もぐり酒場の客

常盤新平 ニューヨーカー三昧 I LOVE NEW YORKER 7

↑バックナンバーを読む

 「ニューヨークには何年住まれましたか」と訊かれるたびに、もう赤面はしなくなったが、気恥ずかしくなる。ニューヨークに住んだことはなく、この都市についての知識はみな新聞や雑誌から拾ってきた。

 何ごとも読めばわかると信じていた時期が長く続いた。活字が好きだったからであるが、旅をするようになって、ものごとは自分の目で確かめなければならないと悟った。

 ただ、活字のおかげで、私が生まれる前の1920年代を知ることができた。その一つがグリニッチ・ヴィレッジにあったモリアーティという酒場である。

 禁酒法が酒類の販売や飲酒を取り締まっていた20年代にはスピークイージーといわれる「もぐり酒場」が市内のいたるところで営業していた。

 酒を禁じることにそもそも無理があった。1910年代からとくに禁酒運動が盛んになってきて、第一次大戦後の1919年に憲法によって禁酒法という悪法というか、ザル法というか、世にも不思議な法律が施行された。

 ヴィレッジにはフランスの家庭料理を安く食べさせるもぐり酒場が何軒もあって、その一軒、マドモアゼルプティパという酒場は、2階が下宿屋になっていた。変わった店で、客は二つのタイプに分かれていた。

 一つはこの界隈に住むアイルランド系で、近所のアパートメント・ハウスのドアマンや三番街の百貨店の守衛や分署の警部補など。ヴィレッジにはアイルランド移民が多く住んでいた。もう一つのタイプはダン・モリアーティの言う、ジェントルマンの紳士がなまったジントルミンだ。ウォール街の重役やニューヨーク・ヨットクラブの理事、それにエール、プリンストン両大学の金持ちの学生たちだった。

 同じ酒でも値段が違っていた。アイルランド人は一杯五十セント。ジントルミンは一ドル五十セント。もぐり酒場だから頑丈な鉄製の扉には覗き穴があって、やってきた客が常連かどうかをこの穴から確かめた。

 階段をおりた地下室がアーク灯輝く酒場だった。カウンターには十二の腰掛があり、テーブルが三つか四つある。そこにすわるのは酔っ払った客以外にはほとんどいなかった。

 店はモリアーティの三兄弟がやっていた。イーストサイドに住むアイルランドの二世で、民主党びいき。常連もアイルランド系で占められていたから、店もいわばアイリッシュ・パブだった。

 三兄弟の長男のダンは口ひげを生やして、陽気で気前がいい。二男は陰気でとっつきにくく、末弟のジムはボクサーくずれのうぬぼれ屋。禁酒法が廃止になると(1933年)、独立してマディソン・アベニューに自分の店を持ったが、精神病院で死んだ。

 当時のバーテンダーを務めるオールド・ジョーという老人がいて、毎朝店を開けていた。彼は週刊誌「ニューヨーカー」を創刊したハロルド・ロスについて語っている。

 「あのロスって人はゆうべここに来て、ひとことも口をきかないで、バーボンを十杯も飲んだ。文学関係の人はなぜああなのかね。人づきあいが悪い。とにかく新しい入れ歯を試してみるとよかったんだよ。私は自分の入れ歯を貸してやろうとしたんだが、あの人は断った」

 モリアーティの閉店は午前二時、そのころになると、帰りたくない客は声をそろえて「ハウス・ウルフ、ハウス・ウルフ」と叫ぶ。帰る前に店のおごりで一杯飲ましてくれという合図だ。ハウス・ウルフは当時最も人気のあったゴードンのジンのラベルに関係があるという。恐ろしい牙をむいた狼の画がこのジンのラベルだった。

 客の一人にジャック・トーマスという作家がいた。20年代のはじめに『ドライ・マティーニ』という小説を書いて、これがベストセラーになった。

 高級ホテルのバーを舞台にした長編で、のちに映画化されて、作者は名声と富を得たが、富のほうは酒と女につかいはたしてしまった。モリアーティの酒場もヴィレッジの歴史のささやかな名物の一つだ。

(写真)かつてディラン・トーマスなどの作家が訪れた1880年創業の老舗バー、ホワイトホース・タバーン(11丁目ハドソン街、撮影・島津貴幸)


常盤新平(ときわしんぺい、1931年〜2013年)=作家、翻訳家。岩手県水沢市(現・奥州市)生まれ。早稲田大学文学部英文科卒。同大学院修了。早川書房に入社し、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』の編集長を経てフリーの文筆生活に入る。86年に初の自伝的小説『遠いアメリカ』で第96回直木賞受賞。本紙「週刊NY生活」に2007年から2010年まで約3年余りコラム「ニューヨーカー三昧」に24作品を書き下ろし連載。13年『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』(幻戯書房)に収録。本紙ではその中から12作品を復刻連載します。