原爆を開発したオッペンハイマーが1964年に広島の被爆者と米国で面会し、「涙を流して、何度も謝った」ことが明らかになりました。NHKが6月20日、この非公開の会談に同行した通訳者の証言を放送しました。2019年に亡くなった通訳者のタイヒラー曜子さんが2015年に語った映像を広島市のNPOが保管していたものです。タイヒラーさんは、「オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態で『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」と述べています。彼は、原爆投下による惨状を知って苦悩を深めたと言われています。
被爆者一行はトルーマン元大統領とも会談しましたが、彼は「これはアメリカが取った正当な行為だ」と述べたとのことです。
私はタイヒラーさんに1980〜90年代に国際MRA(現在は国際IC)のスイス・コーの国際会議で通訳をお願いしていました。実はこのコーこそ、浜井信三広島市長が1950年に参加して、広島の碑文「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」作成の契機となった場所です。コーは戦後4年間にドイツとフランスの首脳を含む数千人の国民が参加した和解のメッカです。市長はその和解のドラマを体験した後、欧州諸国を経て米国を訪問します。市長は戦後初めて占領軍が海外渡航を認めた約70名の大型使節の一員でした。中曽根康弘議員他国会議員7人を含む各界代表や広島県知事、長崎県知事、長崎市長も含まれていました。サンフランシスコ講和条約前の占領下の時代です。(私の拙訳書『日本の進路を決めた10年』ご参照下さい。)
吉田茂首相代理の二人の国会議員が米国議会で謝罪しました。そして、碑文設置を決定したのが浜井市長のアーリントン墓地訪問と言われています。市長は爆心地の楠から数十個の十字架を作成し、歴訪先の要人に贈呈しており、その1個がトルーマン元大統領にも渡っているという記録もあります。
私は昨年の広島サミット前に、この碑文の経緯について各国首脳にお伝えするよう岸田文雄総理に提言しました。バイデン大統領が原爆資料館で記帳した「世界から核兵器を最終的に、そして、永久になくせる日に向けて、共に進んでいきましょう」をぜひ実現したいものです。
ふじた・ゆきひさ=慶大卒。世界的な道徳平和活動MRAや難民を助ける会で活動した初の国際NGO出身政治家。衆議院・参議院議員各二期。財務副大臣、民主党国際局長、民進党ネクスト外務大臣、横浜国立大講師等歴任。アメリカ元捕虜(POW)の訪日事業を主導。現在国際IC(旧MRA)日本協会会長。岐阜女子大特別客員教授。