国連アート探訪⑥
よりよい世界への「祈り」のシンボルたち
星野千華子
国連本部の広々とした庭にはたくさんのモニュメントが見られますが、そのなかにドイツの政府と国民から贈られた「ベルリンの壁」があります。ベルリン市内のポツダム広場に立っていた現物です。もともと東ベルリン側にあり、今はイーストリバーに向いた東面には若いカップルが壁を乗り越えて身を寄せ合う姿が淡い青地の上に描かれています。画家のカニ・アラヴィの手による作品です。アラヴィの目には、壁崩壊の当日にアパートの窓から見た、たくさんの人々が怒涛のように西ベルリンに流れ込んでくる光景が焼きついているといいます。
壁は、第2次世界大戦後の冷戦によって東西に分断されたドイツで旧東独内に離れ小島状態となった西ベルリンを155キロにわたり取り囲むものでした。初めのうちは鉄道や市電なども使って市民は東西を自由に行き来できたベルリンですが、自由とよりよい生活を求めて西側に流出する東側の市民が全人口の10%、164万人にも及ぶと見過ごせません。東独を支配するドイツ社会主義統一党の幹部で後に国家評議会議長として最高指導者になるホーネッカーの命令により、1961年8月13日、一夜にして壁が建築されたといわれています。
突然の壁の出現で職場や家族、友人、恋人と離れ離れにされた市民たちの驚きと不安と絶望はいかばかりであったかと思います。壁を越えようとした130人を超す東独市民が国境警備隊により射殺され、また、多くが投獄されるなどの悲劇に見舞われました。ですが、その壁は1989年11月9日、一夜にして崩れ落ちることになります。
米ソ冷戦の雪解けや東欧革命が進むなか、東ベルリンでも自由を求め、「シュタージ(秘密警察)よ去れ」とデモを繰り返し、抵抗した人々がいました。また、ハンガリーやチェコスロヴァキアに逃れ西独政府に保護を求める東独難民も数千人に膨れ上がります。この変革の波でホーネッカー自身も失脚します。
対応に追われた東独政府はその日、記者会見で「すべての東独国民に出国を認める」と発表します。これは党のスポークスマンだったギュンター・シャボウスキーの「世界一素敵な勘違い」として知られています。つまり東独政府は旅行の自由化はベルリンの壁を除く出国を意味していましたが、事情をよく理解していなかったシャボウスキーが記者に「いつ?」と問われ「直ちに」と答えたことで、市民が壁に殺到して崩壊に繋がったのでした。
それから30年余りが経ち、この壁のセグメントはいま世界40か国・地域以上の237か所に移設されたとのことですが(壁の行先を調査する独政府系基金の記録)、そのうちの一つが国連本部に置かれました。
以前、神戸に暮らしていた折、お招きを受けたベルリンの壁崩壊20周年式典でカールステン独総領事が「20年かけて東西の経済格差が2倍にまで縮まった。東西の分断を乗り越え、ドイツ人として共に未来を築いていける」と感慨深そうに話しておられたことが思い出されます。
さらに10年が経った今はどうでしょうか。政府の報告書では、東西統一を成功と感じているのはわずかに38%、自分は東独市民だと考える人たちが47%、同時に「二級市民」だと感じる人たちが57%。夢見ていた東西ドイツの再統一のはずなのに、思い描いていた未来と現実のギャップに苦しむ様子がうかがえます。そのギャップは焦りを呼び、不安を引き寄せ、絶望は怒りに変わります。
この見えない壁は今日、世界中に広がっています。自分たちだけは安全な壁の中に引きこもって、外の世界は見て見ないふり、もそのひとつなのではないでしょうか。自らも東独出身で分断された祖国の記憶を持つメルケル首相がベルリンの壁崩壊30周年記念の式典で語った言葉をもう一度かみしめてみたいと思います。「人々を排除し自由を押さえつける壁がどれほど高くても、壊せない壁はない。わたしたちは、どんな言い訳もせず、自由と民主主義のために責任を果たさなければならない」。
(筆者は国連日本政府代表部幹部の配偶者でニューヨーク在住)