ヴィレッジの物語

常盤新平 ニューヨーカー三昧 I LOVE NEW YORKER 3

↑バックナンバーを読む

 O・ヘンリーの『賢者の贈物』は懐かしい短編小説だ。貧しい夫婦がクリスマスに自分の大切なものを売って、贈物をする素朴な物語で、私は高校二年の冬に英語の教科書で習った。

 高校には教え方のうまい英語の先生がそろっていたが、定年退職して私たちを教えに来られていた佐伯先生の姿が『賢者の贈物』とともに印象に残っている。小ぶとりの、ごま塩頭のおだやかな先生だった。

 この老教師を私たちはいくらかあなどっていたかもしれない。授業中によく騒いで、先生を困らせた。温厚な先生はそのたびにかなしそうな、情けなさそうな表情を浮かべられた。

 『賢者の贈物』は翻訳で読むと、やさしい英語で書かれているように思われるが、久しぶりに原文を読み返して、なんども辞書を引かなければならなかった。

 この60年、私の英語はちっとも進歩していなかったことになる。O・ヘンリーの文章はけっして平易ではない。妙に凝っていて、悪くいえばもったいぶっているのであるが、それは1900年代のはじめごろと現在の時代の差ということもあるだろう。

 「1ドル87セント。それしかない」というのが書き出した。このお金でどうして愛する夫のジェイムズ・ディリンガム・ヤングにクリスマスの贈物が買えるのかと妻のデラは困りはててしまう。自慢の金髪を売るしかないと心を決め、それをばっさり切ってもらって20ドルを得る。

 彼女は夫のためにそのお金で時計のプラチナの鎖を買う。ところが、ジェイムズはその時計を売って、妻に櫛のセットをおくる。デラは髪を短く切ってしまったし、彼には時計がない。

 けれども、「ふたりでこうした贈り物をする人はすべて賢者なのである」で小説は終わっている。

 英語で小説を読んだのは『賢者の贈物』が最初である。佐伯先生がこの短編の訳読をはじめたとき、私たち生徒はガヤガヤ騒いでいたのだが、やがて先生が原文を読んで、和訳をつづけていくうちに、私たち生徒はだんだんにおとなしくまじめに授業を受けるようになっていった。

 それは高校生にも面白い短編だったからだろう。長い小説だと思っていたが、7ページたらずである。

 『賢者の贈物』の授業では、教室に冬の弱い日がさしこんでいた。そのころは物資不足で暖房がなかった。立派なスチームがあったのだが、それを動かす燃料がなかった。遠い遠い1948年の冬である。

 佐伯先生の授業を聴きながら、私はいつか英語で小説を読むようになりたいと思った。翻訳者になりたいとはまだ願っていなかった。そんな職業があるということを知らない、東北の田舎町の学生だった。

 大学は英文科だったが、英語で小説を読むのは教室だけで、下宿で読むことなどなかった。そのころから私は昼寝好きの怠け者だった。

 ただ、翻訳でメシが食えればと思うようになっていた。翻訳なら家で仕事ができるし、人とつきあうこともあまりないだろう。そのころから、というよりも子供のころから、人とつきあうことが下手だった。

 『賢者の贈物』の舞台はグリニッチ・ヴィレッジのアパートだ。家賃が週8ドル。デラは主婦、夫は勤め人で、つましい生活を送っている。

 グリニッチ・ヴィレッジはNYでも私の好きな街だ。いまアパートの家賃はどれくらいするのだろう。おそろしく高いと聞いている。私の知り合いはウエスト・ヴィレッジに住んでいたが、その後の消息はわからない。

 ヴィレッジではコーヒーショップでエスプレッソを飲んだ。カフェ・ダンテでは手紙を書いている若い女性がいた。彼女はニューヨークに友達を訪ねてきて、故郷の誰かに宛てて書いていたのだろうか。

 『賢者の贈物』は106年も昔の物語だ。これも古きよき時代のおとぎばなしだろう。(2007年12月8日号掲載)


常盤新平(ときわしんぺい、1931年〜2013年)=作家、翻訳家。岩手県水沢市(現・奥州市)生まれ。早稲田大学文学部英文科卒。同大学院修了。早川書房に入社し、『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』の編集長を経てフリーの文筆生活に入る。アメリカの現代文学やニュージャーナリズムの作品を翻訳して日本に紹介する翻訳家であるとともに、エッセイスト、作家としても知られた。86年に初の自伝的小説『遠いアメリカ』で第96回直木賞受賞。本紙「週刊NY生活」に2007年から2010年まで約3年余りコラム「ニューヨーカー三昧」に24作品を書き下ろし連載。13年『私の「ニューヨーカー」グラフィティ』(幻戯書房)に収録。本紙ではその中から12作品を復刻連載します。


(写真)冬の陽が差し込むヴィレッジのカフェ・ダンテ(三浦良一撮影)