作家・ジャーナリスト 冷泉彰彦
新型コロナウイルスについては、世界的な流行(パンデミック)状態のまま、2021年の年明けを迎えた。今年は、この流行終息へ向けて国際社会や各国がさまざまな試行錯誤を行う年となろう。接種がスタートしたワクチンが希望であるのは間違いないが、各国で効果的な「免疫の壁」を作り上げるためには接種率の確保が前提になる。
英国における変異種の出現も報じられる中、全体的な情勢は厳しく決して楽観はできない。けれども、この2021年の年初にあたって、コロナ後の世界を見据えておくことは必要だ。それは2020年代の世界をどう構想するかということに他ならない。
コロナ後の世界を考えるには、2つの異なった方向性を考える必要がある。一つは、人々がより個別の集団に「閉じこもる」動きである。残念ながら、現在の社会がそうなっているように、国は国境を閉じ、州や県は同じように他の週や県との往来を制限する、そんな方向性である。
もちろん、感染が収束すれば、世界規模で大なり小なり旅行ブームや出張・留学の大規模な再開はされるであろう。だが、多くの国が、州や県が、そして学校、企業、あるいは家庭というものは「万が一」に備えたいという思いから「何らかの準備」をするであろう。
例えば、国境管理を厳しくしたままの国というのは残るであろうし、一部の多国籍企業は財力に任せて自分たちだけが延命するために「人材の囲い込み」などを行うかもしれない。また、米国の一部では、パンデミックの終息後にもアジア系への偏見や差別が残る可能性は否定できない。
その一方で全く正反対の方向性もある。終息の後に各国の政府や世論が冷静になってみれば、もっと国際協力がされていたら大規模なパンデミックは防止できた、そのような反省が生まれるかもしれない。そして、実際にそのような反省が生まれるのであれば、将来へ向けてはより国際的な協調が必要であるし、そうしようという動きが出てくるであろう。
例えば流行に対する初動について、今回の失敗例を教訓とすればさまざまな対策は可能であり、その多くは国際的な足並みを揃えることで効果を発揮するに違いない。またワクチンの成功によって感染終息が実現したとなれば、ワクチンの開発や製造、接種に関してより国際的な協力体制を作ろうという動きになるかもしれない。
夏の東京オリンピック・パラリンピックの開催については、全く楽観を許さない。だが、仮に開催できるとしたら、人類が国際的に交流し協調することが、より人類全体に安全と安心感をもたらす、大会の成功がそうしたメッセージの発信になればと心から願うものである。
この2つの動きに加えて、管理社会か透明性のある社会かという問題も大きい。パンデミックの初動において、例えば中国という国は徹底した管理統制により、一部の例外を除いて流行を湖北省内に抑え込んだ。これによって早期の完全終息を実現し、社会経済活動の全面再開を行っている。だがその一方で、14億人が全く無免疫の状態で放置されることともなった。切り札はワクチンだが、さすがにこれは管理統制によって接種できるものではない。副反応や効果について透明性を確保しなくては、接種率は上がって行かないであろう。
そう考えると、世界規模の感染症に対しては管理統制社会の方が、自由と民主主義を掲げる社会より優れているなどという論理は通用しないことがわかる。その一方で、米国の場合は感染対策に失敗を続けた結果、本格的な流行が10か月間続くなかで死者が30万人を超えるという悲惨な結果となった。これも米国が自由過ぎたから、野放図であったからということではない。感染症と衛生管理に関するリテラシー、つまり国民の側のサバイバルスキルの問題という理解が必要であろう。
一言で言えば、今回のパンデミックは人類に対して文明論的な再検討を突きつけてきた。2021年、この難しい課題に対してどう取り組むかが問われている。
れいぜい・あきひこ=作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年よりニュージャージー州在住。