飴細工師 Candy5さん
5月24日午前6時30分、マウントサイナイ病院の入口で、同病院に勤務する看護師の希代子キムさんに徹夜で作った飴60個を届けた。その数日前にはブロンクスの病院にも飴140個を作って届けた。医療現場がパニックになっている時期は避け、5月に入って医療の現場が落ち着きを取り戻したある日、ブロンクスの病院で働く日本人医療従事者の話を聞くオンラインイベントに参加、「医療に携わるみなさんに私が作った飴を差し上げたい」と伝えた。講師の看護師、淨見(きよみ)祥子さんが「喜んで私が皆さんに配りますよ」と快諾してくれた。マスクをつけた箸置きくらいの大きさの飴140人分をボードに貼り付け、淨見さんがメールで送ってきた12人の医療従事者の顔写真に似せた飴も特別大サービスで持って行った。後日、大喜びする医師、看護師たちの笑顔の動画が送られてきた。「やってよかった」と思った。
キャンディ5さんは富山県出身。高校2年の時、毎日新聞富山支局長だった父が49歳で他界した。大学進学を諦めて就職するも会社勤めが肌に合わず、10回以上も転職を繰り返したが、天国の父の導きとも言える記事に出会い紆余曲折を経て当時80代だった東京の飴細工職人・木村武雄氏の弟子に。ほどなく金太郎飴本舗にディズニーが飴細工師を探しているという連絡があり、高齢者ばかりの業界で紅一点の若者だったキャンディ5さんに白羽の矢が当たった。96年のことだった。ディズニーのエプコット・日本館でパフォーマンスを始め、たちまち来場者の人気者となった。
5年後、2001年9月11日の同時多発テロで解雇されたが 半年後には元の職場ディズニーから電話がかかり、「戻ってこないか」と打診された。キャンディ5さんの解雇に多くのファンから苦情が届いていたのだった。13年に円満退職するまでの期間には、アメリカ航空宇宙局(NASA)のパーティーにも招かれ、そこで知り合った宇宙飛行士の野口聰一さんがキャンディ5さんの作ったバースデーケーキ飴を宇宙で受け取ったニュースは世界にも流れた。
退職後、富山の母親の介護で4年間帰国したが、17年10月、大学を卒業してディズニーのダンサーになっていた娘をフロリダに残し、ニューヨークに活動の場を移した。日本文化紹介イベントや子供の誕生会などに引っ張りだこだったが、このパンデミックで年内のイベントがすべてキャンセル。だが切り替え早く、ビデオパフォーマンスで仕事を増やしている。笑顔で作り出す飴は、明るい未来の味がする。(三浦良一記者、写真は本人提供)