環境の変化に晒される在外日本語教育

 私事にわたり恐縮だが、1997年以来在外の日本語教育に関わって27年になる。多くの優れた生徒たちに支えられて続けてきた一方で、近年は日本語教育を取り囲む環境の変化を痛感している。ちょうど4月を迎え、企業派遣の家庭の中には新年度に合わせた異動によって来米された場合もあると思う。この機会にこうした環境の変化についてお話しておきたい。

 まず、90年代と現在を比較すると、アメリカ社会における日本語や日本文化への理解は劇的に深まった。90年代にはまだ戦争の余韻が残っており、毎年12月7日になると日本人の生徒は現地校に登校する際には緊張を強いられるということがあった。また、弁当に「おにぎり」を持参すると、気味の悪い黒い紙を巻いた塊をかじっているなどと言われていた。

 現在は全く違う。日本文化への称賛は勢いが止まらず、アニメやゲーム、食文化などへの理解は劇的に深まった。アメリカ人にとって、人気旅行先のトップは日本であり、日本のコンビニ食が普通のアメリカ社会で話題になるなど、隔世の感がある。したがって、日本からやってきた転校生が、文化の面で差別を受けることはほぼ絶無となった。

 では、全く問題がなくなったのかというと、実はそうではない。20世紀末とは全く異なった3つの問題が、子どもたちを苦しめている。

 1番目は、受け入れ側の現地校のカルチャーが変化しているということだ。90年代のアメリカはポスト冷戦時代のグローバリズムの勝者として、国として自信満々という雰囲気があった。これを受けて、現地校の子どもたちも地球の反対側からやってきたアジアからの転勤族の子どもたちに対して、ほぼ無制限に受け入れ支援をしてくれていた。

 現在もこうした美風が消滅したとは言えない。けれども、そのトーンは微妙に違う。度重なる深刻な不況を経てアメリカの中高では「少しでも良い大学へ」という受験競争が激化した。また、中国系やインド系を中心としたアジア系がその競争激化を引っ張っている。そんな中で、英語が発展途上の転校生への無限のサポートというカルチャーは明らかに変質が見られる。また一部の保守的な学区では、大人たちの中に見られる「アメリカ・ファースト」的な雰囲気が子どもたちに悪影響を与えていることもあるだろう。

 2番目は、日本人の子どもたちの「特技」が弱くなったという問題だ。具体的には野球、バイオリン、数学である。90年代からずっと見てきて、日本からの転校生の間では、野球やバイオリンといった言語の壁を超える特技で、サッと現地校の課外活動カルチャーにとけ込むケースが多く見られた。そうした特技を持つ子どもの比率が減っているのが気になる。サッカーが得意な場合などもあるが、全体としては弱くなっているのだ。

 問題は数学だ。90年代までは日本人の転校生は、数学に関しては圧倒的な進度を誇っており、数学で褒められることで現地校での居場所を確保していた。だが、日本が「ゆとり学習」カリキュラムから完全に戻っていない一方で、アメリカの数学教育は全国レベルの標準化と飛び級の制度化により変化している。そのために、日本からの転校生が不当に易しいクラスに編入されてしまうという問題もあり、転入時にしっかりと対策をして臨むことを勧めたい。

 3番目は、SNSの影響である。アメリカの若者の間でも、SNSによる濃密な「仲間うち」のコミュニケーションが発達している。短い内容に濃いニュアンスを込めるということでは、SNSの使い方としては日本の若者とは全く変わらない。だが、構造的に似通っていても、実際のコミュニケーションということでは、転校生がいきなり飛び込むのは非常に難しい。対面での丁寧な会話と比較すると、言語としては高度過ぎるのだ。絵文字は日本発祥だが、アメリカでは意味合いが異なるという問題もある。そんな中で、日本ではコミュニケーションの軸に立っていた若者に限って、アメリカでは全くそのスキルが活かせず孤立してしまうということも起き得る。

 日本の若者文化の中に色濃い「他人を信じず自分を守り切る」とか「絶対に人には迷惑をかけないし、できるだけ借りも作らない」という防衛的なスタンスが、アメリカでは全く通用しないということもある。とにかくSNSの発達が異文化間の移動を難しくしている。いずれにしても、日本から英語圏デビューする転校生の子どもたちには、過酷な条件が揃っているのは事実だ。保護者も教員も、そのような子どもたちの困難について、まずは理解することから始めたい。

(れいぜい・あきひこ/作家・プリンストン在住)