異国の母、マンハッタンをゆく

ニューヨークの魔法 28
岡田光世

 母の日おめでとう、と先生の祖国の言葉で今日は花束を手渡したくて、朝から何度も練習していたのに、会う頃にはすっかり忘れてしまった。先生との待ち合わせはいつも、 メイシーズ前の小さな広場。すぐそばが韓国人街なので、通りすがりの韓国人に聞こうと思っていたら、先生が突然、目の前に現れてしまった。 

 仕方なく、英語でHappy Mother’s Day. と言って花束を差し出した。先生はまず驚き、そして笑顔で花束を受け取った。

 と思ったら、険しい顔になった。どうして、花なんか買うの。お金、使って…。 

 雨で手がふさがって、転びでもしたら危ないので、私が花束を持とうと思ったけれど、 先生はしっかり胸に抱いて離さない。 

 先生の歩く速さは、まったく変わっていない。でも、転ばないようにと、つい腕を持って支えようとすると、先生はきっぱりと言い放つ。 

 私の安全は、私が決めます! 

  会うときはいつも、私がいくら拒んでも、先生が食事代を払う。今日は母の日だから、 韓国料理を先生にご馳走させてください、と何度も言ったけれど、いけません! 私は今も先生です。今も働いているんです! とゆずろうとしない。これ以上、拒めば、怒り出しそうだ。

 私も働いています、と言うと、私の顔をまじまじと見て、不機嫌そうな顔ねぇ、と茶目っ気たっぷりに笑う。 

 結局、母の日なのに、韓国の母にご馳走してもらった。

 私が美味しそうに食べる様子を見ながら、美味しい? よかった。あなたが美味しいって食べているのがうれしい、と何度も日本語で繰り返す。 

 そのあと、カフェに移動した。店の入口に段差があった。転んだら、大変。

 私は思わず先生の腕をつかむ。先生、気をつけてくださいね。

 先生は一瞬、間を置き、真顔で日本語で答える。 

 はい。お母さんの言いつけをよく聞くようにします。 

 結局、四時間も一緒にいた。 話しながら先生は、満面の笑みをたたえ、小さな子どもにするように、私の鼻のてっぺんを何度もつまんでは、かわいいねぇと言う。そして、自分も子どもに戻ったようにうれしそうに笑う。 

 私は夫と待ち合わせしていたので、荷物をまとめて立ち上がる。 

 早く行きなさい。待たせてはだめよ。全部持った? 忘れものはない? コートは着てこなかった? コートなしじゃ、寒いでしょう? あなた、御不浄に行かなくていい? 

 先生がまくし立てる。戦前の韓国だから、先生はトイレを御不浄と習ったのだろう。 

 はい、お母さんの言いつけをよく聞くようにします。 

 先生のまねをしてまじめな顔で言うと、まったく、という顔で、また私の鼻をつまむ。 

 先生とハグし合う。 

 ほおずりして別れてから、先生の写真を撮り忘れたことに気づく。 

 先生はもう、数十メートル先をすたすたと歩いている。 

 追いかけていって、先生の前にくるりと現れ、カメラを向ける。

 モデルの写真を、撮りにやってまいりました!

 そう言うと、先生はちょっとあきれた顔して、笑った。 

 一瞬立ち止まり、花束を抱えてポーズする。 

 撮った写真の先生の顔をズームして見せ、かわいいねぇ、と私が言う。先生の口癖だ。 

 画面に大写しの自分の写真を一瞬見て、照れたように笑った。 

 ほら、早く行きなさい、というように私の背中を押す。そしてまた、先生の大好きなマンハッタンの道を、まっすぐに歩き始める。 

 迷いもせず、わが道をまっしぐらに突き進んできた先生らしく。背筋を伸ばして、脇目もふらず、カツカツと、堂々と。 

 Thank you for being a mother to me. 

 私の母でいてくれて、ありがとう。 

*このエッセイは、文春文庫「ニューヨークの魔法」シリーズ第9弾『ニューヨークの魔法は終わらない』に収録されています。

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