Prayers for Japan 日本への祈り

 二〇一一年三月十一日のあの日を、私はニューヨークで迎えた。朝起きると、日本にいる家族からは無事を知らせるメールが、私が東京にいると思っていた友人からは安否を尋ねるメールが続々と届いていた。

 あわててテレビをつけると、大津波に村ごと飲み込まれる映像が繰り返し流されていた。すぐにでも日本に飛んで帰りたかった。眠れない夜が続いた。仕事も手につかず、テレビの悲惨な映像を見ては、涙していた。無力感に打ちひしがれた。

 母国の大惨事に、ともに日本で痛みを分かち合えないことが辛かった。これと同じ感覚を味わったことがある。ちょうど十年前の二〇〇一年九月十一日だ。その数日前にニューヨークを発ち、東京であの事件を知った私は、ニューヨークの人々とともにいられないことが、悔しく悲しかった。

 震災の日の午後、米企業の人事部で働く友人のジェネファーから、義援金を募る社内メールが私の元へ転送された。その迅速さに驚いた。日本とは直接、関わりのない企業だが、多数の社員から被災者を援助したいとの声があがったという。

 ニューヨークに住む知り合いの韓国人女性、グレイスは、韓国系の子どもたちが週末に通う補習校を設立し、昨年度まで校長を務めていた。校長の座を退いた今も、毎週土曜日の早朝、これまでと同じように、タクシーで学校に向かう。

 東日本大震災の翌日は、土曜日だった。グレイスがタクシーに乗り込むと、開口一番、運転手が言った。

 日本の人たちのために、祈っているんだ。彼は何年もグレイスを学校まで送り届けてきたから、彼女が日本人ではないことはもちろん知っている。

 誰かに言わなければ、いられなかったんでしょう。みんながそういう思いだったんですよ。グレイスは、私に言った。

 大震災の四日後、マサチューセッツ州ハイアニスからマンハッタンまで、長距離バスに八時間、乗った。途中、ロードアイランド州のプロビデンスでバスを乗り換えた。運転手は言葉遣いがとてもていねいで、誠実な人柄がにじみ出ていた。

 私は反対側の最前列にすわっていたので、プロビデンスは水辺の美しい街ですね、と運転手に話しかけた。彼はうなずき、話し始めた。

ロードアイランドは、アメリカ建国十三州のひとつで、全米五十州で一番小さいけれど、名前は一番長いんですよ。State of Rhode Island and Providence Plantations。プロビデンスは一六三六年にロジャー・ウィリアムスが入植し、「神の慈悲深い摂理」という意味なんです。

 そう説明し終え、私に聞いた。どれだけアメリカ史に詳しいか知りませんけれど、あなたはアメリカ生まれですよね。

 いえ、日本です。

 日本から。そう言うと、彼は黙り込んでしまった。そのあとも、彼の車内放送はていねいで、車間距離を十分に取り、安全運転だった。

 深夜、マンハッタンのバスターミナル、ポートオーソリティに到着した。運転手はドアの脇に立って、乗客ひとりひとりに挨拶している。私は伝えた。あなたはとても感じがよく、心地よい旅でした。ありがとう。

 運転手は私の両手を握ったまま、離そうとしなかった。言葉を選びながら、かみしめるように、話した。

 本当にお気の毒に。あなたの国の人々のために、祈っています。私も募金しますから。あなたも、くれぐれも体に気をつけて。神のご加護がありますように。

 同じ頃、マンハッタンのグリニッチビレッジで、床屋の前を通りかかった。モダンだったが、昔、日本にもあった床屋のような懐かしさを覚えた。写真を撮ってもいいですか、と尋ねた。

 私が日本人だと知ると、店の人は手を休めて、言った。

 何だって、オーケーさ。日本のためになるんなら。

 ニューススタンドやカフェなど、あらゆるところに、「日本を助けよう」と義援金箱が設けられた。言葉を交わしたメキシコ出身のドアマンが、私にほほ笑んだ。

 どこかの国が困っていると、世界中が助け合う。すばらしいよな。今は日本の番だけど、メキシコも前に、世界中の人に助けてもらったんだ。

 震災直後、ニューヨークの部屋でテレビに釘づけになり、夜も眠れない状態が続いていたとき、ゲイである友人のジェリーが、心配して毎日のようにメールをくれた。

 仕事はしているかい。食べているかい。僕が美味しい料理を作るよ。君さえよければ、しばらくうちに泊まったらどうだい? すぐに日本に帰れなくても、いつか日本の人たちの力になれるように、今ここでエネルギーをいっぱいためておくんだ。そのときが必ず、やってくるから。

 「ニューヨークの魔法」シリーズ第4弾『ニューヨークの魔法のさんぽ』のあとがきから抜粋しました。

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