この記事を読んだニューヨーク日系人会(JAA)の代表が、当時のポール市長にかけあい、修復工事を依頼、市長は、ヘルスケア大手のジョンソン&ジョンソンのジョージ・スミス社長に修復のための工事費、200ドルを懇願、墓石修復を行ったという。しかし1977年にこれらの墓石が再び将棋倒しのように倒れ、日下部の故郷、福井市市長が来米して修復、現在に至っている。

 同大に学んだ日本人留学生には、1872年に特命全権大使として来米した岩倉具視の子息3人もおり、帰国後、宮内庁や外務省の要職に就いたほか、岩倉の通訳として来米し、帰国後も政府の要職を歴任した畠山茂成や、県知事や東京大学の前身、東京開成学校予備門長を歴任した服部一三、大蔵書記官となった吉田清成、川崎造船の初代社長で日本の実業界のリーダーとなり、膨大な美術収集・松方コレクションで知られる松方幸次郎らがいる。

 さらに明治維新の立役者の一人、勝海舟の子息、勝小鹿もここに学び、その小鹿の従者として渡米した富田鉄之助と高木三郎もともに同大に在籍、明治5年にできたニューヨーク領事館の副領事と領事を務めている。富田は留学生のまま副領事を4年間務め、帰国後の明治21年から1年間、二代目の日銀総裁に就いている。高木は、初代のニューヨーク総領事となり、離官後ニューヨークにそのまま留まる。製糸の輸入業を営み、日米貿易の先駆者として活躍した。

 日下部太郎らの墓と共に「1877年没、タカギ・サブロウ・スマ夫妻の幼女」と記された小さな墓は、この高木の亡くなった幼女の墓で、外地で娘を一人にせず、せめてともに志を同じくした同胞とともに眠らせようと、高木三郎夫妻がこの地に埋葬したのだという。(1面に関連記事)