高速バスで仙台から石巻に向かい、その日の午後、被害の大きかった地域を訪れた。瓦礫の山は小さくなり、道路や橋も補修されつつあった。
津波で十メートルほど流され、横倒しになったコンクリートの建物が、今もそのまま 浜に残されていた。建物の中には雑草が生えている。
石巻市立大川小学校も訪れた。児童と教職員を合わせて、八十四人が死亡、あるいは行方不明となった。
足場の悪い裏山に逃げるか、橋のたもとに避難するかーー。結局、逃げ遅れ、橋のたもとに避難し始めた直後に、津波に襲われた、といわれている。
今、まさに私たちが立っているこの場所で、たくさんの幼い命が奪われた。その現実を突きつけられ、言葉を失う。
校舎は荒れ果て、天井板がはがれ、電気の配線がむき出しになっている。「〇月〇日 〇曜日 日直」と書かれた黒板だけが、そこが学校であったことを物語っている部屋もある。
泥まみれの小さい机や椅子に、寄り添うように転がっているのは、玉入れの籠だろうか。二年生、五年生と書かれた立札も、運動会で使われたのだろう。
校舎の前には被災学童鎮魂供養塔婆が立ち、色とりどりの花の傍らで、穏やかな表情のお地蔵様が両手を合わせている。色鮮やかなかざぐるまは、潮風に吹かれてクルクル回り、天国にいる子どもたちを楽しませてくれるのだろうか。
卒業生の作品なのだろう。銀河鉄道らしき列車が描かれた壁画の角は崩れ落ち、宮沢賢治の詩の一部「モマケズ」「ニモマケズ」だけが痛々しく残っていた。
仙台から石巻へ向かう高速バスで出会った、スティーブの言葉を思い出す。
あそこに Angel of Hope (希望の天使)と呼ばれる像があった。悲劇から二年以上経った今も、こうしてあの学校に足を運ぶことが、僕らは君たちを忘れていないんだよ、と伝えることになる。そしてそれが、日本の人たちが希望を失わないことにもつながれば、と僕は願っているんだ。
震災から数年経っても同じような思いで、国内だけでなく海外からも多くのボランティアが石巻に来ていた。作業は瓦礫の撤去などから、ビニールハウスの設置、仮設住宅訪問など、被災者の生活支援に変わりつつあった。草むしりのような地味な仕事も多いのに、どんなことでも役に立てれば、と自分で渡航費を払い、このためだけに日本を訪れていた。地元の人たちに負担をかけないようにと、寝袋や作業用の手袋、丈の長いゴム製の胸付き前掛けなども、自分たちで用意してきた。二年前から石巻に住み続けているアメリカ人にも出会った。
石巻でボランティア作業を終えて、夜、地元の銭湯へ行くと、アメリカ人女性が四、 五人、湯船に浸かって、おしゃべりしていた。私が声をかけ、ボランティアだと知った。
これまでは夫が来ていたので、今度は私の番なんです、とひとりがほほ笑んだ。
遠くからわざわざ来てくれて、ありがとう。
My pleasure.
どういたしまして。こちらこそ。
それは私の喜びびです。
ここにも、希望の天使がいた。
このエッセイは、文春文庫「ニューヨークの魔法」シリーズ第5弾『ニューヨークの魔法のじかん』
に収録されています。