ニューヨークのとけない魔法 ⑧
岡田光世
ある夏の日の夕方、夫とふたりで並んでウッドチェアにすわり、しばらくぼうっと川を眺めていた。突き出した桟橋がウッドデッキになっている。
ここを訪れるのは久しぶりだった。水辺に木の椅子やベンチがいたるところにあり、ゆったりくつろげるようになっていた。ニューヨークはウォーターフロントの開発を進めているらしく、行くたびに景色が変わっている。
マンハッタン島南端のサウスストリート・シーポートのこの辺りで、島の東を流れるイースト川が大西洋と合流する。水上タクシーが何隻も行き交い、目の前に停泊している遊覧船の上では、人々がソファでおしゃべりしたり、手すりにもたれて川を眺めたりしていた。
しばらくして夫が本を読み始めたので私は立ち上がり、七、八メートルほど離れたところへ歩いていった。ウッドデッキ全体をフレームに収めて、夫の写真を撮りたかった。右手と正面に川が入り、左奥にブルックリン・ブリッジが半分収まる構図だ。
私のすぐ前にもデッキチェアがふたつ並んでいて、近いほうに体格のいい黒人の女性がすわっていた。半袖のTシャツの濃いショッキングピンクが、彼女の皮膚の色によく映え、パッと目に飛び込んでくる。左手には、ライム色のペットボトルを握っていた。
カメラをかまえると、その人が私に気づいてこちらを見た。
全体を撮ろうとすると、彼女が写真に入ってしまう。
Do you mind being in the picture?
あなたも写っちゃうけど、いい?
私の夫はそっぽを向いているのに、その人はしっかり私を見つめている。ペットボトルを立ててポーズを取ると、大きな目を細め、唇の両端を上げて、にかっと笑った。
フレームの中央手前に女性を大きく入れて、シャッターを切る。
その人が私に向かって、大声で叫んだ。
Now you’ll always remember me.
これでアタシのこと、いつまでも忘れないわね。
そして、早口に大声で続けた。
I’m a black girl from Hartford, Connecticut. My name is Sasha. Now don’t delete that !
私はコネチカット州ハートフォードから来た黒人の女の子。名前はサーシャ。で、その写真、削除しないでよ!
そう言うと立ち上がり、腰に巻いたブルーのシャツをひるがえし、そばにいた女性のあとを追ってさっそうと去っていった。
私は思わず、大笑いした。
遠ざかり、どんどん小さくなっていく彼女に向かって思わず、サーシャ、と大声で叫んだ。
サーシャはふり返り、笑顔で私に向かって大きく手をふった。ブルックリン・ブリッジを背景に、手をあげてピースサインする姿が、自由の女神のようだ。
カメラから放した右手を、私も大きくふり返す。
たぶん、もう二度と会うことのないサーシャ。あなたの姿はたった今、私の心にも永久保存された。
このエッセイは、シリーズ第9弾『ニューヨークの魔法は終わらない』に収録されています。