「ゲルニカ」その2

「絵を描くのは部屋を飾り立てるためではない。敵と戦うための武器なのだ」
パブロ・ピカソ

「ゲルニカ」制作当時ピカソと生活を共にしていたドラ・マール。彼女自身、写真家でもあり芸術家でもあったのですが、彼女はピカソが絵の描き始めから完成までを3000枚に及ぶ写真で記録しています。
 完成作品はモノクロですが、当初は色づけも考えられていたようで、随所に金色などの紙が貼られていました。彼女の記録によると、終盤まで、牡牛の目の下には紙で作られた一粒の赤い涙が貼りつけられていたそうです
「ゲルニカ」の持つ影響力について書いてまいりましたが、ではそもそもなぜロックフェラー家は、このタペストリーの「ゲルニカ」をスペインに送り出したあとのMoMAにではなく、国連に飾ることにしたのでしょうか?
 調べると、国連へのローンの話は、ネルソン・ロックフェラー氏の死後、1985年に未亡人のハッピー夫人とペレス・デクエヤル国連事務総長(当時)との社交の夕食の席でまとまったとされています。
 ネルソンは、MoMAの設立にもかかわった母親(ジョン・ロックフェラー2世の夫人)譲りの美術愛好家で特に近代芸術のコレクターとして有名でした。その彼が喉から手が出るほどに所有したかったのが「ゲルニカ」で、ピカソ本人に打診したものの断られ、それではと、1955年、タペストリーでの再現をピカソに発注したのがこの作品です。ネルソンが生まれ育った邸宅にはフランドル地方で織られた「一角獣の狩り」などの名品が飾られていました。(いまはクロイスターズ美術館で観られる大作シリーズです。ちなみに、映画『ハリー・ポッターと謎のプリンス』の1シーンでホグワーツ城のなかで「囚われの一角獣」のタペストリーが使われています。)タペストリーはネルソンにとってとても馴染みのあるアートのかたちだったのです。
 タペストリーの「ゲルニカ」は、ネルソンが、ニューヨーク州知事時代、オールバニーの知事公邸に飾られていました。ハッピー夫人とデクエヤル事務総長との会食でこのタペストリーを国連に貸し出すことが決まった背景にはもう一つ、国連本部をニューヨークに誘致するにあたり、ネルソン自身も精力的に動き、父親のジョン・ロックフェラー2世から用地取得の寄附も取り付けるなど、大きな役割を果たしたことから、夫人にとっては夫の思いを引き継ぐという側面もあったのではないでしょうか。
 ロックフェラー家には実業家であるとともに慈善事業家としての伝統があります。初代のジョン・D・ロックフェラーは言わずと知れたアメリカの石油王ですが、自身は貧しい家庭の六人兄弟の二番目として生まれています。高校卒業し、経理の仕事に就き、20代で事業を起こし、その後石油関連の事業で一時90%の市場を独占するまでの大実業家となります。
 敬虔なクリスチャンでもあり収入の10%を寄付することも欠かしたことはなかったようです。ただ彼が55歳のとき病を得て余命一年と宣告されたのを機に、今一度自分の人生を振り返り、58歳の若さで事業から引退をしたときには、自らの使命を「莫大な財産を貯めること」から「莫大な財産を世の中のために使うこと」に変え、世界有数の慈善事業家となりました。
 世の中のために財産を使うとは、誰よりも強く世界の平和を願っていたということかもしれません。国連のたったひとつの目的は「よりよい世界を築くこと」。そのために、それぞれがそれぞれのできることに、心を尽くし、祈りを結集させる努力を怠らない。第二代事務総長のハマーショルドが言っているように、国連は人々を天国に導くものではなく、地獄から救いだそうとするものです。長く忍耐力のいる、痛みの多い道のりです。
その道のりにひるむことなく、まっすぐによりよい世界を築く「いまを生きる当事者」としての責任を感じます。
「ゲルニカ」のタペストリーを目にするたび、目撃者でもあり、証言者でもあり、当事者として襟を正す気持ちがしております。(筆者は国連日本政府代表部幹部の配偶者でニューヨーク在住)