「ピカドン」故・飯塚国雄の個展

ナガサキピースミュージアムで開催


 ニューヨークで活動した日本人画家、故・飯塚国雄の個展「ピカドン ー 被爆者だった父にささげる水彩画展」が長崎市のナガサキピースミュージアムで8月12日まで開催されている。作品「ピカドン」は飯塚の没後にニューヨークで発見された水彩画シリーズで、飯塚の父親が暮らした長崎の地が初公開の会場となった。(キュレーター・うちだかずこ)

倉庫で黒い箱発見

 ニュージャージーにある飯塚の倉庫には膨大な量の絵画や版画、彫刻などが保管されている。話はさかのぼるが飯塚の没後、長男で一人息子の励生(れお)さんと私が庫内の整理をしていた際、段ボール箱・黒い箱・黒いフォルダーと幾重にも梱包された「PIKADONーA  TALE OF THE BIG BLAST」が見つかった。水彩画10点からなるブックアート(絵巻本)が、うず高く積まれた作品群の奥深い所で日の目を待っていたのだ。絵巻本の巻頭には「被爆者だった父に捧げる。ニューヨークから、国雄。1983年」 とあった。

 飯塚は1939年東京生まれ。1961年に西海岸へ渡り、64年からはニューヨークを拠点に彫刻・絵画・版画等の分野で活発な創作活動を続けるが、70年代に疎遠だった父親が被爆者であることを知ってからは、原爆・戦争・難民・飢餓をモチーフとした作品群で平和の大切さを発信してきた。95年には国連50周年記念の特別個展で「炎・ナガサキ」「灰・ヒロシマ」などを発表した。その一方で、恋人や家族との愛・摩天楼シリーズなどの油彩画をはじめ、宮沢賢治の寓話をテーマに版画10連作を手がける。2020年7月、半世紀以上を過ごしたニューヨークにて永眠。飯塚はニューヨーク日本人美術家協会(JAANY)の創設者。

 今回展示の燃え盛る「ピカドン」の気迫に満ちたコンセプトは、飯塚の代表作「炎・ナガサキ」(長崎原爆資料館蔵)の原点ともいえる。飯塚は国連で個展の際、長崎を訪れる多くの子供たちが「炎・ナガサキ」を見て悲惨な歴史を忘れずに、平和な世界を築いてほしいとコメントしている。鑑賞者の一人は「案外明るい色彩の中にも背景にぐにゃりと曲がった鉄骨が描かれていたり、水彩ならではのじんわりした滲みだったり、飯塚さんの静かな怒りのメッセージが届くようでした。子どもたちにも『ピカドン』を見て平和学習の知識と合わせて考えが深まるといいな」と感想を記していた。

(写真上)飯塚のビデオを見る長崎大学名誉教授・井川惺亮さん(奥)

飯塚が被爆した父に捧げる水彩画展
長男の励生さん長崎に持ち帰る

制作から40年を経て

父・国雄の水彩画の前に立つ長男の励生さん

 飯塚国雄の長男、励生さんは1970年、両親と一緒にニューヨークから日本へ旅したとき長崎の祖父に初めて会った。「祖父は1945年8月9日の数日後に家族を探すため長崎に戻ったときの恐ろしい光景を私の父に語っていました。祖父は最後に『長崎で何が起こったのか知ってるはずなのに、なぜお前はアメリカに住みたいのか』と父に尋ねた。以来、父は核爆撃/戦災、反戦、ホームレス、テロの問題を見過ごさずに、彼の芸術を通して《平和》のメッセージを世界へ向けて発信するため、最も国際的な都市であるニューヨークに住み続けることが大事だと決心したようです。その一つ、祖父の体験が父の芸術として表現され、ピカドンいう絵巻本になり、制作から40年を経て、長崎へきました」。

 ナガサキピースミュージアムは、世界へ平和を発信しようと1995年に発足したピーススフィア貝の火運動(会長さだまさし)を母体とし、2003年4月に建設された。海外・国内から多くのクルーズ客船が寄港する長崎港松が枝国際ターミナルの一角に位置し、小さな美術館ながらも世界各地からの旅行者の来館が絶えない。これからは長崎からも飯塚作品の平和アピールが世界各地へ届くことだろう。

*ナガサキピースミュージアム http://www.nagasakips.com