ニューヨークのとけない魔法 ⑨
岡田光世
日本の人気特別展の比ではないものの、その日のニューヨーク近代美術館(MoMA=Museum of Modern Art)は、かなり混雑していた。この日は閉館時間がいつもより三時間遅く、午後四時から八時まで無料で入館できるからだ。
一番人気のゴッホの「星月夜」はガラス板に覆われている。が、他のほとんどの絵画や彫刻などはむき出しで、その前にロープも張られていない。ピカソやルソー、ダリ、ミロ、モネ、セザンヌなどの珠玉の名画を、悪意があれば瞬時で傷つけることができるわけだから、警備員は目が離せない。
カメラのフラッシュがたかれると、四十代ほどの小太りの白人の男性警備員が、すぐに反応して辺りを見回した。が、そのまま留まった。
ここはフラッシュをたいてはいけないんでしょう、と私がその警備員に声をかける。
そうです。でも、すぐに手を下ろしたから、見失いました。僕は怒鳴るわけにはいかないんです。わざわざ、ありがとう。楽しんで観ていってください。
彼は手を挙げて、私にそう言葉をかけた。
部屋を出るとき、再び彼の姿を見かけた。
警備員はいつも同じ部屋を担当しているのだろうか。それとも、日によって違うのだろうか。人の波が引いた隙に、彼に聞いてみる。
彼は突然、右手を挙げて敬礼し、それは機密事項でお答えするわけにはまいりません、と真剣な顔で言い、笑った。
僕が答えていいかどうか、わからないなあ。そんな質問されたこと、今までないもの。
別にいいの。ふと思っただけだから。同じ絵ばかり見ていたら、飽きないのかなって。
I never get bored. I’m always on my toes.
僕が退屈するなんて、あり得ませんよ。いつも気を抜いていませんから。
on my toes というのは、かかとを浮かせてつま先立ちをし、いつでも素早く動けるような姿勢でいる、ということだ。
それから、ボクシングでもするように、両方の拳を前に突き出して、こう付け加えた。
I’m eager to protect the artwork.
芸術作品を守ることに、燃えているんですから。
無表情で観客と作品を凝視している警備員が多いなかで、たしかに彼の姿はひときわ目を引いた。使命を果たそうと、まさにつま先立ちでスタンバイし、気になる人を見かけると、すぐに足早に近づいていく。フットワークが驚くほど軽い。
そして、観客に対する物腰が柔らかい。リュックを背負った人には、前に掛けるように。ペットボトルの水を手にしている人には、しまうように。作品に近寄り過ぎている人には、離れるように。居丈高な物言いをせず、丁寧に説明する。
指示に従った相手には、
I appreciate it.(感謝します)、Thank you.(ありがとうございます)と感謝の意を伝える。英語が通じないフランス人らしき相手には、フランス語で礼を言っている。
彼の一挙手一投足に私は釘づけになり、美術館が誇る数々の名品は、しばし彼の背景と化してしまった。
このエッセイは、シリーズ第5弾『ニューヨークの魔法のじかん』に収録されています。