夫が楽しそうに公衆トイレから戻ってきた。初秋のある夕方、私たちはニューヨーク公共図書館の裏にあるブライアントパークにいた。
夫が手を洗おうとすると、手洗いの鏡の前にアジア系の男の人が立っていた。三十代くらいの小柄な人だ。さっきトイレに入ってきたときにも、確かそこにいた。自分の顔に見入っていて、鏡の前から動こうとしない。
白いシャツに、赤系の柄の派手なネクタイ、サスペンダーで固定された黒いズボンに、黒いジャケットをはおっている。目の前には白い紙袋が置かれ、中から色とりどりの花のブーケが顔を出している。これから彼女とデートなのか。もしかしたら、プロポーズでもするのか。
蛇口の水で何度も手を濡らしては、びしっと七三に分けた髪をなでつけて、整えている。手を洗う人の迷惑を顧みず、仁王立ちで身繕いに夢中だ。周りの人はまったく視界に入っていない。皆、主役の邪魔をしないように、隣の蛇口を使って遠慮がちに手を洗っている。
彼のすぐ後ろで、清掃している黒人の男の人が、モップで床を拭く手を止め、その様子を見ている。ほかの人の邪魔になるからそろそろどくように、と注意するのだろうと思って、夫はふたりを眺めていた。
ついに、鏡に映ったアジア系の男の顔に向かって、黒人の男が声をかけた。
Hey, don’t worry. You’re beautiful.
なあ、心配することないぜ、あんた。十分、男前だ。
黒人の男は半ば感心し、半ば冷やかすように、笑っている。
こんなことを言ったら失礼だけど、鏡の前の男は、とても「男前」には見えなかったんだよ。まして、ビ
ューティフルとはなあ。
アジア系の男は表情ひとつ変えず、真面目な顔でこれに答える。まるで中学生が英語の教科書を音読するように、一語一語、区切って、はっきりと発音する。
Yes, I am.
はい、私は男前です。
返事がまた、ふるっているだろ。
気をよくしたのか、さらに念入りに髪をなでつけ、シャツの襟を立てたかと思うと、 ネクタイをわざわざ
ほどいて締め直している。
There you go. That’s perfect. You’re looking great.
そうそう、ばっちりだ。決まってるぜ、あんた。
アジア系の男は相変わらず無表情で、今度はしきりに肩やズボンの裾のゴミを払い落としている。
黒人の男はますますご機嫌で、鏡の前の男の身繕いにいつまでも見入っている。
ここは自分も、隣で手を洗いながら、ひと言、ほめ言葉をかけてみるか、と思ったけれど、ビューティフルを超える形容詞はさすがに思いつかなかったよ。
控え目なイメージのアジア系男性も、ここまで自信に満ちあふれていれば、大丈夫。
十分、ニューヨークでやっていける。
楽しそうな男子トイレ。ぜひ現場を見てみたいと思ったけれど、さすがにそれは叶わない。
このエッセイは、シリーズ第6弾『ニューヨークの魔法をさがして』に収録されています。