イケメン男子服飾Q&A 83
ケン 青木
アメリカの企業では稀な創業200年を祝って間もないブルックスブラザーズ社が経営破綻。連邦破産法第11条、いわゆるチャプター11の申請で再建を目指しますが厳しい道のりが予想されます。1990年代以降の30年間、同社は親会社となった外資の方針で急速な店舗数拡大政策を続けて来ました。当時内部にいた僕はNOの意思表示をしましたが、極めて少数派でした。そして投資による店舗数急拡大の目玉がカジュアルウエアの拡充とレディースの強化、そのためにアン・テーラーのトップをスカウトし、レディースのチェーン・ストアの運営ノウハウを紳士服の専門店に導入したのです。この様な手法は、3年間は店舗拡大による売り上げ増による「目眩し効果」が期待出来るのですが、四年、五年と経過するに連れて「筋肉質」の経営をしていないと必ずボロが出て来るのです。そしてその次はアウトレット店増。因みに現在アメリカ国内で正規、アウトレット店合わせて250店舗と言われおりますが、40年前日本でビジネスを始めた際、青山店が20店舗目、つまりアメリカ国内に19店舗しかなかったのでした。創業160年で20店舗だった経営がそれから40年で12倍、世界では25倍の数に増えたということなのです。日本でのビジネスは順調で、たったの一年で黒字化。以降連結決算でアメリカ本国の赤字を補填して余るものがありましたが、その頼みの日本がこの3年間ずっと赤字で急速に数値が悪化しての結果だったのでした。こうした経営のために製品の質も高級でもなく、その割に値段も安価ではないという中途半端なマーケティングとなってしまったのでした。
ブルックス・ブラザーズ社は1818年、アメリカ建国から40数年を経た状況で、英国からの移民であったヘンリー・サンズ・ブルックスによって、ニューヨークのローワー・イーストサイド、キャサリン・ストリートとチェリー・ストリートが交差する北東の角にH&D.H.Brooks&Coとして開店しました。創業者の息子達が共同経営する様になりブルックス・ブラザーズと改称。19世紀当時のニューヨークではヨーロッパとの交易船は全てイースト・リバーに入って来たので船から荷を下ろし直ぐ店頭に並べられる便利なロケーションだったのだと(笑)。当時の船はまだ現代の様な大きさでなく、川底が浅いイースト・リバーでも大丈夫だったのでした。
ブルックス・ブラザーズ社は創業当初から英国系移民らを対象に様々な英国製の衣料品・洋品を仕入れて販売すると共に紳士服店としてテーラード・クロージングの開発にも熱心に取り組んだのです。当時からビジネスで人と物の出入りが多いニューヨーク、多忙を極めるビジネスマンのために短い日数で納められる「既製服」のスーツやジャケットを世界で初めて開発したのです。御手本は英国の紳士服でした。当時は英国の紳士服も「スーツの勃興期」、男性のスーツとは実は軍服を「民間用に改造」したものなのです。19世紀半ばから20世紀に至るヴィクトリア女王治世下は大英帝国最盛期、世界中に植民地を持ち、支配するにあたり、円滑なビジネスのため軍服ではなくスーツが求められる様になりました。
英国の紳士服は男性を立派に魅せてくれます。それは、(1)背筋を伸ばした状態で最もフィットする様仕立て、(2)肩にはパッドを入れ、(3)ウエストを絞り胸部を強調など、男性の身体的、精神的逞しさを表現していることによるのですが、ブルックス・
ブラザーズの紳士服は生地、素材は英国伝統のものを踏襲しつつも、英国紳士服における権威主義的思想の真逆を行ったのです。それは(1)息を吐いてリラックスした状態でフィット、背中の丸みを強調し、(2)ナチュラル・ショルダーと呼ばれるパッドを極力排したソフトな仕立て、さらには(3)ウエストをあまり絞ることなく、全体に穏やかでより親しみが持てる「雰囲気」を心掛けたのでした。資本主義の時代、お互いより信頼感を高め、本音でビジネス・トークをしようという目的のためにです。
19世紀末当時としては正に画期的だったボタンダウンカラーのシャツについてもそうなのですが、着心地の良さと見映えに細心の配慮をしつつ、常に時代の少し先を行く素材を導入しつつ革新的製品を提供し続けてきたことが同社が長くビジネスを続けられてきた「本当の理由」だったのですが、この数十年、前述した様な状況であったのでした。伝統をただ守るだけでなく、「革新し続ける伝統」に戻れるのか? 適正な会社の規模の模索と共に二つの大きな課題だと思われます。
けん・あおき/日系アパレルメーカーの米国代表を経て、トム・ジェームス.カンパニーでカスタムテーラーのかたわら、紳士服に関するコラムを執筆。1959年生まれ。