平日の午後七時頃、ニューヨークの地下鉄に乗るやいなや、いつものようにバッグからノートパソコンを取り出し、膝の上に置いた。パソコンはA4サイズだから、私の体とほぼ同じ幅だ。この本の原稿を書くために画面を開けたとたん、右隣の女の人の視線を感じた。じっと私を見つめているようだ。
ニューヨークの地下鉄やバスで、携帯端末をいじったり電子書籍を読んだりする人は増えたが、パソコンを開いて作業している人はほとんど見かけない。ぶつかってもいないのに、パソコンが邪魔だと言いたいのだろうか。
その人は私の耳元で、呆れたようにつぶやいた。
Always working, huh?
いつも仕事してんのね?
意外なひと言だった。嫌味のある言い方ではなく、むしろ、からかっているようだ。
私は通勤していわけではないので、地下鉄に乗る時間は決まっていない。だから、 前に私を見かけた、ということでもないはずだ。
オフィスアワーはとっくに過ぎているのに、いつまでも働いているワーカホーリックの日本人だと思われたのだろうか。
締切があるのよ、と私が笑って答えた。
あと二週間で、本を書き上げなきゃならないの。
とは言ったものの、とても間に合わない、と半ばあきらめていたときだった。
その人は納得したようにうなずくと、きっぱりと言った。まるで予言者のように。
You’ll do it.
あなたは、やるわよ。
あなたはできるわよ(You can do it.)ではない。あなたはやるわよ(You will do it.)なのである。当然、二週間後には、書き上がっている、とでも言うように。
次の駅でその人は、さっと立ち上がると、スカートを翻して降りていった。
私も自分につぶやいてみる。
I’ll do it.
私は、やるわよ。
思わぬ予言者の言葉どおり、私は二週間で原稿を書き上げた。
このエッセイは、シリーズ第5弾『ニューヨークの魔法のじかん』に収録されています。