ジャズピアニスト浅井岳史のシアトル旅日記
細君のコンファレンスが全て終わり、私もホテルにこもって取り組んだプロダクションが飽和状態になり(笑)、予定通り昼からオフィシャルに遊びに行く事になった。ホテルからすぐのところに、トラムと地下鉄とモノレールが集結する小さな広場がある。私は子供の頃から乗り物が好きで、ここからどれかに乗って出掛けたいものだとここ4日間通るたびに思ってきた願いが今日叶う(笑)。
まずは地下鉄でChinatown/International Districtを目指す。チャイナタウンでラーメンが食べたい。駅を降りて地上に出た瞬間、先回来ていることを思い出す。記憶に残っていないということは、それ程楽しんでいないということか。非常に空腹なので、すぐに出てきそうな庶民的な店に入る。早い、安い、ラーメンと餃子が美味い!
さて、すっかり満足したので、次はバスに乗ってシアトルのランドマーク、スペース・ニードルに出かける。バス停に着くと目の前にHigo Variety Storeという日本の店がある。急いでニードル・タワーに行く必要は無いので早速店に入ってみた。古い日系人の店を上手く現代のクラフトショップにアレンジしていた。
そしてまたバスに乗ろうとしたところ、「日本町横丁」と書いてある壁を発見。またしても寄り道をして詳しく看板を読んでみると、なんとここにはかつて日本町(にほんまち)が栄えていたとのこと。これは観るしかない。歩いて坂を登っていくと、今は閉まっているが古い店の入り口に当時の写真が飾ってあり、博物館のように日系人たちの歴史を物語る。Variety Store にバリエテ・ストアとカナが打ってある。少し笑った。当時の銭湯も、ホテルも、飲食店ももう営業はしていないが看板が残る。横丁の中心にPanama Hotelというホテルがあり、そこにカフェがある。中を覗くとさらにたくさんの写真が展示してある。先ほど食べたラーメンでお腹がタプタプであるがこれを観ずには帰れない。早速入ってみた。
小綺麗なカフェには、当時の写真が並ぶ。日本から来ている留学生の女性が親切に町の歴史を教えてくれた。なんと最盛時には7800人の日系人が住んでいたという。写真には仕立ての良いスーツを着たイケメン男性達と、艶やかな女性達が写る。日本語の新聞には誇らしく出した店の広告が並び、桜祭り、商工会議所主催のビューティー・コンテストなど当時の日本町の繁栄を見事に伝えている。19世紀から、ここには異国にあっても立派に力強く生きている日系人たちの繁栄の街があったのだ。
だが、戦争が全てを変えてしまった。第2次世界大戦で日系人たちは敵国民として全財産を没収され、収容所に入れられる。その思いは私の想像を超えるだろう。カフェに飾られたある立派なご夫婦は、収容所に送られる前にこのパナマホテルに来て、持っていけない家財道具を託したそうだ。それ以来、収容所に送られる日本人は皆、このホテルに家財道具を預けるようになる。そして戦争が終わり、収容所から戻るとここに荷物を取りに来たそうだ。その時引き取られなかった荷物はなんと今も倉庫に保管され、カフェのガラス越しの床から観ることができる。それを見た時、バリエテ・ストアを笑った自分が強烈に申し訳なく思った。サブタイトルにHistory of Resilienceとある。収容所から戻った日系人たちのほとんどは日本に帰らず、別の場所に移ってまた一から生活を始めたのだそうだ。
この日系人たちの物語はNHKで「二つの祖国」「山河燃ゆ」などでドラマ化され、ハリウッドでも工藤夕貴とイーサン・ホーク主演の1999年の映画「ヒマラヤ杉に降る雪(Snow Falling in Cedars)」でかなり克明に描かれている。私はグリーンカードでアメリカに生活する移民である。言葉にはできない大きな衝撃が心を揺さぶった。マウイのリゾート地、ラハイナにも古い日本町の跡が残る。美しい海のビーチに下手な字で掘られた墓碑銘を観て突き上げる衝撃があった。今回もそれと同じである。
ここはアメリカの国宝に指定された史跡なのだそうで、いまでも子孫の方がこのホテルを訪れ、古い写真に親や親族を見つけ、サインを残していくようだ。壁には手描きの地図があり、どこに誰が住んでいたか詳細に残っている。驚いた事にパナマホテルは今も営業していて、入り口には8月のお盆に合わせて行われるブロックパーティーのチラシがある。
日本町に心を残したままバスに乗り、今度こそスペース・ニードルに向かう。以前も入った音楽の博物館MoPopやさまざまな施設が並ぶ、噴水の綺麗な公園は居心地が良い。37ドルも入場料を取るニードルには登らず(2回目なので)近くで日向ぼっこをしながら先ほど観た日本町と日系人、そして自分たちの将来に思いを巡らせた。
もしあの時にM社のオファーを受けてこの街に住んでいたら今頃どうなっていたのだろう。が「そはかくの如し、かくあらずを得ず」、NYの今の生活が私たちの生活でそれ以外はあり得なかったのだ。モノレール(嬉しい!)でホテルに戻り、帰りの準備をする。明日は一日かけてNYに戻り、明後日はダブルヘッダーで演奏だ。それが今の私の生活なのだ。そしてそれは多くの先人の方々の努力と犠牲の賜物である事を忘れてはならないと思う。(終わり)
浅井岳史(ピアニスト&作曲家)www.takeshiasai.com