「NYの富士山」50周年祝う

レスリングからレストランへ

藤田徳明の挑戦とは何だったのか

 創業者の藤田徳明さんは、徳島県出身で日本体育大学を卒業後の1964年、東京オリンピックにグレコローマンスタイルのレスリング日本代表選手として出場し個人4位となる輝かしい経歴を持つ。その後渡米し、ロッキー青木のベニハナで修業して独立、1968年に妻の一枝さんと2人でニュージャージー州のリッジフィールドに「ミスター・フジヤマズ」というレストランを開業したのがビジネスの始まりだった。69年にフェアビュー、71年にウエストオレンジ、73年にハスブロックハイツに次々と出店し、ロングアイランドやコネチカットなど最大9店舗を構えて手広くヒバチステーキハウスを経営した。78年に現在のニューヨーク州ロックランド郡ヒルバーンの山頂に建つ山荘ホテル「モーテル・オン・ザ・マウンテン」跡を譲り受け、改築工事を経て85年に開店して現在に至る。

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 経営が一段落すると、藤田氏の気持ちは後継者を育てるため一人娘のナンシーさんの婿探しが始まった。日体大の学生だった多田さんに藤田氏の学生時代の先輩だった教授を通じてアメリカ行きの打診があった。スポーツ医学の道へ進むため大学院進学の準備をしていた多田さんにとっては、高校時代からアメリカに憧れはあったもののレストランビジネスが自分の将来像とはなかなか結びつかずに何度も断り続けたが、大学院進学手続きの直前、藤田氏が来日して「1週間だけでいいからとにかくニューヨークを見にきてほしい」と懇願され、ドクター課程が始まるまでの休みを利用して1週間の約束で渡米した。
 その一週間で決断した。「そこで決めなければ私の人生はまったく別なものになっていたでしょうね」。半年間の準備期間を経て2005年11月に本格渡米した。
 初日に事務所に行くと。「携帯電話持ってるか」と聞かれた。「はい」と答えると「ここに出して、叩きつぶせ」と言われた。日本との繋がりを一切断ち切って、ここでのビジネスに専念する、藤田さんが亡くなるまでの7年間で飲食ビジネス経営に関するノウハウを徹底的に叩き込まれた。携帯電話は壊されずにあとから返してもらったが、電話での連絡は必ず呼び出し音2回で出ないと罵声が飛んだ。「義父の教えは、常にスパルタ式でしたが、厳しい指導の陰には深い愛情があったのだと今は感じています」と振り返る。
 そんな貴将さんを支えていたのがナンシーさんだった。コーネル大学のホテル経営大学院を卒業して経営を学んでいたナンシーさんは、父の他界後のレストランの店の保険掛け金を最高額にしていた。それが7年前のハリケーン・サンデーの時に嵐で屋根が吹き飛んでしまった時、最高額の保険ですべてを元に戻すことができた。「本当に先見の明があるというか妻の経営ビジョンを尊敬します」と多田さん。ラストオーダーが午後11時で、閉店が午前1時を過ぎることもあり、深夜3時くらいまでは事務処理で残業をする日々。雪が降れば従業員と共に雪掻きもする。年中休みなしの体育会系の日課は今も続くが、年に数回、ナンシーさんが家族3人での旅行をブッキングしてくれる。「愛する家族と一緒に過ごせる時間です。それがあるから頑張れます」と笑顔を見せた。