さようなら、デイビッド

 シェフと顧客の関係を離れ、個人的にデイビッド・ブーレイに出会ったのは9・11の数週間後、やっと現場周辺の取材が解禁された時だった。

 トライベッカの彼のレストラン「ブーレイ」は世界貿易センターから7ブロック北の封鎖地域内。営業などできないのに店の前でオートバイ脇に立ちながら卵50箱、ヒラメ40キロと携帯電話で注文している。聞けばグラウンド・ゼロで救助隊ら作業員たちに炊き出しをしているのだと言う。「みんな温かい料理に飢えている。私はシェフだから」

 「ブーレイ」は90年代を通して世界で最も美味しい店の1つだった。ボキューズやロビュションやジラルデで修業した彼の料理はトマト水や香草や果実を多用して軽やかで優しく、その初の食体験をニューヨーカーたちは「ブーレイ・マジック」と呼んだ。

 彼の出現以前にアメリカはテイスティング・メニューもワイン・ペアリングも知らなかった。数種類ものパンをレストラン厨房内で焼くこともなかった。誰もが驚いたポテト・ピュレの原料フィンガリング・ポテトをアメリカに持ち込んだのもブーレイだ。フルトン・マーケットの魚は使えないとマサチューセッツのチャタムにトラックを乗り付け漁師から直接買い付けを始めたのも彼だし、漁師たちに日本で学んだ神経締めを教えたのも彼だ。ダイバーたちに潜ってホタテを取ることを注文した。さまざまなハーブエキス・オイルも発明した。バターとクリームに頼らないヌーベル・キュイジーヌは、アメリカではデイビッド・ブーレイから始まった。

 そんな天才シェフが9・11後、毎日ボランティアで二万食もの食事を現場で提供していた。まだニューヨークタイムズも書いていないその話を、私は日本のメディアに書いた。それから私たちは友人になった。

 そのころの彼は食の新たな可能性としての日本食に傾倒していて、ほぼ毎日私に日本文化のあれこれを質問し続けた。北海道から沖縄まで何度も一緒に訪日しては食材や調理法を探し歩いた。当時の園力氏の「饗屋」や西原理人氏の「嘉日」とともに、初めてニューヨークに(つまりアメリカに)スシでもテンプラでもない本当の会席・懐石料理の流れが始まったのは、彼が2011年に旗艦店隣に辻調理師専門学校の辻芳樹氏と山田勲シェフの創作会席「ブラッシュストローク」を開いてからだった。

 日本が大好きで、2011年の東日本大震災の際には半年後にダニエル・ブールーらニューヨークのシェフ9人で釜石まで飛んだ。友人でもある中華の脇屋友詞氏のトンポーローに自身のトリュフソースをかけたブーレイの料理は数千人の被災市民を感動させた。2015年には農水省から「日本食普及親善大使」外国人第一号を任命されてとても嬉しそうだった。この「週刊NY生活」紙上でも日本人読者向けに特別ランチコースを格安提供してくれたこともあった。

 朝起きたら、ニューヨークの友人たちから何通もメールが届いていた。私の25年間のニューヨーク生活で最も親しく大切な友人だったデイビッドの訃報。前日まで、私と4月の来日の打ち合わせをしていたのに。

 妻ニコールによれば2月12日、大雪の天気予報の前にスタッフ2人とコネチカット州ケントの自宅の庭や木々の整備をした後にワインや食事で歓談中に不意に倒れた。病院に運ばれたが13日未明、死亡が宣告された。「心臓発作」と報道されたが、彼は50代終わりに遺伝性の不整脈を診断されていた。左制動脚ブロックと呼ばれ、心室との電気的連動がズレる症状。不意の心停止。どうしようもなかった。70歳だった。

 葬儀のニューヨークに到着した。(武藤芳治、ジャーナリスト)

 写真=何度も訪れた京都で、大好きだった「天ぷら松」の松野俊雄シェフ(後列左端)らスタッフと会食したデイビッド・ブーレイ氏(前列中央)とニコールさん(その左)=2019年10月「下鴨茶寮」にて筆者(前列右から2人目)写す。